ふしぎな感じだ。あの奈保美が、十年間俺の思い出の中にしかいなかった女が、夜に、俺の部屋にいる。
部屋は、午前中に出て行った時のままになっており、ひとり暮らしの男、兼作家の部屋らしく、あまり綺麗にはしていなかった。作画用の資料として購入した、ちいさな石膏や昔のキャンバスや、気に入った硝子の置物などが、まばらに置いてあり、汚すぎるわけではないが、落ち着いていない状態だ。
事前に来客がわかっていれば綺麗にするタイプだった。そういう、自覚がある。
「ごめんね。あんたが来るって、予定してなくて。部屋あんま片付いてないかも」
俺は部屋に置かれているさまざまなものを、腰を曲げてたのしげに見下ろして巡っている奈保美に向かって言った。
「すごいなぁ。漫画家の部屋なんて、初めて入ったよ。あっ、なんだいこれは。 へー、こんなのもあるんだ。あっ、これって__」
床に無造作に置いてある、ちいさな石膏やキャンバスに顔を近づけて、においを嗅ぐように、ふんふんと首をかすかにゆらしている。どこかで見たことがある仕草だと思ったが、公園を散歩している犬だった。奈保美は犬でいうと、コッカースパニエルだな、とくだらないことを思って、心を落ち着ける。毛色はレッドかな。
部屋に入るときに、一度照明をつけたが、俺が、ベランダからの夜景が綺麗だと教えると、奈保美は見てみたいと言ったので、途中で消した。
昼よりも高い位置にある空気と、紺色の気配が、部屋の中に満ちみちている。
俺はベランダのほうへ顔を向けながら、宵闇色に染まった窓に映った奈保美の横顔を、みつめていた。かすかにしか輝きが見えない白い星に重なった、透明な奈保美が、まぶたを閉じてうっとりとするような表情で、俺の部屋を物色している。
その姿を見ているだけで、喉の奥が痛み、胸の中の血がざわめいて、心臓に糸が巻き付けられた。からだ全体が、痺れるように痛い。だが、その痛みを心地よいと感じていた。今まで、なかったことに、気づかないようにしようとしていた、内側に秘められていた、奈保美への想いだった。自分でこれほど強く抑えつけていたことに、ようやく気付いた。
音のしない息を吐く。窓硝子が白く濁って、奈保美の細長い頭身を霞ませる。俺の中の最後の理性が、水蒸気となって霧散し、天井へ登って、暗い白を撫でてゆく。
「春一郎くん」
「え?」
名前を呼ばれて、俺は振り返った。
「これは何?」
俺は窓から離れて、奈保美のほうへ近寄っていった。
部屋の中にいても、空気がつめたく頬を撫でる。夜の青さが、身体にまとわりついて。自然と奈保美のすぐ隣に並ぶ形となる。煙草の馥郁とした薫りと、麝香を用いた香水のかおりが入り混じったものが、奈保美の髪や首すじ、肩からはらはらと漂っている。
半分まぶたを閉じ、彼女のゆびさすほうへ視線を向けた。
「ああ、それは……」
奈保美がすっとゆびさしていたのは、裸婦画だった。
いつ描いたのかも、俺自身忘れていた絵だった。経年劣化で、うすく灰色に汚れてしまったキャンバスに、木炭で描かれている。削るような質感のある線は、一度で線を決められずに、幾重も細い線が重なって、ひとつの主線を作っていた。悩みながら描いた思考の跡が、残っていた。他のキャンバスや画材の間に挟まって、少しだけ顔を出していたものだ。
奈保美が気にかけているので、片手で引っ張って全体を出す。
そこに描かれている女を見て、思い出した。
黒髪の長い髪を、川で洗っているようなポーズ。川は描かれず、空白で、そこに何が描かれているかを、鑑賞者に想起させようとした。白い背中をこちらに向けて、首を巡らせ、感情のない黒目が、こちらを真っ直ぐにみつめている。背中には、肩のあたりにひとつだけ黒子が描いてあった。
「ああ、これ。最初の個展で飾ってもらったやつだ」
俺はかすかに笑顔になり、昔を懐かしむ。
「本名で2、3年裸婦画家だけやってたころに描いたやつ。そん時に売れなかった絵の中でも、ちょっと気に入ってて、自分でずっと持ってて。一昨年あたりまで、部屋の壁に飾ってた」
話しながら、おかしくなって声を出してわらう。思ったより乾いた声だった。売れなかったころのことを、自然と思い出し、勝手にしゃべりだす。
「あのときは全然売れなくて、美術予備校の講師のバイトも掛け持ちしてたけど、いろんな裸の女を、キャンバスっていう大きな画面の中に、心のままに描けていて、たのしかったな。大学ん時、授業で日本美術史の美人画の講義取っててさ。江戸時代から現代までの、色々な画家が描いた美人画を見ていって。美術館にもよく足運んでたな。そこから感じたものとか、得た技術とか、自分の作品にも生かそうと、もがいてたっけ。なっつ」
俺と反対に、奈保美はしずかな顔で絵をみつめ続けていた。鼻すじに、夜の薄青い月光の線が走っている。いつの間にか彼女は腕を組んでいた。うつむいた首すじに、背中に流れた髪が、ゆるやかなラインを描いてこぼれている。橙の髪のすじに、さらに濃い、青の影がうまれていた。
真横から見る奈保美の琥珀の眸は、さらに澄んで、まばたきひとつしていない。ぼんやりと、夜の川に蛍のひかりが浮いているようだった。
「君は絵を描き続けて……。私はモデルを辞めてしまった。私たちの関係も、立場も何も変わらないと思っていたけれど、私だけが、あの時から変わってしまったようだ。それを少し、寂しく感じるよ」
「奈保美さん……」
奈保美は顔をあげると、微笑を浮かべた。濡れているようにも、乾いているようにもみえる。このまま霞となって、消えてしまうのではないだろうか、と思わせるような切なさが滲んでいた。
植物が溶けた水のにおいが、鼻にふれる。
奈保美の髪にしずくがひとつ、ついていた。
雨は降っていなかったはずだ。いや、俺が気付いていなかっただけで、本当はどこかの瞬間に降っていたのかもしれない。ここに至るまでの空気の湿りを思い返す。
「奈保美さん。髪__」
俺は言いながら、奈保美の髪に無意識に片手を伸ばしていた。
奈保美が驚いて目を瞠る。からだごと俺のほうを向いたことで、肩にこぼれていた髪が、ふわりと舞いあがる。
風のない部屋の中で、水をふくんだ夜風が吹いた気がした。
奈保美の髪のひとふさを、親指とひとさし指で摑んでいた。
ゆびを離し、奈保美の後頭部へ手を移動させ、顔を寄せると、その厚いくちびるにくちづけた。皮膚の表面のぬめりから、電流がほとばしる。やわらかな肉と肉のぶつかり合いに我慢できず、俺はくちびるをかるくひらくと、彼女の厚いくちびるを覆うように食んだ。
奈保美は、何か言いたげに、逃げるように顔を背けようとしていたが、頬を片手で強く摑み、顔を固定すると、あきらめたのか、受け入れたのか、それとも望んでいたのか、俺の攻撃をくらった。
息は乾いたものから、ねばついて生々しい熱さへと変わってゆき、からまる唾液は、ぬめりを増していった。
いつの間にか舌がふれ、蛇と蛇が交尾をするときのように、深くからまっては、互いの表面を舐め続けていった。
ざらりとした奈保美の紅い舌はあまく、粘液がさらさらとしており、ひとつに溶けた。火が灯るように舌先は熱くなり、奈保美に十分にふれていると、また乾いて、つめたくもなっていった。
くちづけとくちづけのあいだに、質感と量を感じさせるような、重くて熱い呼気のかたまりが、口の横からこぼれていった。
奈保美のくちびるは、驚くほどやわらかかった。俺の口の動きに合わせて変わり、また弾力を持って押し返してくる。十年分の隙間を埋めるように、また、十年前に埋められなかった隙間を求めるように、俺は奈保美を求め続けていた。
理性を取り戻したのか、一度奈保美が俺を剥がそうともがいたが、彼女の二の腕を強い力で摑むと、次第に大人しくなり、最後には、もともとひとつだったのではないかというほどに、落ち着いて俺を受け入れていた。
俺たちがくちづけているあいだも、部屋はそのまま夜に停滞し、くらい色を灯し続けるだけだった。手にふれられるのではないかというほどの、質感のある紺色に染まっていた。
俺はくちづけながら、奈保美の鎖骨をゆびさきで撫で、彼女が反応したことで、襟の中に手を差し込んだ。
はじめて手でふれた奈保美の肌はつややかで、どこにも引っ掛かるような凹凸がなく、なめらかだった。そのなめらかさに誘導されるように、右胸に手をおろし、ブラジャーの中にゆびを入れる。
かさついたレースの布と、胸の下を覆うワイヤーの硬さに、ゆびの甲がふれる。
くちびるを離すと、熱く荒い吐息と鼻息が、湿った互いのくちびるにかかった。
「そこは……」
奈保美が、服越しに俺の片手の上に手を置いた。割と強い力で押しつけたので、奈保美の大きな胸が潰れ、弾力を持って押し返してくる。吸い付くようななめらかな肌が、てのひらにふれた。皮膚は少し、冷えていた。
俺は、空いた左手で奈保美の顎を強く摑むと、俺のほうを真っ直ぐに見るように仕向けた。
彼女のくちびるは震え、瞳は水分をふくんで、ゆれて熟れていた。頬は夜の影を纏って、青くつやめいており、どれほどの血色を表しているのか、定かではない。
「俺は十年前、あんたが公園で歌っている姿をみてから、あんたに惚れてた。さらに白状すると、あんたをおかずにして抜いたり、あんたに似た背格好の女を、あんたの代わりに何度か抱いたこともある。あんたもほんとは、そうなんじゃねえのか」
「はは……、すごいこと言うんだね。言ってて恥ずかしくならないの?」
「別に」
「ほんっとうに、面白いな……君は。んっ……」
奈保美の胸を摑む力を強める。ゆびとゆびのあいだに、肉が盛りあがり、ブラジャーの硬い生地のレースの質感が、さらに濃く伝わってくる。
奈保美が首を左へ傾けてうつむき、まぶたを閉じる。まるいまぶたの盛りあがりに月光があたり、青白くひかる。気付けば俺は、そのひかりを舌先で舐めていた。
塗られていたアイシャドウが俺の舌に移って、舌先に金の人工的なきらめきが宿る。
奈保美とふたたび目が合う。宵闇の青の世界で、彼女の眸だけが飴色にかがやいていた。引き込まれ、息を吸うようにくちびるを求めた。さっきよりも彼女の口の中の温度があがって、息も荒くなっている。
生暖かく湿った息を俺は吸い込んだ。肺に、彼女の中に残っていた真昼の空気が吹き渡る。
俺はその夜、奈保美のからだを激しく求めた。はじめて食事を与えられた乞食が、飯にがっつくように。
シャワーに入ることもせず、整えていないベッドに倒れて。
掛け布団は、端にくしゃりとゆるく固まって、動くたびに、俺の脚やふくらはぎにふれて、ゆれていた。
波のようになびくシーツよりも、奈保美の肌のほうが、なめらかだった。永遠に撫でていられるのではないかというほど、俺は奈保美の皮膚のすみずみまで、ゆびの腹で撫でていた。時には圧力をかけて、時にはふれるかふれないかの距離で。
その度に奈保美の肌を湿った汗が覆い、ひくひくと感電した魚のようにふるえた。
奈保美は、どこを撫でても感じるようで、高く低く枯れた声で鳴いた。快楽が強すぎるのか、俺から逃れようと横向きになると、ベランダからさす街灯のあかりに腰がなでられ、薄青の影が、太ももの広い面に描かれる。
俺は暗闇に隠れた細い腰を強く寄せて、後ろから交わり、どの角度からも逃れられないようにした。俺が腰を動かすと、奈保美の尻がやわらかく変形し、そのまま溶けて、俺を覆う粘ついた熱が、どこまでも果てなく続いていった。
ときおり俺を睨むようにも、みつめるようにも、琥珀の瞳が闇の中で恒星のようにきらめいてとらえた。
その度に俺は、奈保美という沼に身を深く沈めて、溺れていった。
俺たちは海水になっていた。つめたくも熱い本流が、混じり合って、重なって、流れ続けていった。
深夜三時ごろ、にわか雨が降り、紺を灰色に染めた。
快楽の彼方へ突き抜ける、果てを迎える直前に、奈保美の右脚を肩に担ぎ、より深く繋がった。雷が互いの身体のあいだに落とされる。強い快楽がほとばしり、血を逆流させる。
奈保美は俺の名前を叫びながら、海老のようにそりかえって腰をあげた。泣き叫ぶような声をあげ、つまさきから全身を痙攣させると、一拍置いて大粒の汗を毛穴中から吹き出し、仰向けにくずおれた。
白いシーツに汗が飛び、真っ赤になった奈保美の顔が、そこに林檎が落ちたように映えていた。むせかえるような女のにおいが広がり、湿った空気に、さらに熱く湿った奈保美の吐息が蒸気する。瞳は、赤ワイン色に染まってとろりと溶けて、焦点を定めない。
俺はからだを屈めて彼女の開いたくちびるを貪ると、彼女の奥深くに残していた己の蛇をさっと取り出して、窪んだ腹の上へ、白い性液をぶちまけた。肌理こまやかな肌の上をすべり、胸の丘で止まって、流れを止めた。
嗜虐的な笑みを浮かべ、額からこぼれる汗のしずくを垂れ流しにしていた。からだは熱く、満足感と虚無感に満たされている。荒い息を吐いて腰を落とし、血抜きされた獣のように、かくりと前へ倒れた。伏せた枕からかすかに顔をあげ、隣で眠る奈保美の、高い鼻すじを見やる。
「奈保美……」
途切れてゆく意識の最中、彼女の腹の上に撒かれた己の白が、乾いてこびりつかないように、そばにあったティッシュペーパーで幾度かそっと、拭ってやった。やがてティッシュペーパーが手からさらりと離れ、てのひらに淡い呼吸の振動を感じたのと同時に、その夜の意識を手放した。すべての体力を使い果たした、心地の良いねむりだった。
部屋は、午前中に出て行った時のままになっており、ひとり暮らしの男、兼作家の部屋らしく、あまり綺麗にはしていなかった。作画用の資料として購入した、ちいさな石膏や昔のキャンバスや、気に入った硝子の置物などが、まばらに置いてあり、汚すぎるわけではないが、落ち着いていない状態だ。
事前に来客がわかっていれば綺麗にするタイプだった。そういう、自覚がある。
「ごめんね。あんたが来るって、予定してなくて。部屋あんま片付いてないかも」
俺は部屋に置かれているさまざまなものを、腰を曲げてたのしげに見下ろして巡っている奈保美に向かって言った。
「すごいなぁ。漫画家の部屋なんて、初めて入ったよ。あっ、なんだいこれは。 へー、こんなのもあるんだ。あっ、これって__」
床に無造作に置いてある、ちいさな石膏やキャンバスに顔を近づけて、においを嗅ぐように、ふんふんと首をかすかにゆらしている。どこかで見たことがある仕草だと思ったが、公園を散歩している犬だった。奈保美は犬でいうと、コッカースパニエルだな、とくだらないことを思って、心を落ち着ける。毛色はレッドかな。
部屋に入るときに、一度照明をつけたが、俺が、ベランダからの夜景が綺麗だと教えると、奈保美は見てみたいと言ったので、途中で消した。
昼よりも高い位置にある空気と、紺色の気配が、部屋の中に満ちみちている。
俺はベランダのほうへ顔を向けながら、宵闇色に染まった窓に映った奈保美の横顔を、みつめていた。かすかにしか輝きが見えない白い星に重なった、透明な奈保美が、まぶたを閉じてうっとりとするような表情で、俺の部屋を物色している。
その姿を見ているだけで、喉の奥が痛み、胸の中の血がざわめいて、心臓に糸が巻き付けられた。からだ全体が、痺れるように痛い。だが、その痛みを心地よいと感じていた。今まで、なかったことに、気づかないようにしようとしていた、内側に秘められていた、奈保美への想いだった。自分でこれほど強く抑えつけていたことに、ようやく気付いた。
音のしない息を吐く。窓硝子が白く濁って、奈保美の細長い頭身を霞ませる。俺の中の最後の理性が、水蒸気となって霧散し、天井へ登って、暗い白を撫でてゆく。
「春一郎くん」
「え?」
名前を呼ばれて、俺は振り返った。
「これは何?」
俺は窓から離れて、奈保美のほうへ近寄っていった。
部屋の中にいても、空気がつめたく頬を撫でる。夜の青さが、身体にまとわりついて。自然と奈保美のすぐ隣に並ぶ形となる。煙草の馥郁とした薫りと、麝香を用いた香水のかおりが入り混じったものが、奈保美の髪や首すじ、肩からはらはらと漂っている。
半分まぶたを閉じ、彼女のゆびさすほうへ視線を向けた。
「ああ、それは……」
奈保美がすっとゆびさしていたのは、裸婦画だった。
いつ描いたのかも、俺自身忘れていた絵だった。経年劣化で、うすく灰色に汚れてしまったキャンバスに、木炭で描かれている。削るような質感のある線は、一度で線を決められずに、幾重も細い線が重なって、ひとつの主線を作っていた。悩みながら描いた思考の跡が、残っていた。他のキャンバスや画材の間に挟まって、少しだけ顔を出していたものだ。
奈保美が気にかけているので、片手で引っ張って全体を出す。
そこに描かれている女を見て、思い出した。
黒髪の長い髪を、川で洗っているようなポーズ。川は描かれず、空白で、そこに何が描かれているかを、鑑賞者に想起させようとした。白い背中をこちらに向けて、首を巡らせ、感情のない黒目が、こちらを真っ直ぐにみつめている。背中には、肩のあたりにひとつだけ黒子が描いてあった。
「ああ、これ。最初の個展で飾ってもらったやつだ」
俺はかすかに笑顔になり、昔を懐かしむ。
「本名で2、3年裸婦画家だけやってたころに描いたやつ。そん時に売れなかった絵の中でも、ちょっと気に入ってて、自分でずっと持ってて。一昨年あたりまで、部屋の壁に飾ってた」
話しながら、おかしくなって声を出してわらう。思ったより乾いた声だった。売れなかったころのことを、自然と思い出し、勝手にしゃべりだす。
「あのときは全然売れなくて、美術予備校の講師のバイトも掛け持ちしてたけど、いろんな裸の女を、キャンバスっていう大きな画面の中に、心のままに描けていて、たのしかったな。大学ん時、授業で日本美術史の美人画の講義取っててさ。江戸時代から現代までの、色々な画家が描いた美人画を見ていって。美術館にもよく足運んでたな。そこから感じたものとか、得た技術とか、自分の作品にも生かそうと、もがいてたっけ。なっつ」
俺と反対に、奈保美はしずかな顔で絵をみつめ続けていた。鼻すじに、夜の薄青い月光の線が走っている。いつの間にか彼女は腕を組んでいた。うつむいた首すじに、背中に流れた髪が、ゆるやかなラインを描いてこぼれている。橙の髪のすじに、さらに濃い、青の影がうまれていた。
真横から見る奈保美の琥珀の眸は、さらに澄んで、まばたきひとつしていない。ぼんやりと、夜の川に蛍のひかりが浮いているようだった。
「君は絵を描き続けて……。私はモデルを辞めてしまった。私たちの関係も、立場も何も変わらないと思っていたけれど、私だけが、あの時から変わってしまったようだ。それを少し、寂しく感じるよ」
「奈保美さん……」
奈保美は顔をあげると、微笑を浮かべた。濡れているようにも、乾いているようにもみえる。このまま霞となって、消えてしまうのではないだろうか、と思わせるような切なさが滲んでいた。
植物が溶けた水のにおいが、鼻にふれる。
奈保美の髪にしずくがひとつ、ついていた。
雨は降っていなかったはずだ。いや、俺が気付いていなかっただけで、本当はどこかの瞬間に降っていたのかもしれない。ここに至るまでの空気の湿りを思い返す。
「奈保美さん。髪__」
俺は言いながら、奈保美の髪に無意識に片手を伸ばしていた。
奈保美が驚いて目を瞠る。からだごと俺のほうを向いたことで、肩にこぼれていた髪が、ふわりと舞いあがる。
風のない部屋の中で、水をふくんだ夜風が吹いた気がした。
奈保美の髪のひとふさを、親指とひとさし指で摑んでいた。
ゆびを離し、奈保美の後頭部へ手を移動させ、顔を寄せると、その厚いくちびるにくちづけた。皮膚の表面のぬめりから、電流がほとばしる。やわらかな肉と肉のぶつかり合いに我慢できず、俺はくちびるをかるくひらくと、彼女の厚いくちびるを覆うように食んだ。
奈保美は、何か言いたげに、逃げるように顔を背けようとしていたが、頬を片手で強く摑み、顔を固定すると、あきらめたのか、受け入れたのか、それとも望んでいたのか、俺の攻撃をくらった。
息は乾いたものから、ねばついて生々しい熱さへと変わってゆき、からまる唾液は、ぬめりを増していった。
いつの間にか舌がふれ、蛇と蛇が交尾をするときのように、深くからまっては、互いの表面を舐め続けていった。
ざらりとした奈保美の紅い舌はあまく、粘液がさらさらとしており、ひとつに溶けた。火が灯るように舌先は熱くなり、奈保美に十分にふれていると、また乾いて、つめたくもなっていった。
くちづけとくちづけのあいだに、質感と量を感じさせるような、重くて熱い呼気のかたまりが、口の横からこぼれていった。
奈保美のくちびるは、驚くほどやわらかかった。俺の口の動きに合わせて変わり、また弾力を持って押し返してくる。十年分の隙間を埋めるように、また、十年前に埋められなかった隙間を求めるように、俺は奈保美を求め続けていた。
理性を取り戻したのか、一度奈保美が俺を剥がそうともがいたが、彼女の二の腕を強い力で摑むと、次第に大人しくなり、最後には、もともとひとつだったのではないかというほどに、落ち着いて俺を受け入れていた。
俺たちがくちづけているあいだも、部屋はそのまま夜に停滞し、くらい色を灯し続けるだけだった。手にふれられるのではないかというほどの、質感のある紺色に染まっていた。
俺はくちづけながら、奈保美の鎖骨をゆびさきで撫で、彼女が反応したことで、襟の中に手を差し込んだ。
はじめて手でふれた奈保美の肌はつややかで、どこにも引っ掛かるような凹凸がなく、なめらかだった。そのなめらかさに誘導されるように、右胸に手をおろし、ブラジャーの中にゆびを入れる。
かさついたレースの布と、胸の下を覆うワイヤーの硬さに、ゆびの甲がふれる。
くちびるを離すと、熱く荒い吐息と鼻息が、湿った互いのくちびるにかかった。
「そこは……」
奈保美が、服越しに俺の片手の上に手を置いた。割と強い力で押しつけたので、奈保美の大きな胸が潰れ、弾力を持って押し返してくる。吸い付くようななめらかな肌が、てのひらにふれた。皮膚は少し、冷えていた。
俺は、空いた左手で奈保美の顎を強く摑むと、俺のほうを真っ直ぐに見るように仕向けた。
彼女のくちびるは震え、瞳は水分をふくんで、ゆれて熟れていた。頬は夜の影を纏って、青くつやめいており、どれほどの血色を表しているのか、定かではない。
「俺は十年前、あんたが公園で歌っている姿をみてから、あんたに惚れてた。さらに白状すると、あんたをおかずにして抜いたり、あんたに似た背格好の女を、あんたの代わりに何度か抱いたこともある。あんたもほんとは、そうなんじゃねえのか」
「はは……、すごいこと言うんだね。言ってて恥ずかしくならないの?」
「別に」
「ほんっとうに、面白いな……君は。んっ……」
奈保美の胸を摑む力を強める。ゆびとゆびのあいだに、肉が盛りあがり、ブラジャーの硬い生地のレースの質感が、さらに濃く伝わってくる。
奈保美が首を左へ傾けてうつむき、まぶたを閉じる。まるいまぶたの盛りあがりに月光があたり、青白くひかる。気付けば俺は、そのひかりを舌先で舐めていた。
塗られていたアイシャドウが俺の舌に移って、舌先に金の人工的なきらめきが宿る。
奈保美とふたたび目が合う。宵闇の青の世界で、彼女の眸だけが飴色にかがやいていた。引き込まれ、息を吸うようにくちびるを求めた。さっきよりも彼女の口の中の温度があがって、息も荒くなっている。
生暖かく湿った息を俺は吸い込んだ。肺に、彼女の中に残っていた真昼の空気が吹き渡る。
俺はその夜、奈保美のからだを激しく求めた。はじめて食事を与えられた乞食が、飯にがっつくように。
シャワーに入ることもせず、整えていないベッドに倒れて。
掛け布団は、端にくしゃりとゆるく固まって、動くたびに、俺の脚やふくらはぎにふれて、ゆれていた。
波のようになびくシーツよりも、奈保美の肌のほうが、なめらかだった。永遠に撫でていられるのではないかというほど、俺は奈保美の皮膚のすみずみまで、ゆびの腹で撫でていた。時には圧力をかけて、時にはふれるかふれないかの距離で。
その度に奈保美の肌を湿った汗が覆い、ひくひくと感電した魚のようにふるえた。
奈保美は、どこを撫でても感じるようで、高く低く枯れた声で鳴いた。快楽が強すぎるのか、俺から逃れようと横向きになると、ベランダからさす街灯のあかりに腰がなでられ、薄青の影が、太ももの広い面に描かれる。
俺は暗闇に隠れた細い腰を強く寄せて、後ろから交わり、どの角度からも逃れられないようにした。俺が腰を動かすと、奈保美の尻がやわらかく変形し、そのまま溶けて、俺を覆う粘ついた熱が、どこまでも果てなく続いていった。
ときおり俺を睨むようにも、みつめるようにも、琥珀の瞳が闇の中で恒星のようにきらめいてとらえた。
その度に俺は、奈保美という沼に身を深く沈めて、溺れていった。
俺たちは海水になっていた。つめたくも熱い本流が、混じり合って、重なって、流れ続けていった。
深夜三時ごろ、にわか雨が降り、紺を灰色に染めた。
快楽の彼方へ突き抜ける、果てを迎える直前に、奈保美の右脚を肩に担ぎ、より深く繋がった。雷が互いの身体のあいだに落とされる。強い快楽がほとばしり、血を逆流させる。
奈保美は俺の名前を叫びながら、海老のようにそりかえって腰をあげた。泣き叫ぶような声をあげ、つまさきから全身を痙攣させると、一拍置いて大粒の汗を毛穴中から吹き出し、仰向けにくずおれた。
白いシーツに汗が飛び、真っ赤になった奈保美の顔が、そこに林檎が落ちたように映えていた。むせかえるような女のにおいが広がり、湿った空気に、さらに熱く湿った奈保美の吐息が蒸気する。瞳は、赤ワイン色に染まってとろりと溶けて、焦点を定めない。
俺はからだを屈めて彼女の開いたくちびるを貪ると、彼女の奥深くに残していた己の蛇をさっと取り出して、窪んだ腹の上へ、白い性液をぶちまけた。肌理こまやかな肌の上をすべり、胸の丘で止まって、流れを止めた。
嗜虐的な笑みを浮かべ、額からこぼれる汗のしずくを垂れ流しにしていた。からだは熱く、満足感と虚無感に満たされている。荒い息を吐いて腰を落とし、血抜きされた獣のように、かくりと前へ倒れた。伏せた枕からかすかに顔をあげ、隣で眠る奈保美の、高い鼻すじを見やる。
「奈保美……」
途切れてゆく意識の最中、彼女の腹の上に撒かれた己の白が、乾いてこびりつかないように、そばにあったティッシュペーパーで幾度かそっと、拭ってやった。やがてティッシュペーパーが手からさらりと離れ、てのひらに淡い呼吸の振動を感じたのと同時に、その夜の意識を手放した。すべての体力を使い果たした、心地の良いねむりだった。



