こんなに朝早くに起きて、どこかに行くのなんていつ以来だろう。はやる気持ちを押さえつけるのも、朝の清らかな空気の中に混じる、かすかな水分を感じるのも。子供のころに戻ったみたいだ。
見上げた空が、昨日よりも爽やかな、水浅葱の青天井に見える。
雲が余分な影を取り去って、純度のあるものだけを残していて、すべてが透明なフィルター越しだ。ひかりの粒が、今地球に生まれたように。
「あ、いたいた! 春一郎くん」
振り返ると、首に巻いていた黒のストールが、そよと風に泳ぎ、俺の顔の前を一瞬だけ覆う。うすい布の重なりの向こうで、すらりと背の高い秋色の女が、手を振っている。
相変わらずの、かがやくような笑顔だ。その感情と表情だけだと子供のようだが、肉体は、しっかり三十代の女のものをしている。全体的に無駄な贅肉がないが、見るひとがみれば、肉感的にも感じる。それなりの人生経験と恋愛経験を重ねた女のものだ。
今日の奈保美は、チョコレートブラウンの、花柄シャツワンピースに、デニムのジャケットを羽織り、ワインレッドの、小ぶりのショルダーバッグを肩から斜めに下げていた。ワンピースに描かれている花は、白いものが多く、よく見ると薔薇だった。白薔薇のあいだに、青薔薇が、ちいさくまばらに散りばめられている。
「えー何よ、そんなにみつめて! 似合ってる?」
奈保美はわざとらしく腰をくねらせると、スカートの端をゆびさきでつまみ、広げた。フレアスカートの平坦な布にひかりが当たり、なめらかな艶だまりがうまれる。薔薇も、一瞬だけ浮きあがったように映えた。
裾の長いワンピースの先から、親指分の隙間で、足首が覗く。
ネイルも、ファッションに合わせて、ワインレッドの落ち着いた色彩がほどこされていた。彼女が手を動かすと、手の甲に浮きあがった細い骨と、長いゆびのさきが、ひとしく鈍くつやめく。
目元をスカートに落としていた奈保美が顔をあげる。まつげに何か塗ったのかと思うほど、つやつやとしたひかりの粒が浮いて乗っている。空気の透明な膜が、うすい黄にいろどられ、琥珀のひとみが、この前に会った時よりも、澄んでまっすぐに俺をとらえていた。
背景の森のみどりと、奈保美のからだが一瞬溶けて滲んだようだった。
奈保美が、とんとんと弾みをつけて、俺のそばへ近寄ってきた。昨日、このあたりで雨が降っていたのだろうか、どこか潜るような湿った足音だった。俺は家に引きこもって、ヘッドフォンを被りながら、音楽を聴いて仕事をしていたので、外の様子を知らない。仕事中はそれ以外のことに、関心がいかなくなる。
踏みしめる土も、水分をふくんでいる黒さだ。
奈保美の靴は、スエード生地の黒いショートブーツで、マットな質感だった。
「おはよう。この前会った時と、違う感じの服だね」
内心もっと違うことを、綺麗だとか、似合ってるとか気障なことを思っていたが、口に出すことができず、そんなくだらないことしか言えなかった。
「どこ行く? 何する?」
奈保美は、俺の周りをくるくる踊るようにまわりながら尋ねた。
「妙に陽気だね……。原宿にしようって言ったのは、そっちじゃん。どっか行きたいとこあったんじゃないの」
「んー、原宿って言ったら、春一郎くんが、何か提案してくれるかと思っていたんだけれど」
「なにそれ。ひと任せじゃん」
あきれ顔で奈保美を睨む。
「竹下通りが有名なんだけれど、ちいさいギャラリーとかもたくさんあるんだよ。あー、でも、久しぶりに来たかもしれない。あまり、ひとりではこういったザ・都会的なところは来ないんだよね。ひとごみが苦手でさ」
「……じゃあ、別のところにすりゃよかったじゃん」
あきれ顔をしつつも、内心俺は浮かれていた。こんなんデートじゃねえか。いや、相手に男がいる場合、デートじゃねえのか。奈保美はどういうつもりで俺を誘ったんだ。
そこを指摘してしまうことや、考えることが少し怖かったので、俺は歩きだした。
「あそこ行かない? 明治神宮」
背後に広がる森を、親指を立てて示しながら、俺は言った。
「お、いーねぇ。中にある明治神宮ミュージアムの展示が気になってたんだ。宝物展示室に行ってみたい」
結局、なりゆきで明治神宮に行くことなった。この歳で、互いに計画性がねぇ。
明治神宮の森は、紺碧の空の下で、みどりの葉をきらきらとゆらしている。秋だというのに、それほどに強い紅葉をみせず、凛と九月のみどりのままでいてくれている。
その上に、雲ひとつない青空が流れ、秋のうつくしさをその一部分だけで表していた。
空気は夏の暑さが和らぎ、冬の寒さを迎える前の、刹那の澄んだものが宿っている。
「行こうか」
奈保美が、すたすたと長い脚を動かしながら森へ向かう。さらに強い風が吹き、葉はさわさわとゆれ、ひときわに濃いみどりとなった。
俺は、目を細める。
奈保美の髪がなびき、磨いた銅のようにかがやいて、背後の深い森と溶けるように重なった。
細めたひとみの中にも、そのまばゆいまぶしさは焼けつくほどに残っていた。
灰と黄土が均等に混ぜられた色をした、周囲の木々の高さと等しいくらいに大きな、第一鳥居をくぐり抜け、森の中を歩く。
影を宿した葉は、重なって深く神聖な薫りを放っていた。重いようでいて、かるそうな葉が、さわさわとやさしい音を奏でて、俺たちの頭上を踊っている。みどりの中に、ちらほらと紅や金に染まった木々も見かける。水彩でそこだけ違う色を置き、ぼかしたようだった。
森に足を踏み入れた瞬間から、それまで周囲を覆っていた、原宿を歩くひとびとの、複雑で落ち着かないにおいが消え、深く落ち着いた植物の香りに、肌が満たされてゆく。
ただ、隣を歩く奈保美のつけた香水の、はなやいでいるが、品よく落ち着いているものだけが残っていた。
隣を見る。
しずかだが、しっかりとした足取りで奈保美は歩いていた。背筋を伸ばし、腰にゆるく腕を重ねている。肩に流された髪が、しっとりとゆれていた。横顔はどこか満たされたものがあった。かすかに口角があがっている。眼鏡の透明な鼻パッドが、彼女の高い鼻にそっと寄り添っていた。鼻パッドの存在を気に掛けたことはなかったが、そのときの奈保美の瞳が、あまりにも真っ直ぐに前を向いて澄んでいたので、意識をそちらに向けていた。
そうしないと、どうにかなりそうだった。
「この森は最初、主要の木が杉になるかもしれなかったんだ。でもその意見を言った、当時の内閣総理大臣に反対して、照葉樹の森になった。大正時代、公害が進んでいて、都内の大木、老木が、次々枯れていって。そこで百年先を見越して、明治神宮には照葉樹じゃなきゃ育たないって、専門家たちが反対したんだ」
奈保美が、うたうような声で語り出した。隣でしずかに流れる小川のような口調だった。
俺はただ黙ってそれを聞いていた。
「永遠の森を、かつて別れた君と歩いている。不思議な心地だね。この森の中を、私たちの他に、幾人の命が歩いてきたんだろうか」
俺はなにも答えなかった。代わりに木漏れ日が、さらさらと俺たちの髪と歩く道に、まるいかたまりとなって、降っている。透明な黄に染まったそれに目を細める。木漏れ日が当たったところだけ、湿った土が乾いてくれと願う。
参拝するために本殿に向かおうとすると、奈保美が「自然はすきだよ。でも私は、宗教はなにも信仰していないから、お参りはしないや」と言ったので、本殿には行かずに、明治神宮ミュージアムをめぐった。
ふたたび都会の雑踏の中に戻ってきたところで、奈保美とふたりで並ぶことにだいぶ慣れてきていることに気付いた。
奈保美と歩きながら、俺は女とバーで飲んだり、個室で寝たりするよりも、均等な歩幅で一緒に歩くことのほうが、苦手なんだと気付かされた。変に緊張するし、ガキのころは背が低かったのもあって、自分よりも背の高い女と歩くのに、無意識に気を遣う。今は、ふたりの背丈は、ほぼほぼ一緒になっているというのに。
ミュージアムの中での奈保美は、他の空間にいる時よりも、うきうきしていた。頬に透明な膜が張って、発光している。
磨かれた硝子越しに展示されているものを、硝子にゆびの腹がつかないように気をつけながら、俺に解説してくれた。
本当にこういうことがすきなんだなと思える、好奇心の表し方だった。俺にみせる笑顔とは、違った口角のあがり方をしていた。知的好奇心に動かされて、自然と笑みがあふれている。ひとに見せることに対しての、感情のフィルターがそこにはなかった。ふと、俺のほうを見やった時の笑顔が、研究者の顔になっていたが、底のほうに幼い少女らしさもみえるような、素敵な顔をしていた。
「六頭曳儀装車」を見上げていたときの彼女の顔は、ひときわまばゆかった。新たな知識に出会った時の、人間のよろこびを体現していた。
奈保美は、2階のロビーで、深い森を背景にしながら、ゆったりと背を伸ばして、頭に右手を当てている。
俺はその背中をしばらくみつめて、そっと目を逸らした。
いつかのあの日の、アトリエでの姿を重ねそうになったからだ。なまめかしくみずみずしい、果実のようなあのからだを。
俺のスマホが鳴った。
ポケットから取り出してみると、女からだった。この女とは仕事の関係だったのか、一夜限りの関係だったのか、セフレとして、現在進行形なのか、思い出せない。頭に薄霞がかかっている。今は奈保美以外の女のことを、頭に入れたくなかった。
ゆびの腹でかすかに画面にふれて、そっとラインをブロックすると、何事もなかったようにふたたびポケットに入れた。
スマホに残っていた、ぼやけて湿った夏は、そのとき消えた。
奈保美が振り向く。
「何かあった?」
「いいや、なにも」
俺はゆっくりと顔をあげ、笑顔を返した。
明治神宮を出て神宮橋を渡る。広い橋の上に、まだらにひとがいるのに、奈保美とふたりぼっちになったみたいだった。
固いアスファルトに辿り着くと、それまで四方を深い森に囲まれていたのが信じられないほどに、人混みのにおいも戻ってきた。
先ほど冷えていると感じていた空気も、徐々に熱を取り戻して。葉で塞がれていた太陽の紗が降りてきて、人工的な乾いたにおいも混じってくる。
「あっ」
奈保美が、急にからだをかるくくの字に曲げた。肩に乗っていた髪が前へこぼれ、ひとふさ空をかいて、また肩先に戻ってきた。
「どした」
俺はふと立ち止まり、奈保美に近寄ろうとする。
すると、割と大きめに彼女の腹の音が鳴るのが聞こえた。
俺は瞠目した。
奈保美は、こぼれた髪の隙間から、顔を覗かせて俺のほうを見やった。口角が歪んで、あがっている。彼女なりに、恥ずかしさを感じているのかもしれない。
「ごめん。お腹が減ってしまって……」
「早く言えよ。どっかでなんか食べるか……」
俺は、かるくため息をつくと、店が並ぶ通りへ、奈保美を連れて行こうとした。
奈保美の二の腕を摑んで立たせると、奈保美は驚いて俺のほうを見ていたが、俺は気づかないふりをした。
ふいに摑んだ二の腕は、雲のようにやわらかだったので、ゆびさきが動揺して少し痺れていた。
原宿のひといきれの中にまぎれると、軽食を売っている店が、何軒かあって、店員がにこやかに顔を出している。
俺は、いつの間にか強く摑んでしまっていた奈保美の腕を、そっとほどくと、何が食べたいか問うた。
「んー……」
奈保美はゆったりと首を巡らせて、原宿の道路沿いの店を眺めていた。
背の高い女はこれだからいい。これだからうらやましい。俺もガキのころに、背筋を伸ばして街を眺め回すのをやってみたかったな、と少し考えた。
「あれがいいかな」
すっと伸ばされた奈保美の腕のさきを見やる。
「あれって?」
かすかに奈保美に顔を近づける。
「ソーセージ」
ひときわあかるい声と笑顔で、奈保美は告げた。
ソーセージ屋台の前まで歩く。
奈保美は、満面の笑みで二本指を突き立ててピースの形を取って店主に示し、自分のぶんと、俺のぶんを買った。
自分で金を払おうとしたので、俺がそっと奈保美の前に出て、しずかに財布をひらいて小銭を出して奢った。
奈保美は俺に感謝を述べると、ふたりで近くのベンチに座り、ソーセージに噛みついた。
奈保美が、「うまいうまい、肉汁がこぼれる」と言いながら、ソーセージを口に向けて真っ直ぐにし、頭からかぶりつき、厚いくちびるで覆い、頬をその肉でふくらませる。
太く長い白のソーセージが、奈保美の口に包まれて、飲み込まれている。
その一連の動きで、エロいことを妄想してしまう俺は、本当に頭がおかしいんだろうな。真横で、ほとんど奈保美を睨むように見ていた。
「あれ? 春一郎くん、どうしたの。全然食べていないじゃないか!」
奈保美が、ソーセージからぱっとくちびるを離して、首を真横にうつす。肉汁が、ちいさな水滴となって、あたりにかすかに飛び散った。
頭を食われたソーセージは、白い肌をいっそうしろくしたようだった。肉に混ぜ込まれたハーブでさえ、どこかソーセージの卑猥さを増すようになっているのが皮肉だ。
「えっ、ああ……」
俺は、奈保美と目が合わないように、ソーセージにかぶりつき、一気にその細長い身を取り込もうとした。やわらかいが確かな弾力のある丸い頭が、喉の奥に当たってしまい、むせながら手を大きく動かして吐き出した。上顎を撫でる、つるりとした感触があり、ソーセージは一拍置いて、口から跳ねて飛び出る。頭は、俺から離れる前に、俺の眼球のひとつを攻撃した。
「い! てぇ……」
痺れるような、鈍い痛みが走る。汚ないつばも、数滴飛んだ。
奇跡的に、奈保美の顔や眼鏡にはかからなかった。
「えぇ、ちょっと大丈夫?」
奈保美は、ショルダーバッグから、レースの白いハンカチを取り出すと、俺の顎の下にそっと押しやった。
「悪……」
俺はためらいながらもそれを手に取ると、顔やくちびるや目を拭った。
無様だな、ほんと。
散々妄想してきた女が、生身で、さらにいろづいて隣にいるふしぎに、俺の本性は耐えられないんだな。変なことばっか紐付けちまう。職業病なのかな。
ハンカチで顔を拭っていると、いつの間にか霧を吹いたような汗の粒が、粒と言えぬほど、ちいさくこまやかに顔の肌を覆っている。拭い取ると、真夏に汗を拭き取ったようにすっきりとする。なんだこれ。痺れるような痛みも、落ち着いてきた。
奈保美は、俺が落ち着いたのを認めると、「後で、ちゃんと目も洗ったほうがいいよ」とひとこと忠告し、自分の右手に持った、残りのソーセージを一気にたいらげた。テラコッタ色のくちびるに、ソーセージの残骸が、吸い込まれてゆく。
俺は、ふたたびかるいため息をついて顔を落とした。前髪がうざったく視界を覆う。秋が終われば切ろうかな、とふと思った。
スカートから出た奈保美の足首が、目に入る。ふたつの足先が楽しげに交互にゆれていた。
気付けば、いい感じに日も暮れてきている。からだ全体を覆う秋の空気に、夜のほどよいつめたさが入り混じってきていた。枯葉が、こまかくそこに混じっているような肌触りがする。湿っていないが、しっとりとした水分をふくんだ質感。そこに原宿を歩く無数のひとびとの息のにおいが混じって、清らかとは言い難いが、都会の街らしい空気を生み出していた。
陽のひかりよりも、街灯のほうが目立ってきている。人工的なあかりが、カクテルライトのように、青やピンクの影を、灰色の建物や、ひとの頬の下に宿している。
奈保美はソーセージを食べ終わったらしく、くるくると棒を回して、しずかに眺めていた。眼鏡のレンズが、原宿のあかりをうつして、単色の緑や強い紫に反射している。
「帰ろっか」
少し強い風が吹いて、俺たちをゆらす。
温度が一温上がり、また一温、すぐに下がる。
「ごめん、一本だけ」
奈保美はショルダーバッグにそっと手を入れると、音も立てずに煙草の箱をひとつ取り出した。
それは、俺がこの前煙草屋で買ったものと同じ銘柄だった。秋晴れの夜空のような、深い青の箱。名は、金の箔押し。
俺もそれ吸ってるよ。あんたが十年前に吸ってたから。今でも吸ってるんだね。
出かかった言葉を、飲み込んで消す。
奈保美は、かるくあえたくちびるの間に、煙草をくわえる。
そして、淡い笑顔を浮かべると、一、二度くちびるで煙草を動かして、上下に振った。ペールグリーンに、緑光のような薔薇の刺繍がひとつ縫われたポーチから、プラスチック製の青いライターを取り出し、片手を添えて火をつける。
閉じた丸いまぶたに青い影が宿り、ラメの入ったアイシャドウを、金色に濡らす。ライターの青い炎が煙草のフィルターにふれ、ちりちりと巻紙と刻が燃えて赤くちいさなともしびに変わる。線香花火のようなあかるい黄金の炎だった。ライターの火がしずかに消えると、残された煙草の火が、暗い夜の中でひときわ目立ったかがやきになった。白く透明なけむりが、紺色の空に吸い込まれるようにのぼって、先から消えてゆく。苦い薫りが、あたりにしずかに広がる。
奈保美は、煙草をはっとくちびるからゆびに挟んで離し、俺から遠ざけるように腕を外側に広げた。
「ごめん。タバコ、苦手だった?」
「いや、俺もときどき吸う」
「そう……。よかった」
奈保美は微笑むと腕を寄せ、ふたたび指先で煙草をくちもとまで持ってゆき、さっきよりも遠慮がちに吸い始めた。先ほどは、煙草に意識を集中していたようだったが、隣で息をしている俺のことを気にかけてくれているみたいだ。
__こういうやさしさを、肌触りのあるところで感じてしまうから。
__あんたのことを、これ以上、すきになってはいけないのに。
俺は息を止めて、指を組むと、上体を落とした。
奈保美が煙草を吸い終えるのを待つ。そのあいだ、言葉を交わさなかったが、何も不便ではなかった。むしろ居心地の良さを感じていた。適度な温度のお湯の中を、たゆたっているような。ずっと、この時間が続けばいいのにと願いながら。
最後に奈保美が大きく煙草を吸うと、先がちりちりと中へ向かい、金色に染まった。そして、薄墨の灰になって形を保つ。
その状態になったのを待っていたのか、すっと立ちあがり、近くの手洗い場で、蛇口をひねって水を出す。
煙草を口から離して、そっと流れる水に近付け、火を消した。洗われた煙草は、燃えた部分が水の圧力で、綺麗にこそげとられて落ちてゆく。残った部分を、ゆびさきでもてあそび、近くのゴミ捨て場にそっと落とす。白く細いからだが、くるりと一回転して姿を消す。
煙草の薫りだけは、あたりに沁みるように残っていた。
俺は何も言わずに、まぶたを閉じて立ちあがる。
つられて奈保美も、立ちあがった。
ふたりで黙って、駅のほうまでゆっくりと歩いた。言葉は無くとも、煙草の薫りだけは残っていた。
俺と奈保美のあいだにあるもの。それは諦念だった。ここまで。これ以上は踏み込んではいけないという、暗黙の気持ちが、鈍く細い糸であいだに垂らされている。
奈保美が、俺のことをどう思っているのかわからない。彼女に相手がいる以上、そこに答えを求めてはいけなかった。だからこの諦念を感じているのは、俺だけなのかもしれない。
出逢って、たのしく過ごして、別れるだけ。夜を超えずに。俺たちの関係は、それだけ。この関係が続くのかもわからない。この夜が終われば次はないかもしれない。
駅近くに着く。あまり、ひとのいないところで足を止めた。
奈保美が口をひらいた。
「今日はありがとう。なかなか、たのしかったよ」
「なかなかって、なによ。上から目線かよ。ああ、まあ……。そう、よかった」
俺は何も考えずに答えていたが、聞くひとが聞けば、少し不機嫌に感じるかもしれない、低く掠れた声が出ていた。
奈保美がどう思ったのかはわからないが、彼女の表情は変わらなかった。
かるくうつむいて、鼻で息を吐いてからズボンに突っ込んでいた両手を出し、腰に当てると、眉を寄せて、またひらく。
顔をそっとあげると、夜風がさらにつめたく感じた。
日はもう暮れていて、さっきまで過ごしていた背後の深い森は、黒く塗りつぶされたように、暗く染まっている。
俺をじっとみつめていた奈保美は、せつなげに顔を歪ませて、泣き笑いのような表情をしていた。街のあかりをうつしたレンズ越しに、琥珀の瞳が、水をふくんでゆれている。
奈保美が指をくねらして宙をかく。何かをゆびさすようにも見えるその仕草。
笑顔は深みを帯び、目尻にかすかな皺が浮いた。
「春一郎くんが、春一郎くんのまま、おとなになってるのがわかってよかったよ。お互い、良い歳の取り方ができているみたいだよね。……じゃあ、また機会があれば会おう。時が来れば」
ふわりと顔の横に手をあげて、ひらと振る。
そしてくるりと後ろを向いて、右手をゆらゆらとゆらして、手の甲で俺に別れの挨拶をする。そのまま振り返らずに駅に向かって歩き出した。スカートに隠された長く細い脚が、交差してしずかな音を立てて離れてゆく。
橙の髪の流れに合わせ、紺色の影がいろどる。伏せたまぶたの盛りあがりにも、薄青の陰影が生まれて、浮かびあがる。あかるい日の下に見たときは、そこに真昼の色彩がほどこされていたはずなのに。
俺はそっと息を吸った。肺がかすかに痛む音がする。煙草を吸っていないのに、さっき隣で浴びた、煙草の味が、舌の上に染みた。
「……俺んち来れば?」
永遠にも思われる間がうまれる。
抑えたつもりだったが、割とでかめの声が出てしまった。
奈保美が一瞬固まり、そっとこちらを振り返った。肩のあたりで段を持った髪が、夜の空気をはらんで重く舞い上がる。
目を見開き、少し驚いた顔をしていた。そして困ったような笑顔を浮かべる。
「……なんで? はは、変なこと言うんだなぁ。……ごめん、ちょっと落ち着きたいから、煙草一本吸うね」
奈保美はショルダーバッグから青い煙草の箱をひとつ取り出すと、かるく振る。頭が一本出て、顎の下まで持っていくと、巻紙をくちびるで食んだ。
俺は、鞄の中から青い煙草の箱をひとつ取り出した。
奈保美はそれを見て、また少し驚く。自分が使ってるのと同じものだったからだろう。
カートンを片手で軽くゆらし、一本煙草を取り出すと、まぶたを伏せてくちびるで食む。すーっと何かが抜ける掠れた音がして、吐息で巻紙が湿ってゆく。
ズボンから、赤いライターを取り出すと、俺は前へ動き出した。すたすたと迷いなく真っ直ぐに、だが感情を殺した顔で歩く俺は、不気味だっただろう。巻紙が湿る速度で、俺の息が、さっきより早くなっていることを知った。ライターの回転式やすりを、親指でこすりつけるように下方向へ回転させる。
ちいさな青い炎が咲き、そっと咥えた煙草のフィルターに近づける。
炎がフィルターを飲み、ちりちりと焦げるような音がして、ともしびがはじまった。透明な白いけむりが、目の前を直線的にたゆたう。
呆然と俺を見ている奈保美の目の前まで迫る。やや面高で、鼻筋の通っている顔は、十年前と変わっていない。でも以前よりも肉付きが良くなり、あかるい肌の色と質感の中に、少し疲れているものがある。
それを取り払ってやりたい。そのとき、発火するようにそう思った。
近くで車が走ったのか、ライトが一瞬強くひかる。雷に打たれたように、俺たちは刹那に白く溶けて、輪郭を消した。
俺は、奈保美の顔のラインに沿って、耳の下から顎にかけて、右手のゆびさきでそっとふれた。ゆびの腹が、途中でつっかかって止まる。
奈保美の眼鏡のレンズの中に、赤や青のネオンを背景に、真っ黒な俺が居る。琥珀の瞳はゆれずに、俺を真っ直ぐに見ている。
どちらがどちらに吸い込まれるのかが、わからない。
俺は奈保美から目を逸らさずに、咥えた煙草にゆびを添えて固定すると、彼女の咥えていた煙草の先と、先をふれあわせた。
煙草は、赤く燃えている場所から、溶けて崩れて交わってゆく。ゆったりとした沈み方だった。限界まで交わると、赤よりもあかるい橙に染まって、溶けてひとつになる。かすかに煙草の向きが下がるが、交わったままだった。
線香花火が落ちるときのように、燃えかすがひとつぶ、ひらりと夜に舞って落ちてゆくのを待って、俺は奈保美から煙草を離した。
「春……」
奈保美が俺の名を呼び終わる前に、煙草を咥えていない口のあいだから、ゆったりと息を吐く。白く透明なものが、紺色の空気に溶けて昇ってゆく。どこまでも。
俺は煙と反対に、徐々にうつむいてからだを傾けていった。まぶたを伏せ、少しだけ開ける。まつげの影が目に入って暗い。夜よりもくらい。
「俺も、あれから、色々な女と会って来たんだよね」
顔をあげた。前髪が目に入ってきて、うっとうしい。
喉元から白い怒りのような衝動が走り、脳の一部をくらくらさせる。
どこかで車が走り、車体に反射した青白いひかりが目に入って、一瞬雷の中に落ちたような視界になる。
煙草に寄せていた二本のゆびに、かるい圧力をかけてくちびるから少し離す。さらにけむりが濃くなって、顔の周りを覆う。
「他の男とじゃできねぇような、すげえセックスしてみてえだろ?」
奈保美はぽかんと口を開けていたが、ふるふると震えた。
咥えていた煙草を、右手の人差し指と中指で支えて抜き出すと、体をくの字に曲げて、腹を抱えてわらい出した。
ゆたかな髪が前へ流れ落ち、銅の紗幕のように彼女の頭や胸を覆う。足が内側に曲げられて、隠されていたふくらはぎが、スカートからむき出しになって乳白色の半月のように、てらりと青い影を持つ。
渾身の台詞も、変なわらい方に受け止められてしまった。
やがて、わらいの波が引いてゆくと、倒されていた状態が勢いよく起こされ、肩にこぼれていた紙が、ふわりと背後に舞い降りる。
「本当に面白いな。君は……。相変わらず」
左手で右肘を支え、煙草を持った手を、顔の横にあげる。ゆびさきはかるく曲げて。こどものいたずらを、やさしく責める母親のような苦笑を浮かべて、奈保美は言った。
「いいよ。私と春一郎君は、ともだちだもの。ともだちが、ともだちの家に遊びに行くのは普通のことだよね。映画でも見よう」
弧を描いて手首を動かすと、煙草をふたたびくちびるに咥えて、息を深く吸った。
そしてつかつかと俺に近寄ると、俺の耳元で煙草を口から離し、ふわりと息を吐いた。
「あまりおばさんをからかうもんじゃないよ」
怒っているとも、からかって、わらっているとも取れる女の顔と吐息が迫る。
けむりは、あまく熟れた香りがした。かすかに麝香のようなものも混ざっている。それはけむりではなく、奈保美の体臭からであろうか。
俺はその香りを、鼻から胸いっぱいに吸い込んだ。麻薬のような陶酔が、からだ中をめぐり、脳内をうす紅のかすみで覆う。咽せ返るような女のにおいに、何も考えられなくさせられる。
見上げた空が、昨日よりも爽やかな、水浅葱の青天井に見える。
雲が余分な影を取り去って、純度のあるものだけを残していて、すべてが透明なフィルター越しだ。ひかりの粒が、今地球に生まれたように。
「あ、いたいた! 春一郎くん」
振り返ると、首に巻いていた黒のストールが、そよと風に泳ぎ、俺の顔の前を一瞬だけ覆う。うすい布の重なりの向こうで、すらりと背の高い秋色の女が、手を振っている。
相変わらずの、かがやくような笑顔だ。その感情と表情だけだと子供のようだが、肉体は、しっかり三十代の女のものをしている。全体的に無駄な贅肉がないが、見るひとがみれば、肉感的にも感じる。それなりの人生経験と恋愛経験を重ねた女のものだ。
今日の奈保美は、チョコレートブラウンの、花柄シャツワンピースに、デニムのジャケットを羽織り、ワインレッドの、小ぶりのショルダーバッグを肩から斜めに下げていた。ワンピースに描かれている花は、白いものが多く、よく見ると薔薇だった。白薔薇のあいだに、青薔薇が、ちいさくまばらに散りばめられている。
「えー何よ、そんなにみつめて! 似合ってる?」
奈保美はわざとらしく腰をくねらせると、スカートの端をゆびさきでつまみ、広げた。フレアスカートの平坦な布にひかりが当たり、なめらかな艶だまりがうまれる。薔薇も、一瞬だけ浮きあがったように映えた。
裾の長いワンピースの先から、親指分の隙間で、足首が覗く。
ネイルも、ファッションに合わせて、ワインレッドの落ち着いた色彩がほどこされていた。彼女が手を動かすと、手の甲に浮きあがった細い骨と、長いゆびのさきが、ひとしく鈍くつやめく。
目元をスカートに落としていた奈保美が顔をあげる。まつげに何か塗ったのかと思うほど、つやつやとしたひかりの粒が浮いて乗っている。空気の透明な膜が、うすい黄にいろどられ、琥珀のひとみが、この前に会った時よりも、澄んでまっすぐに俺をとらえていた。
背景の森のみどりと、奈保美のからだが一瞬溶けて滲んだようだった。
奈保美が、とんとんと弾みをつけて、俺のそばへ近寄ってきた。昨日、このあたりで雨が降っていたのだろうか、どこか潜るような湿った足音だった。俺は家に引きこもって、ヘッドフォンを被りながら、音楽を聴いて仕事をしていたので、外の様子を知らない。仕事中はそれ以外のことに、関心がいかなくなる。
踏みしめる土も、水分をふくんでいる黒さだ。
奈保美の靴は、スエード生地の黒いショートブーツで、マットな質感だった。
「おはよう。この前会った時と、違う感じの服だね」
内心もっと違うことを、綺麗だとか、似合ってるとか気障なことを思っていたが、口に出すことができず、そんなくだらないことしか言えなかった。
「どこ行く? 何する?」
奈保美は、俺の周りをくるくる踊るようにまわりながら尋ねた。
「妙に陽気だね……。原宿にしようって言ったのは、そっちじゃん。どっか行きたいとこあったんじゃないの」
「んー、原宿って言ったら、春一郎くんが、何か提案してくれるかと思っていたんだけれど」
「なにそれ。ひと任せじゃん」
あきれ顔で奈保美を睨む。
「竹下通りが有名なんだけれど、ちいさいギャラリーとかもたくさんあるんだよ。あー、でも、久しぶりに来たかもしれない。あまり、ひとりではこういったザ・都会的なところは来ないんだよね。ひとごみが苦手でさ」
「……じゃあ、別のところにすりゃよかったじゃん」
あきれ顔をしつつも、内心俺は浮かれていた。こんなんデートじゃねえか。いや、相手に男がいる場合、デートじゃねえのか。奈保美はどういうつもりで俺を誘ったんだ。
そこを指摘してしまうことや、考えることが少し怖かったので、俺は歩きだした。
「あそこ行かない? 明治神宮」
背後に広がる森を、親指を立てて示しながら、俺は言った。
「お、いーねぇ。中にある明治神宮ミュージアムの展示が気になってたんだ。宝物展示室に行ってみたい」
結局、なりゆきで明治神宮に行くことなった。この歳で、互いに計画性がねぇ。
明治神宮の森は、紺碧の空の下で、みどりの葉をきらきらとゆらしている。秋だというのに、それほどに強い紅葉をみせず、凛と九月のみどりのままでいてくれている。
その上に、雲ひとつない青空が流れ、秋のうつくしさをその一部分だけで表していた。
空気は夏の暑さが和らぎ、冬の寒さを迎える前の、刹那の澄んだものが宿っている。
「行こうか」
奈保美が、すたすたと長い脚を動かしながら森へ向かう。さらに強い風が吹き、葉はさわさわとゆれ、ひときわに濃いみどりとなった。
俺は、目を細める。
奈保美の髪がなびき、磨いた銅のようにかがやいて、背後の深い森と溶けるように重なった。
細めたひとみの中にも、そのまばゆいまぶしさは焼けつくほどに残っていた。
灰と黄土が均等に混ぜられた色をした、周囲の木々の高さと等しいくらいに大きな、第一鳥居をくぐり抜け、森の中を歩く。
影を宿した葉は、重なって深く神聖な薫りを放っていた。重いようでいて、かるそうな葉が、さわさわとやさしい音を奏でて、俺たちの頭上を踊っている。みどりの中に、ちらほらと紅や金に染まった木々も見かける。水彩でそこだけ違う色を置き、ぼかしたようだった。
森に足を踏み入れた瞬間から、それまで周囲を覆っていた、原宿を歩くひとびとの、複雑で落ち着かないにおいが消え、深く落ち着いた植物の香りに、肌が満たされてゆく。
ただ、隣を歩く奈保美のつけた香水の、はなやいでいるが、品よく落ち着いているものだけが残っていた。
隣を見る。
しずかだが、しっかりとした足取りで奈保美は歩いていた。背筋を伸ばし、腰にゆるく腕を重ねている。肩に流された髪が、しっとりとゆれていた。横顔はどこか満たされたものがあった。かすかに口角があがっている。眼鏡の透明な鼻パッドが、彼女の高い鼻にそっと寄り添っていた。鼻パッドの存在を気に掛けたことはなかったが、そのときの奈保美の瞳が、あまりにも真っ直ぐに前を向いて澄んでいたので、意識をそちらに向けていた。
そうしないと、どうにかなりそうだった。
「この森は最初、主要の木が杉になるかもしれなかったんだ。でもその意見を言った、当時の内閣総理大臣に反対して、照葉樹の森になった。大正時代、公害が進んでいて、都内の大木、老木が、次々枯れていって。そこで百年先を見越して、明治神宮には照葉樹じゃなきゃ育たないって、専門家たちが反対したんだ」
奈保美が、うたうような声で語り出した。隣でしずかに流れる小川のような口調だった。
俺はただ黙ってそれを聞いていた。
「永遠の森を、かつて別れた君と歩いている。不思議な心地だね。この森の中を、私たちの他に、幾人の命が歩いてきたんだろうか」
俺はなにも答えなかった。代わりに木漏れ日が、さらさらと俺たちの髪と歩く道に、まるいかたまりとなって、降っている。透明な黄に染まったそれに目を細める。木漏れ日が当たったところだけ、湿った土が乾いてくれと願う。
参拝するために本殿に向かおうとすると、奈保美が「自然はすきだよ。でも私は、宗教はなにも信仰していないから、お参りはしないや」と言ったので、本殿には行かずに、明治神宮ミュージアムをめぐった。
ふたたび都会の雑踏の中に戻ってきたところで、奈保美とふたりで並ぶことにだいぶ慣れてきていることに気付いた。
奈保美と歩きながら、俺は女とバーで飲んだり、個室で寝たりするよりも、均等な歩幅で一緒に歩くことのほうが、苦手なんだと気付かされた。変に緊張するし、ガキのころは背が低かったのもあって、自分よりも背の高い女と歩くのに、無意識に気を遣う。今は、ふたりの背丈は、ほぼほぼ一緒になっているというのに。
ミュージアムの中での奈保美は、他の空間にいる時よりも、うきうきしていた。頬に透明な膜が張って、発光している。
磨かれた硝子越しに展示されているものを、硝子にゆびの腹がつかないように気をつけながら、俺に解説してくれた。
本当にこういうことがすきなんだなと思える、好奇心の表し方だった。俺にみせる笑顔とは、違った口角のあがり方をしていた。知的好奇心に動かされて、自然と笑みがあふれている。ひとに見せることに対しての、感情のフィルターがそこにはなかった。ふと、俺のほうを見やった時の笑顔が、研究者の顔になっていたが、底のほうに幼い少女らしさもみえるような、素敵な顔をしていた。
「六頭曳儀装車」を見上げていたときの彼女の顔は、ひときわまばゆかった。新たな知識に出会った時の、人間のよろこびを体現していた。
奈保美は、2階のロビーで、深い森を背景にしながら、ゆったりと背を伸ばして、頭に右手を当てている。
俺はその背中をしばらくみつめて、そっと目を逸らした。
いつかのあの日の、アトリエでの姿を重ねそうになったからだ。なまめかしくみずみずしい、果実のようなあのからだを。
俺のスマホが鳴った。
ポケットから取り出してみると、女からだった。この女とは仕事の関係だったのか、一夜限りの関係だったのか、セフレとして、現在進行形なのか、思い出せない。頭に薄霞がかかっている。今は奈保美以外の女のことを、頭に入れたくなかった。
ゆびの腹でかすかに画面にふれて、そっとラインをブロックすると、何事もなかったようにふたたびポケットに入れた。
スマホに残っていた、ぼやけて湿った夏は、そのとき消えた。
奈保美が振り向く。
「何かあった?」
「いいや、なにも」
俺はゆっくりと顔をあげ、笑顔を返した。
明治神宮を出て神宮橋を渡る。広い橋の上に、まだらにひとがいるのに、奈保美とふたりぼっちになったみたいだった。
固いアスファルトに辿り着くと、それまで四方を深い森に囲まれていたのが信じられないほどに、人混みのにおいも戻ってきた。
先ほど冷えていると感じていた空気も、徐々に熱を取り戻して。葉で塞がれていた太陽の紗が降りてきて、人工的な乾いたにおいも混じってくる。
「あっ」
奈保美が、急にからだをかるくくの字に曲げた。肩に乗っていた髪が前へこぼれ、ひとふさ空をかいて、また肩先に戻ってきた。
「どした」
俺はふと立ち止まり、奈保美に近寄ろうとする。
すると、割と大きめに彼女の腹の音が鳴るのが聞こえた。
俺は瞠目した。
奈保美は、こぼれた髪の隙間から、顔を覗かせて俺のほうを見やった。口角が歪んで、あがっている。彼女なりに、恥ずかしさを感じているのかもしれない。
「ごめん。お腹が減ってしまって……」
「早く言えよ。どっかでなんか食べるか……」
俺は、かるくため息をつくと、店が並ぶ通りへ、奈保美を連れて行こうとした。
奈保美の二の腕を摑んで立たせると、奈保美は驚いて俺のほうを見ていたが、俺は気づかないふりをした。
ふいに摑んだ二の腕は、雲のようにやわらかだったので、ゆびさきが動揺して少し痺れていた。
原宿のひといきれの中にまぎれると、軽食を売っている店が、何軒かあって、店員がにこやかに顔を出している。
俺は、いつの間にか強く摑んでしまっていた奈保美の腕を、そっとほどくと、何が食べたいか問うた。
「んー……」
奈保美はゆったりと首を巡らせて、原宿の道路沿いの店を眺めていた。
背の高い女はこれだからいい。これだからうらやましい。俺もガキのころに、背筋を伸ばして街を眺め回すのをやってみたかったな、と少し考えた。
「あれがいいかな」
すっと伸ばされた奈保美の腕のさきを見やる。
「あれって?」
かすかに奈保美に顔を近づける。
「ソーセージ」
ひときわあかるい声と笑顔で、奈保美は告げた。
ソーセージ屋台の前まで歩く。
奈保美は、満面の笑みで二本指を突き立ててピースの形を取って店主に示し、自分のぶんと、俺のぶんを買った。
自分で金を払おうとしたので、俺がそっと奈保美の前に出て、しずかに財布をひらいて小銭を出して奢った。
奈保美は俺に感謝を述べると、ふたりで近くのベンチに座り、ソーセージに噛みついた。
奈保美が、「うまいうまい、肉汁がこぼれる」と言いながら、ソーセージを口に向けて真っ直ぐにし、頭からかぶりつき、厚いくちびるで覆い、頬をその肉でふくらませる。
太く長い白のソーセージが、奈保美の口に包まれて、飲み込まれている。
その一連の動きで、エロいことを妄想してしまう俺は、本当に頭がおかしいんだろうな。真横で、ほとんど奈保美を睨むように見ていた。
「あれ? 春一郎くん、どうしたの。全然食べていないじゃないか!」
奈保美が、ソーセージからぱっとくちびるを離して、首を真横にうつす。肉汁が、ちいさな水滴となって、あたりにかすかに飛び散った。
頭を食われたソーセージは、白い肌をいっそうしろくしたようだった。肉に混ぜ込まれたハーブでさえ、どこかソーセージの卑猥さを増すようになっているのが皮肉だ。
「えっ、ああ……」
俺は、奈保美と目が合わないように、ソーセージにかぶりつき、一気にその細長い身を取り込もうとした。やわらかいが確かな弾力のある丸い頭が、喉の奥に当たってしまい、むせながら手を大きく動かして吐き出した。上顎を撫でる、つるりとした感触があり、ソーセージは一拍置いて、口から跳ねて飛び出る。頭は、俺から離れる前に、俺の眼球のひとつを攻撃した。
「い! てぇ……」
痺れるような、鈍い痛みが走る。汚ないつばも、数滴飛んだ。
奇跡的に、奈保美の顔や眼鏡にはかからなかった。
「えぇ、ちょっと大丈夫?」
奈保美は、ショルダーバッグから、レースの白いハンカチを取り出すと、俺の顎の下にそっと押しやった。
「悪……」
俺はためらいながらもそれを手に取ると、顔やくちびるや目を拭った。
無様だな、ほんと。
散々妄想してきた女が、生身で、さらにいろづいて隣にいるふしぎに、俺の本性は耐えられないんだな。変なことばっか紐付けちまう。職業病なのかな。
ハンカチで顔を拭っていると、いつの間にか霧を吹いたような汗の粒が、粒と言えぬほど、ちいさくこまやかに顔の肌を覆っている。拭い取ると、真夏に汗を拭き取ったようにすっきりとする。なんだこれ。痺れるような痛みも、落ち着いてきた。
奈保美は、俺が落ち着いたのを認めると、「後で、ちゃんと目も洗ったほうがいいよ」とひとこと忠告し、自分の右手に持った、残りのソーセージを一気にたいらげた。テラコッタ色のくちびるに、ソーセージの残骸が、吸い込まれてゆく。
俺は、ふたたびかるいため息をついて顔を落とした。前髪がうざったく視界を覆う。秋が終われば切ろうかな、とふと思った。
スカートから出た奈保美の足首が、目に入る。ふたつの足先が楽しげに交互にゆれていた。
気付けば、いい感じに日も暮れてきている。からだ全体を覆う秋の空気に、夜のほどよいつめたさが入り混じってきていた。枯葉が、こまかくそこに混じっているような肌触りがする。湿っていないが、しっとりとした水分をふくんだ質感。そこに原宿を歩く無数のひとびとの息のにおいが混じって、清らかとは言い難いが、都会の街らしい空気を生み出していた。
陽のひかりよりも、街灯のほうが目立ってきている。人工的なあかりが、カクテルライトのように、青やピンクの影を、灰色の建物や、ひとの頬の下に宿している。
奈保美はソーセージを食べ終わったらしく、くるくると棒を回して、しずかに眺めていた。眼鏡のレンズが、原宿のあかりをうつして、単色の緑や強い紫に反射している。
「帰ろっか」
少し強い風が吹いて、俺たちをゆらす。
温度が一温上がり、また一温、すぐに下がる。
「ごめん、一本だけ」
奈保美はショルダーバッグにそっと手を入れると、音も立てずに煙草の箱をひとつ取り出した。
それは、俺がこの前煙草屋で買ったものと同じ銘柄だった。秋晴れの夜空のような、深い青の箱。名は、金の箔押し。
俺もそれ吸ってるよ。あんたが十年前に吸ってたから。今でも吸ってるんだね。
出かかった言葉を、飲み込んで消す。
奈保美は、かるくあえたくちびるの間に、煙草をくわえる。
そして、淡い笑顔を浮かべると、一、二度くちびるで煙草を動かして、上下に振った。ペールグリーンに、緑光のような薔薇の刺繍がひとつ縫われたポーチから、プラスチック製の青いライターを取り出し、片手を添えて火をつける。
閉じた丸いまぶたに青い影が宿り、ラメの入ったアイシャドウを、金色に濡らす。ライターの青い炎が煙草のフィルターにふれ、ちりちりと巻紙と刻が燃えて赤くちいさなともしびに変わる。線香花火のようなあかるい黄金の炎だった。ライターの火がしずかに消えると、残された煙草の火が、暗い夜の中でひときわ目立ったかがやきになった。白く透明なけむりが、紺色の空に吸い込まれるようにのぼって、先から消えてゆく。苦い薫りが、あたりにしずかに広がる。
奈保美は、煙草をはっとくちびるからゆびに挟んで離し、俺から遠ざけるように腕を外側に広げた。
「ごめん。タバコ、苦手だった?」
「いや、俺もときどき吸う」
「そう……。よかった」
奈保美は微笑むと腕を寄せ、ふたたび指先で煙草をくちもとまで持ってゆき、さっきよりも遠慮がちに吸い始めた。先ほどは、煙草に意識を集中していたようだったが、隣で息をしている俺のことを気にかけてくれているみたいだ。
__こういうやさしさを、肌触りのあるところで感じてしまうから。
__あんたのことを、これ以上、すきになってはいけないのに。
俺は息を止めて、指を組むと、上体を落とした。
奈保美が煙草を吸い終えるのを待つ。そのあいだ、言葉を交わさなかったが、何も不便ではなかった。むしろ居心地の良さを感じていた。適度な温度のお湯の中を、たゆたっているような。ずっと、この時間が続けばいいのにと願いながら。
最後に奈保美が大きく煙草を吸うと、先がちりちりと中へ向かい、金色に染まった。そして、薄墨の灰になって形を保つ。
その状態になったのを待っていたのか、すっと立ちあがり、近くの手洗い場で、蛇口をひねって水を出す。
煙草を口から離して、そっと流れる水に近付け、火を消した。洗われた煙草は、燃えた部分が水の圧力で、綺麗にこそげとられて落ちてゆく。残った部分を、ゆびさきでもてあそび、近くのゴミ捨て場にそっと落とす。白く細いからだが、くるりと一回転して姿を消す。
煙草の薫りだけは、あたりに沁みるように残っていた。
俺は何も言わずに、まぶたを閉じて立ちあがる。
つられて奈保美も、立ちあがった。
ふたりで黙って、駅のほうまでゆっくりと歩いた。言葉は無くとも、煙草の薫りだけは残っていた。
俺と奈保美のあいだにあるもの。それは諦念だった。ここまで。これ以上は踏み込んではいけないという、暗黙の気持ちが、鈍く細い糸であいだに垂らされている。
奈保美が、俺のことをどう思っているのかわからない。彼女に相手がいる以上、そこに答えを求めてはいけなかった。だからこの諦念を感じているのは、俺だけなのかもしれない。
出逢って、たのしく過ごして、別れるだけ。夜を超えずに。俺たちの関係は、それだけ。この関係が続くのかもわからない。この夜が終われば次はないかもしれない。
駅近くに着く。あまり、ひとのいないところで足を止めた。
奈保美が口をひらいた。
「今日はありがとう。なかなか、たのしかったよ」
「なかなかって、なによ。上から目線かよ。ああ、まあ……。そう、よかった」
俺は何も考えずに答えていたが、聞くひとが聞けば、少し不機嫌に感じるかもしれない、低く掠れた声が出ていた。
奈保美がどう思ったのかはわからないが、彼女の表情は変わらなかった。
かるくうつむいて、鼻で息を吐いてからズボンに突っ込んでいた両手を出し、腰に当てると、眉を寄せて、またひらく。
顔をそっとあげると、夜風がさらにつめたく感じた。
日はもう暮れていて、さっきまで過ごしていた背後の深い森は、黒く塗りつぶされたように、暗く染まっている。
俺をじっとみつめていた奈保美は、せつなげに顔を歪ませて、泣き笑いのような表情をしていた。街のあかりをうつしたレンズ越しに、琥珀の瞳が、水をふくんでゆれている。
奈保美が指をくねらして宙をかく。何かをゆびさすようにも見えるその仕草。
笑顔は深みを帯び、目尻にかすかな皺が浮いた。
「春一郎くんが、春一郎くんのまま、おとなになってるのがわかってよかったよ。お互い、良い歳の取り方ができているみたいだよね。……じゃあ、また機会があれば会おう。時が来れば」
ふわりと顔の横に手をあげて、ひらと振る。
そしてくるりと後ろを向いて、右手をゆらゆらとゆらして、手の甲で俺に別れの挨拶をする。そのまま振り返らずに駅に向かって歩き出した。スカートに隠された長く細い脚が、交差してしずかな音を立てて離れてゆく。
橙の髪の流れに合わせ、紺色の影がいろどる。伏せたまぶたの盛りあがりにも、薄青の陰影が生まれて、浮かびあがる。あかるい日の下に見たときは、そこに真昼の色彩がほどこされていたはずなのに。
俺はそっと息を吸った。肺がかすかに痛む音がする。煙草を吸っていないのに、さっき隣で浴びた、煙草の味が、舌の上に染みた。
「……俺んち来れば?」
永遠にも思われる間がうまれる。
抑えたつもりだったが、割とでかめの声が出てしまった。
奈保美が一瞬固まり、そっとこちらを振り返った。肩のあたりで段を持った髪が、夜の空気をはらんで重く舞い上がる。
目を見開き、少し驚いた顔をしていた。そして困ったような笑顔を浮かべる。
「……なんで? はは、変なこと言うんだなぁ。……ごめん、ちょっと落ち着きたいから、煙草一本吸うね」
奈保美はショルダーバッグから青い煙草の箱をひとつ取り出すと、かるく振る。頭が一本出て、顎の下まで持っていくと、巻紙をくちびるで食んだ。
俺は、鞄の中から青い煙草の箱をひとつ取り出した。
奈保美はそれを見て、また少し驚く。自分が使ってるのと同じものだったからだろう。
カートンを片手で軽くゆらし、一本煙草を取り出すと、まぶたを伏せてくちびるで食む。すーっと何かが抜ける掠れた音がして、吐息で巻紙が湿ってゆく。
ズボンから、赤いライターを取り出すと、俺は前へ動き出した。すたすたと迷いなく真っ直ぐに、だが感情を殺した顔で歩く俺は、不気味だっただろう。巻紙が湿る速度で、俺の息が、さっきより早くなっていることを知った。ライターの回転式やすりを、親指でこすりつけるように下方向へ回転させる。
ちいさな青い炎が咲き、そっと咥えた煙草のフィルターに近づける。
炎がフィルターを飲み、ちりちりと焦げるような音がして、ともしびがはじまった。透明な白いけむりが、目の前を直線的にたゆたう。
呆然と俺を見ている奈保美の目の前まで迫る。やや面高で、鼻筋の通っている顔は、十年前と変わっていない。でも以前よりも肉付きが良くなり、あかるい肌の色と質感の中に、少し疲れているものがある。
それを取り払ってやりたい。そのとき、発火するようにそう思った。
近くで車が走ったのか、ライトが一瞬強くひかる。雷に打たれたように、俺たちは刹那に白く溶けて、輪郭を消した。
俺は、奈保美の顔のラインに沿って、耳の下から顎にかけて、右手のゆびさきでそっとふれた。ゆびの腹が、途中でつっかかって止まる。
奈保美の眼鏡のレンズの中に、赤や青のネオンを背景に、真っ黒な俺が居る。琥珀の瞳はゆれずに、俺を真っ直ぐに見ている。
どちらがどちらに吸い込まれるのかが、わからない。
俺は奈保美から目を逸らさずに、咥えた煙草にゆびを添えて固定すると、彼女の咥えていた煙草の先と、先をふれあわせた。
煙草は、赤く燃えている場所から、溶けて崩れて交わってゆく。ゆったりとした沈み方だった。限界まで交わると、赤よりもあかるい橙に染まって、溶けてひとつになる。かすかに煙草の向きが下がるが、交わったままだった。
線香花火が落ちるときのように、燃えかすがひとつぶ、ひらりと夜に舞って落ちてゆくのを待って、俺は奈保美から煙草を離した。
「春……」
奈保美が俺の名を呼び終わる前に、煙草を咥えていない口のあいだから、ゆったりと息を吐く。白く透明なものが、紺色の空気に溶けて昇ってゆく。どこまでも。
俺は煙と反対に、徐々にうつむいてからだを傾けていった。まぶたを伏せ、少しだけ開ける。まつげの影が目に入って暗い。夜よりもくらい。
「俺も、あれから、色々な女と会って来たんだよね」
顔をあげた。前髪が目に入ってきて、うっとうしい。
喉元から白い怒りのような衝動が走り、脳の一部をくらくらさせる。
どこかで車が走り、車体に反射した青白いひかりが目に入って、一瞬雷の中に落ちたような視界になる。
煙草に寄せていた二本のゆびに、かるい圧力をかけてくちびるから少し離す。さらにけむりが濃くなって、顔の周りを覆う。
「他の男とじゃできねぇような、すげえセックスしてみてえだろ?」
奈保美はぽかんと口を開けていたが、ふるふると震えた。
咥えていた煙草を、右手の人差し指と中指で支えて抜き出すと、体をくの字に曲げて、腹を抱えてわらい出した。
ゆたかな髪が前へ流れ落ち、銅の紗幕のように彼女の頭や胸を覆う。足が内側に曲げられて、隠されていたふくらはぎが、スカートからむき出しになって乳白色の半月のように、てらりと青い影を持つ。
渾身の台詞も、変なわらい方に受け止められてしまった。
やがて、わらいの波が引いてゆくと、倒されていた状態が勢いよく起こされ、肩にこぼれていた紙が、ふわりと背後に舞い降りる。
「本当に面白いな。君は……。相変わらず」
左手で右肘を支え、煙草を持った手を、顔の横にあげる。ゆびさきはかるく曲げて。こどものいたずらを、やさしく責める母親のような苦笑を浮かべて、奈保美は言った。
「いいよ。私と春一郎君は、ともだちだもの。ともだちが、ともだちの家に遊びに行くのは普通のことだよね。映画でも見よう」
弧を描いて手首を動かすと、煙草をふたたびくちびるに咥えて、息を深く吸った。
そしてつかつかと俺に近寄ると、俺の耳元で煙草を口から離し、ふわりと息を吐いた。
「あまりおばさんをからかうもんじゃないよ」
怒っているとも、からかって、わらっているとも取れる女の顔と吐息が迫る。
けむりは、あまく熟れた香りがした。かすかに麝香のようなものも混ざっている。それはけむりではなく、奈保美の体臭からであろうか。
俺はその香りを、鼻から胸いっぱいに吸い込んだ。麻薬のような陶酔が、からだ中をめぐり、脳内をうす紅のかすみで覆う。咽せ返るような女のにおいに、何も考えられなくさせられる。



