夕日は、空の縁に落ちていて、後は茜の名残が、薄紫と共に、冷えて紺色に染まってゆく途中だった。空気中につめたい水分をふくんだものが浮いて、さえざえとした透明感を増している。
公園なんて、おとなになってから、あまり足を運ばなくなった。高校を卒業した俺は、地元から離れて、東京の大学に進学してからは、ずっと東京でひとり暮らしをしていて、盆か正月か、忙しい時は、丸一年帰らない年もざらにあるので、奈保美と話した公園には一度も行っていなかった。
駅の近くの公園まで、ふたりで歩いた。会話はあまりしなかった。奈保美と俺の影が、細長く硬い道路に伸びている。道に透明な黒を乗せて、筆でぼかして描いたようなうすい影が、歩くたびにゆらめく。前は、俺のほうが、彼女より背が低かったが、今は同じくらい、いや、俺のほうが若干高くなっていた。ガキのころは、奈保美に圧倒的なでかさを感じていたというのに、今かたわらをしずかに歩く奈保美は、華奢で繊細な、俺よりちいさな女だった。
夏でもないのに、こめかみに汗が浮いていた。緊張していることに、しばらく自身で気づいていなかった。喉につばがつっかえているふりをして、数回みじかい咳をした。
公園に来るまでは、おぼろで断片的だった当時の記憶が、色と温度を持ってあざやかによみがえる。忘れていた記憶が、自分のからだとゆかりのある場所に足を踏み入れたことによって、スイッチを押されているのだ。
奈保美と話したことで、彼女を最後に描いたときに、身も心もシンクロしたように心地よかったことや、ヌードモデルを辞めると聞いて、内心切なくなっていたが、それを表に出さないように、笑顔を貼り付けていた表情筋の痛みなどが、身体の内側からあふれるようで、苦しかった。目をそらそうにも、からだの中に古くから沈澱していたものが浮きあがっているので、そらせない。黒い地に散った桜のしろい花弁が、強い風が吹いて舞いあがっているようだ。風が止んだ後も、生暖かい熱の中でひらひらと踊って、花弁自身もいつ舞い落ちればいいのかわからなくなっている。
ふたりで腰掛けたベンチは、黄色がうすれて白っぽく変色していた。途中で買ったブラックのあたたかな缶コーヒーを奈保美に手渡すと、かるく礼を言われた。缶の表面は水滴が浮いて、暮れた天色に、鈍くひかっていた。
俺と奈保美は、子供がひとり座れるほどの距離を空けて座った。
俺はかるく足をひらき、奈保美は長い脚を閉じて、膝から右へ斜めになるようにそろえていた。
重なったダークブラウンのスカートのギャザーから、ベージュのストッキングに纏われた肉付きの良い脚の脛が、つやを流してなめらかに、森の端にたたずんでいる。
何を話そうか、俺は悩んでいた。悩んでいる自分に驚いていた。
右手に持っていた缶コーヒーを左手のゆびさきで開けると、ぷしゅうという威勢の良い音が鳴った。
「コーラでもねえのに……」
あきれてつぶやくと、奈保美がそれを聞いてころころと笑う。背をまるめて、長くゆるやかな波を持つ髪が、ゆらゆらとゆれ、さらに深く濃い橙のすじが刻まれる。
「乾杯しよ。乾杯」
うなだれた顔をあげると、目の前でかちりと音が鳴った。奈保美の缶と、俺の缶が勝手に合わされ、離されてゆく。
俺が声をかけるよりも早く、奈保美は缶コーヒーをくちびるにつけて飲んだ。背中に、そりかえるのではないかというほど、大きくそらされたまるい喉が動き、ぐび、という音が聞こえる。気持ちの良い飲み方だった。他の美人がしなさそうな。
かけていた眼鏡が、かすかに傾いたが、首をまた大きく勢いづけて、前へ戻す。頬に、髪のふさがひとつこぼれる。
缶を口から離し、はあ、と大きく息を吐くと、そっと右手のひとさし指で、眼鏡の縁を持ちあげる。レンズが刹那、くすんだ空を映して、ふたたび琥珀の瞳がのぞいた。
「ほんとに、何してても楽しそうだな。相変わらず」
「あはは。えっそう? 君は何してても面白いよ。相変わらずね」
眼鏡の中にゆびを差し入れ、目尻のなみだを拭う。飾らないその仕草も、奈保美らしい。
ますます湧いてくる好感を、しずかに胸の中に落とすか、目を逸らすか自動的に悩んで処理しようとしていた。
俺は奈保美から目を逸らした。
「今何してんの。前言ってた、美術館の学芸員だっけ」
「そうそう。あれから、ずっとそれです」
「続いててよかったじゃん。仕事たのしいっすか」
「うん、たのしい。天職だと思って、やれてるかな。やっぱり大学時代に勉
強してたものって、その後の人生に大きく関わるものになるよね。……春一郎くんはあれからどうだったのさ」
顔を大きく俺のほうに向けてくる。
大きな琥珀色の瞳に吸い込まれないように、俺はただただ空に視線を置いていた。うっすらとした雲が、溶けた太陽と重なって紫になり、また薄青の影をはらんで流れて、形を変えてゆく。
俺は若干、目を細めた。俺たちの時間も、あの雲のように、ゆっくりとだが確実に流れた。形はどんなふうに変わったのだろう。またふたたび交わるとも、思っていなかった。
「……美大行って、裸婦画家になったんだけど、まぁ全然売れなくて」
奈保美のほうをしずかに向いた。なんとなく彼女の瞳を真っ直ぐに受け止めようという気になっていた。膝についていた、缶コーヒーを持った片手を、顔のそばまであげる。缶を摑む手の力をゆるめ、人差しゆびを外に向ける。
「編集者のひとに声かけられて、今はエロ漫画家として、生計立ててる」
彼女の眼鏡のレンズが、虹色にきらめいているのを見て、気恥ずかしくなって両手を太ももの上に置いて、視線を落とした。
ふたりが並んだ影が、地に描かれて、まるく隣り合っていた。
その影すら気恥ずかしくて、横目で奈保美を、ちらと見やる。
奈保美は一拍置いて、ぽかんとうすく開けていたくちびるを咲ませた。
「へー! そうなんだっ。すごいじゃないか」
目をきらきらさせる。文字通り本当にきらきらしていた。琥珀の中に、飴色の粒がまばらに浮いていた。こんなに純粋な目を持つ奴を、久々に見た。ガキの時以来じゃねえか?
俺は彼女のペースに巻き込まれて、自分を操る術を失う前に、缶コーヒーに口をつけて一気に飲み干した。
苦くて香ばしいコーヒーが、喉を嚥下する心地よいつめたさで、からだが満たされる。
奈保美は、くるりとまた前を向いた。
俺も少し間を置いて前を向いたが、視線だけはかるく彼女のほうに向けていた。
子供のように思えた笑顔は、おとなの落ち着きをみせていた。まぶたを伏せ、長く上向いたまつげの影が、頬に落ちている。どこかかなしげにも見える憂いを帯びた顔だった。先ほどよりも影が濃くなっているように感じる。
「……お互い歳をとった。おとなになったんだね」
「……あんたは元から、おとなだろうが」
「ははっ、そうだったね」
奈保美はわらうと、缶コーヒーにふたたび口をつけて飲んだ。飲み終わると、背を屈め、膝に腕を乗せて、肘のさきで、ゆらゆらと手首をゆらす。缶が一緒にゆれて、涙のような水滴がぽつり、ぽつりと落ちてゆく。
「君は、あれからどうしているだろうと、時々思い出すことがあったんだ。絵の道を続けていってくれればいいなと思っていた。それがどんな形であれ、趣味であれ、職業にしているのであれ。君の人生には、絵を描くことがあって欲しいと思っていた。君がそれを望まないのであれば、やめてくれていてもいいとも思っていた。でも私は君の絵がすきだったからね。『辻本春一郎』で検索したこともある。本名では活動していないだろうなと思ってたんだけど、なんとなく……いやどうしても気になってしまって」
缶をゆらす手首の動きが、はやくなっていた。奈保美が緊張しているのがわかった。
いや、恥ずかしいのだろうか? 俺と別れてからも、俺のことを気にかけていたことが。
俺は、奈保美の話を聞いていて、胸の内側が熱くなっていた。下手したら泣いてしまいそうなほど、うれしかった。喉の奥に枯れるような痛みがのぼってくる。寄せそうになる眉を、表情筋をうまく動かして、かるい笑顔に変えて。
「あんがとね。ペンネームは確かに、本名じゃないよ。エロ描いてるのに、本名だと恥ずいし」
「別れた後で、名前検索してるのって気持ち悪かったかな」
「いや、俺も奈保美さんのこと、ちょっと気になってたから、まー……、うれしいよ。ほんとありがとう」
奈保美と会話している。記憶の奥深くに沈んで、それでも時折、肌の表面にからみつくようにあらわれていた、あの奈保美と。
不思議な心地で、ここは夢なんじゃないかと、暮れなずむ空と、深い夜の空気を醸しだす森の薫りに、心を馴染ませていた。
「今、付き合ってるひとがいるんだ」
森のしずかな空気が、一瞬灰のように錆びたものに変わった気がした。鼻先に、焦げた紙をちらつかされたようだ。
ゆるやかなともしびが、激しい炎へと変わる前に、俺は背を逸らして口を開けた。
一度真顔になり、かくりと首を落とすと奈保美のほうを向いた。
「えー、そうなんだ。相手どんなひとなの?」
「大学の先生」
自然な笑顔だった。しあわせって言葉は、あまりすきじゃないが、しあわせを感じさせる表情をしていた。少し困っているようだが、奈保美の眉は均一で、当たり前だが、俺に対しての切なさやかなしみなどが、感じられなかった。久々に会う友達に、そっと打ち明けるような温度感で。
いちじくの果実が、片手で握りつぶされたような映像が脳裏に浮かび、胸の内側で、湿った水っぽさがじわりと広がった。それをうすい膜で覆い、なんとか肌の外に表出しないように気をつけていた。
缶コーヒーを持つ手の圧力が大きくなり、いつの間にか、握った親指のあたりの缶の表面が、ぼこりと凹んでいた。
「どこで出逢ったの?」
奈保美を見ていたはずが、目を逸らしていた。宵闇の色を纏った草しか、うつっていない。
「美術がすきで、私が勤める美術館によく来てくれるひとだったんだ。絵画のことについてよく質問してくれて、会話にストレスがなくて、良いひとだなと思ってたときに、向こうが告白してくれて、2年……? とか経つかなぁ。私よりちょっと年上なんだ」
「じゃあ話し合うひとじゃん。奈保美さんに、そういうひと見つかってよかったね」
やさしいようにも、そっけないようにも聞こえる言い方をしてしまった。奈保美をわざと、しっとり傷つけるようにも聞こえていたかもしれない。
奈保美は少し眉を下ろしていた。琥珀のひとみが、滲んで飴色になっている。
「そうだね。うん、やさしいひとだよ」
しばし沈黙が訪れる。
風が吹く。やわらかだった。先ほどより、ふくまれている水分の量が増えている。枯葉が混ざり、灰色の空気に、錆びた赤黄色がつく。
俺は、その中のひとひらを、ひとさしゆびと親指で摘んだ。簡単だった。
葉は端が欠けていて、中央にちいさなまるい虫食いの穴が空いている。そこから、焦げたように茶色が円を描いていた。ゆるゆると葉柄をまわす。つやの残る表よりも、裏のほうが、こすれて色もうすくなっている。
「そのひととは、結婚とか考えてんの」
「うん、まあ、今年には、一応籍を入れようかって話してるよ。まだ一緒に暮らしてはいないんだけどね」
「そうなんだ」
俺は、枯葉の葉柄を、ひときわ大きく回すと、指の力を抜いてそっと落とした。くるくると廻り、地へ落ちると、掠れた色だったはずの葉は、黒の中であざやかに咲いた。
鼻から短く息を吐き、顔をあげると笑顔を貼り付けた。
「よかったね。おめでとう」
「……ありがとう」
奈保美も笑顔で返してくれた。
自然で不自然な、俺たちの微笑みが交わり合う。
俺は立ちあがり、缶コーヒーを捨てようと、ボックスを探した。
「あった」
俺が足を運ぶよりも早く、横から何かが飛んで高い音がした。
ボックスに缶がひとつ落とされたのだと気づいた時、ベンチを振り返る。
奈保美が、投げ終わった後のピッチャーのような構えでいた。右腕を伸ばし、右脚を後ろに流している。ひとしごと終えた選手のように、構えを元に戻すと、息を吐いて、手首と足首を回していた。
「帰ろっか」
俺の返事を聞く前に、奈保美は少しずれたキャスケットを被り直すと、腰にゆるく腕を回し、脚を広げて歩き出した。
風が吹き、また木の葉が多めに散る。
ゆれる橙が、金の影をはらむのを見ながら、乾いているが、あたたかなわらいをこぼした。
「あんたはほんと、そういうおもろいとこ変わんねぇな」
俺も缶コーヒーをそっと投げる。
ボックスの中で、からからと音を立てて落ちて、役目を終えた鉄屑の一部になる。かすかに残ったコーヒーが、その中に停滞して、香り高いものを放ち続けていた。
公園から歩いていると、日が暮れて、空に混じる紅がなくなってきた。ほとんど紺色に夜の気配が漂っている。空気はしずかで、薄青いやわらかな湿度がつかめるのではないか。
それを、奈保美と俺のあいだに置きたかった。無理なことだとわかっていたが、これよりショックなことが起きる前に、緩衝材を、用意しておきたかった。
奈保美とは、間隔をあけて歩いていた。ベンチでの距離と同じ、ひとひとり分の微妙な距離感。近すぎず、遠すぎない俺たちの関係。
夜風が吹く。奈保美の橙の髪に、薄青の影が宿って、ひらひらと剥がれ落ちてゆく。
ゆれる髪のすじに沿って、奈保美がそっと振り返る。やわらかく髪がなびいて、さらに深い紺色の影を纏った。俺のことをひとしきりみつめると、肩から下げていたポシェットから、スマホを取り出した。ピンクゴールドのカバーがかかっていて、薄青い世界の中で、人工的だがうるさくないきらびやかさを持っていた。
「はい」
足音を立てずに俺に近寄ると、青白い画面のあかりがついていた。縦長の四角で、唐突に現れた人工的なあかりに、少しふしぎな気持ちになる。
見下ろすと、ラインIDのバーコードが表示されていた。さっきまで森の中にいたので、白黒の人工的な模様に目が理解するまで、しばし時間がかかった。
「交換しないか。連絡先」
「あ、……ああ」
俺もジーンズのポケットから、スマホを取り出した。濃いブルーのカバーがついていて、波を描くまだらなピンクが少し混ざっている。この薄青の世界では、そこだけ闇をひときわ強くしたような色彩だった。
電子的なやり取りをした。ほのあかるい白い蛍光に、スマホを近づけて、バーコードを読み取ると、奈保美のアカウントが出てきた。あほづらをした黒いデブ猫のアップの写真に、ちいさな薄紅の薔薇のデコレーションが描かれている。コミカルでもあり、シックな雰囲気もあるアイコン。奈保美らしい。
「何このデブ猫。飼ってんの?」
「実家で飼ってた子。もう亡くなってしまったんだけどね。エキゾチックショートヘアのココアだよ。こっちゃん、てあだ名だった」
寂しそうな笑顔を浮かべながら、近づけた自分のスマホを俺から離し、またひとりぶんの距離を空けて、ひらりと風のように離れてゆく。
少しつめたい空気が、質量を持って頬を撫でてゆく。
まるい満月のような、どこか妖しい金色の目をしたココアのアイコンから、視線を剥がす。
奈保美がゆったりと歩を進めるたびに、うすい肌色のストッキングを履いたくるぶしの頂点が、スカートから顔を出す。背中に腕を回していた奈保美がそっと振り返る。満面の笑みを浮かべていた。
「これで君と、ともだちになった」
「はあ」
俺は、ジーンズのポケットに突っ込んでいた手を固くする。別にともだちって、連絡先交換したらなるもんでもないし、連絡先交換してないやつでも、ともだちって呼べるやつもいるじゃん、とか思ったが、めんどくさくて言えなかった。
今まで連絡先すら知らなくて、十年越しに会えたんだから、連絡先を交換しただけでも、俺たちの関係性の中では大分進歩したのかもしれない。そもそも俺と奈保美さんの関係がふしぎすぎて、今さらともだちって言われても、どうすればいいかわかんねぇし。
奈保美はゆるく腰をかがめ、けらけらと変な笑い方をすると、右腕を伸ばしてゆびを立て、俺のほうをつきさした。
「今度、お酒でも飲みに行こうよ。もう春一郎くんも、おとなになったんだしさ。ただぶらぶら商店街を散歩するんでもいい。美術館行ったり、映画館行ったり、普通のともだちっぽいことしよう」
うすいグリーンのレンズ越しに、琥珀の世界が広がっていた。俺はその世界の中央、もっとも濃い場所にとらえられていた。
「まあ、いいけど」
ジーンズに突っ込んだ右手は、震えて熱く湿っていた。
夜風は涼しく、葉はさわさわとゆれ、ほのかに灯った街灯はましろく、完璧な夜を彩っていた。誰かにとっては他愛もない夜のひとつだが、俺にとっては特別な夜を。
奈保美は、紺色の夜の中でも輪郭だけが薄青く、内側から、ほのかだが確かな暖色を放っていた。
公園なんて、おとなになってから、あまり足を運ばなくなった。高校を卒業した俺は、地元から離れて、東京の大学に進学してからは、ずっと東京でひとり暮らしをしていて、盆か正月か、忙しい時は、丸一年帰らない年もざらにあるので、奈保美と話した公園には一度も行っていなかった。
駅の近くの公園まで、ふたりで歩いた。会話はあまりしなかった。奈保美と俺の影が、細長く硬い道路に伸びている。道に透明な黒を乗せて、筆でぼかして描いたようなうすい影が、歩くたびにゆらめく。前は、俺のほうが、彼女より背が低かったが、今は同じくらい、いや、俺のほうが若干高くなっていた。ガキのころは、奈保美に圧倒的なでかさを感じていたというのに、今かたわらをしずかに歩く奈保美は、華奢で繊細な、俺よりちいさな女だった。
夏でもないのに、こめかみに汗が浮いていた。緊張していることに、しばらく自身で気づいていなかった。喉につばがつっかえているふりをして、数回みじかい咳をした。
公園に来るまでは、おぼろで断片的だった当時の記憶が、色と温度を持ってあざやかによみがえる。忘れていた記憶が、自分のからだとゆかりのある場所に足を踏み入れたことによって、スイッチを押されているのだ。
奈保美と話したことで、彼女を最後に描いたときに、身も心もシンクロしたように心地よかったことや、ヌードモデルを辞めると聞いて、内心切なくなっていたが、それを表に出さないように、笑顔を貼り付けていた表情筋の痛みなどが、身体の内側からあふれるようで、苦しかった。目をそらそうにも、からだの中に古くから沈澱していたものが浮きあがっているので、そらせない。黒い地に散った桜のしろい花弁が、強い風が吹いて舞いあがっているようだ。風が止んだ後も、生暖かい熱の中でひらひらと踊って、花弁自身もいつ舞い落ちればいいのかわからなくなっている。
ふたりで腰掛けたベンチは、黄色がうすれて白っぽく変色していた。途中で買ったブラックのあたたかな缶コーヒーを奈保美に手渡すと、かるく礼を言われた。缶の表面は水滴が浮いて、暮れた天色に、鈍くひかっていた。
俺と奈保美は、子供がひとり座れるほどの距離を空けて座った。
俺はかるく足をひらき、奈保美は長い脚を閉じて、膝から右へ斜めになるようにそろえていた。
重なったダークブラウンのスカートのギャザーから、ベージュのストッキングに纏われた肉付きの良い脚の脛が、つやを流してなめらかに、森の端にたたずんでいる。
何を話そうか、俺は悩んでいた。悩んでいる自分に驚いていた。
右手に持っていた缶コーヒーを左手のゆびさきで開けると、ぷしゅうという威勢の良い音が鳴った。
「コーラでもねえのに……」
あきれてつぶやくと、奈保美がそれを聞いてころころと笑う。背をまるめて、長くゆるやかな波を持つ髪が、ゆらゆらとゆれ、さらに深く濃い橙のすじが刻まれる。
「乾杯しよ。乾杯」
うなだれた顔をあげると、目の前でかちりと音が鳴った。奈保美の缶と、俺の缶が勝手に合わされ、離されてゆく。
俺が声をかけるよりも早く、奈保美は缶コーヒーをくちびるにつけて飲んだ。背中に、そりかえるのではないかというほど、大きくそらされたまるい喉が動き、ぐび、という音が聞こえる。気持ちの良い飲み方だった。他の美人がしなさそうな。
かけていた眼鏡が、かすかに傾いたが、首をまた大きく勢いづけて、前へ戻す。頬に、髪のふさがひとつこぼれる。
缶を口から離し、はあ、と大きく息を吐くと、そっと右手のひとさし指で、眼鏡の縁を持ちあげる。レンズが刹那、くすんだ空を映して、ふたたび琥珀の瞳がのぞいた。
「ほんとに、何してても楽しそうだな。相変わらず」
「あはは。えっそう? 君は何してても面白いよ。相変わらずね」
眼鏡の中にゆびを差し入れ、目尻のなみだを拭う。飾らないその仕草も、奈保美らしい。
ますます湧いてくる好感を、しずかに胸の中に落とすか、目を逸らすか自動的に悩んで処理しようとしていた。
俺は奈保美から目を逸らした。
「今何してんの。前言ってた、美術館の学芸員だっけ」
「そうそう。あれから、ずっとそれです」
「続いててよかったじゃん。仕事たのしいっすか」
「うん、たのしい。天職だと思って、やれてるかな。やっぱり大学時代に勉
強してたものって、その後の人生に大きく関わるものになるよね。……春一郎くんはあれからどうだったのさ」
顔を大きく俺のほうに向けてくる。
大きな琥珀色の瞳に吸い込まれないように、俺はただただ空に視線を置いていた。うっすらとした雲が、溶けた太陽と重なって紫になり、また薄青の影をはらんで流れて、形を変えてゆく。
俺は若干、目を細めた。俺たちの時間も、あの雲のように、ゆっくりとだが確実に流れた。形はどんなふうに変わったのだろう。またふたたび交わるとも、思っていなかった。
「……美大行って、裸婦画家になったんだけど、まぁ全然売れなくて」
奈保美のほうをしずかに向いた。なんとなく彼女の瞳を真っ直ぐに受け止めようという気になっていた。膝についていた、缶コーヒーを持った片手を、顔のそばまであげる。缶を摑む手の力をゆるめ、人差しゆびを外に向ける。
「編集者のひとに声かけられて、今はエロ漫画家として、生計立ててる」
彼女の眼鏡のレンズが、虹色にきらめいているのを見て、気恥ずかしくなって両手を太ももの上に置いて、視線を落とした。
ふたりが並んだ影が、地に描かれて、まるく隣り合っていた。
その影すら気恥ずかしくて、横目で奈保美を、ちらと見やる。
奈保美は一拍置いて、ぽかんとうすく開けていたくちびるを咲ませた。
「へー! そうなんだっ。すごいじゃないか」
目をきらきらさせる。文字通り本当にきらきらしていた。琥珀の中に、飴色の粒がまばらに浮いていた。こんなに純粋な目を持つ奴を、久々に見た。ガキの時以来じゃねえか?
俺は彼女のペースに巻き込まれて、自分を操る術を失う前に、缶コーヒーに口をつけて一気に飲み干した。
苦くて香ばしいコーヒーが、喉を嚥下する心地よいつめたさで、からだが満たされる。
奈保美は、くるりとまた前を向いた。
俺も少し間を置いて前を向いたが、視線だけはかるく彼女のほうに向けていた。
子供のように思えた笑顔は、おとなの落ち着きをみせていた。まぶたを伏せ、長く上向いたまつげの影が、頬に落ちている。どこかかなしげにも見える憂いを帯びた顔だった。先ほどよりも影が濃くなっているように感じる。
「……お互い歳をとった。おとなになったんだね」
「……あんたは元から、おとなだろうが」
「ははっ、そうだったね」
奈保美はわらうと、缶コーヒーにふたたび口をつけて飲んだ。飲み終わると、背を屈め、膝に腕を乗せて、肘のさきで、ゆらゆらと手首をゆらす。缶が一緒にゆれて、涙のような水滴がぽつり、ぽつりと落ちてゆく。
「君は、あれからどうしているだろうと、時々思い出すことがあったんだ。絵の道を続けていってくれればいいなと思っていた。それがどんな形であれ、趣味であれ、職業にしているのであれ。君の人生には、絵を描くことがあって欲しいと思っていた。君がそれを望まないのであれば、やめてくれていてもいいとも思っていた。でも私は君の絵がすきだったからね。『辻本春一郎』で検索したこともある。本名では活動していないだろうなと思ってたんだけど、なんとなく……いやどうしても気になってしまって」
缶をゆらす手首の動きが、はやくなっていた。奈保美が緊張しているのがわかった。
いや、恥ずかしいのだろうか? 俺と別れてからも、俺のことを気にかけていたことが。
俺は、奈保美の話を聞いていて、胸の内側が熱くなっていた。下手したら泣いてしまいそうなほど、うれしかった。喉の奥に枯れるような痛みがのぼってくる。寄せそうになる眉を、表情筋をうまく動かして、かるい笑顔に変えて。
「あんがとね。ペンネームは確かに、本名じゃないよ。エロ描いてるのに、本名だと恥ずいし」
「別れた後で、名前検索してるのって気持ち悪かったかな」
「いや、俺も奈保美さんのこと、ちょっと気になってたから、まー……、うれしいよ。ほんとありがとう」
奈保美と会話している。記憶の奥深くに沈んで、それでも時折、肌の表面にからみつくようにあらわれていた、あの奈保美と。
不思議な心地で、ここは夢なんじゃないかと、暮れなずむ空と、深い夜の空気を醸しだす森の薫りに、心を馴染ませていた。
「今、付き合ってるひとがいるんだ」
森のしずかな空気が、一瞬灰のように錆びたものに変わった気がした。鼻先に、焦げた紙をちらつかされたようだ。
ゆるやかなともしびが、激しい炎へと変わる前に、俺は背を逸らして口を開けた。
一度真顔になり、かくりと首を落とすと奈保美のほうを向いた。
「えー、そうなんだ。相手どんなひとなの?」
「大学の先生」
自然な笑顔だった。しあわせって言葉は、あまりすきじゃないが、しあわせを感じさせる表情をしていた。少し困っているようだが、奈保美の眉は均一で、当たり前だが、俺に対しての切なさやかなしみなどが、感じられなかった。久々に会う友達に、そっと打ち明けるような温度感で。
いちじくの果実が、片手で握りつぶされたような映像が脳裏に浮かび、胸の内側で、湿った水っぽさがじわりと広がった。それをうすい膜で覆い、なんとか肌の外に表出しないように気をつけていた。
缶コーヒーを持つ手の圧力が大きくなり、いつの間にか、握った親指のあたりの缶の表面が、ぼこりと凹んでいた。
「どこで出逢ったの?」
奈保美を見ていたはずが、目を逸らしていた。宵闇の色を纏った草しか、うつっていない。
「美術がすきで、私が勤める美術館によく来てくれるひとだったんだ。絵画のことについてよく質問してくれて、会話にストレスがなくて、良いひとだなと思ってたときに、向こうが告白してくれて、2年……? とか経つかなぁ。私よりちょっと年上なんだ」
「じゃあ話し合うひとじゃん。奈保美さんに、そういうひと見つかってよかったね」
やさしいようにも、そっけないようにも聞こえる言い方をしてしまった。奈保美をわざと、しっとり傷つけるようにも聞こえていたかもしれない。
奈保美は少し眉を下ろしていた。琥珀のひとみが、滲んで飴色になっている。
「そうだね。うん、やさしいひとだよ」
しばし沈黙が訪れる。
風が吹く。やわらかだった。先ほどより、ふくまれている水分の量が増えている。枯葉が混ざり、灰色の空気に、錆びた赤黄色がつく。
俺は、その中のひとひらを、ひとさしゆびと親指で摘んだ。簡単だった。
葉は端が欠けていて、中央にちいさなまるい虫食いの穴が空いている。そこから、焦げたように茶色が円を描いていた。ゆるゆると葉柄をまわす。つやの残る表よりも、裏のほうが、こすれて色もうすくなっている。
「そのひととは、結婚とか考えてんの」
「うん、まあ、今年には、一応籍を入れようかって話してるよ。まだ一緒に暮らしてはいないんだけどね」
「そうなんだ」
俺は、枯葉の葉柄を、ひときわ大きく回すと、指の力を抜いてそっと落とした。くるくると廻り、地へ落ちると、掠れた色だったはずの葉は、黒の中であざやかに咲いた。
鼻から短く息を吐き、顔をあげると笑顔を貼り付けた。
「よかったね。おめでとう」
「……ありがとう」
奈保美も笑顔で返してくれた。
自然で不自然な、俺たちの微笑みが交わり合う。
俺は立ちあがり、缶コーヒーを捨てようと、ボックスを探した。
「あった」
俺が足を運ぶよりも早く、横から何かが飛んで高い音がした。
ボックスに缶がひとつ落とされたのだと気づいた時、ベンチを振り返る。
奈保美が、投げ終わった後のピッチャーのような構えでいた。右腕を伸ばし、右脚を後ろに流している。ひとしごと終えた選手のように、構えを元に戻すと、息を吐いて、手首と足首を回していた。
「帰ろっか」
俺の返事を聞く前に、奈保美は少しずれたキャスケットを被り直すと、腰にゆるく腕を回し、脚を広げて歩き出した。
風が吹き、また木の葉が多めに散る。
ゆれる橙が、金の影をはらむのを見ながら、乾いているが、あたたかなわらいをこぼした。
「あんたはほんと、そういうおもろいとこ変わんねぇな」
俺も缶コーヒーをそっと投げる。
ボックスの中で、からからと音を立てて落ちて、役目を終えた鉄屑の一部になる。かすかに残ったコーヒーが、その中に停滞して、香り高いものを放ち続けていた。
公園から歩いていると、日が暮れて、空に混じる紅がなくなってきた。ほとんど紺色に夜の気配が漂っている。空気はしずかで、薄青いやわらかな湿度がつかめるのではないか。
それを、奈保美と俺のあいだに置きたかった。無理なことだとわかっていたが、これよりショックなことが起きる前に、緩衝材を、用意しておきたかった。
奈保美とは、間隔をあけて歩いていた。ベンチでの距離と同じ、ひとひとり分の微妙な距離感。近すぎず、遠すぎない俺たちの関係。
夜風が吹く。奈保美の橙の髪に、薄青の影が宿って、ひらひらと剥がれ落ちてゆく。
ゆれる髪のすじに沿って、奈保美がそっと振り返る。やわらかく髪がなびいて、さらに深い紺色の影を纏った。俺のことをひとしきりみつめると、肩から下げていたポシェットから、スマホを取り出した。ピンクゴールドのカバーがかかっていて、薄青い世界の中で、人工的だがうるさくないきらびやかさを持っていた。
「はい」
足音を立てずに俺に近寄ると、青白い画面のあかりがついていた。縦長の四角で、唐突に現れた人工的なあかりに、少しふしぎな気持ちになる。
見下ろすと、ラインIDのバーコードが表示されていた。さっきまで森の中にいたので、白黒の人工的な模様に目が理解するまで、しばし時間がかかった。
「交換しないか。連絡先」
「あ、……ああ」
俺もジーンズのポケットから、スマホを取り出した。濃いブルーのカバーがついていて、波を描くまだらなピンクが少し混ざっている。この薄青の世界では、そこだけ闇をひときわ強くしたような色彩だった。
電子的なやり取りをした。ほのあかるい白い蛍光に、スマホを近づけて、バーコードを読み取ると、奈保美のアカウントが出てきた。あほづらをした黒いデブ猫のアップの写真に、ちいさな薄紅の薔薇のデコレーションが描かれている。コミカルでもあり、シックな雰囲気もあるアイコン。奈保美らしい。
「何このデブ猫。飼ってんの?」
「実家で飼ってた子。もう亡くなってしまったんだけどね。エキゾチックショートヘアのココアだよ。こっちゃん、てあだ名だった」
寂しそうな笑顔を浮かべながら、近づけた自分のスマホを俺から離し、またひとりぶんの距離を空けて、ひらりと風のように離れてゆく。
少しつめたい空気が、質量を持って頬を撫でてゆく。
まるい満月のような、どこか妖しい金色の目をしたココアのアイコンから、視線を剥がす。
奈保美がゆったりと歩を進めるたびに、うすい肌色のストッキングを履いたくるぶしの頂点が、スカートから顔を出す。背中に腕を回していた奈保美がそっと振り返る。満面の笑みを浮かべていた。
「これで君と、ともだちになった」
「はあ」
俺は、ジーンズのポケットに突っ込んでいた手を固くする。別にともだちって、連絡先交換したらなるもんでもないし、連絡先交換してないやつでも、ともだちって呼べるやつもいるじゃん、とか思ったが、めんどくさくて言えなかった。
今まで連絡先すら知らなくて、十年越しに会えたんだから、連絡先を交換しただけでも、俺たちの関係性の中では大分進歩したのかもしれない。そもそも俺と奈保美さんの関係がふしぎすぎて、今さらともだちって言われても、どうすればいいかわかんねぇし。
奈保美はゆるく腰をかがめ、けらけらと変な笑い方をすると、右腕を伸ばしてゆびを立て、俺のほうをつきさした。
「今度、お酒でも飲みに行こうよ。もう春一郎くんも、おとなになったんだしさ。ただぶらぶら商店街を散歩するんでもいい。美術館行ったり、映画館行ったり、普通のともだちっぽいことしよう」
うすいグリーンのレンズ越しに、琥珀の世界が広がっていた。俺はその世界の中央、もっとも濃い場所にとらえられていた。
「まあ、いいけど」
ジーンズに突っ込んだ右手は、震えて熱く湿っていた。
夜風は涼しく、葉はさわさわとゆれ、ほのかに灯った街灯はましろく、完璧な夜を彩っていた。誰かにとっては他愛もない夜のひとつだが、俺にとっては特別な夜を。
奈保美は、紺色の夜の中でも輪郭だけが薄青く、内側から、ほのかだが確かな暖色を放っていた。



