あの夜――佐伯の部屋で寸前まで迫った距離を、自分で断ち切った。
 「忘れられない」と告げたときの彼の瞳に宿った切なさを、私は忘れられなかった。

 それでも翌朝、彼は何もなかったように明るい笑顔を見せてくれた。
 「おはよう、西園寺さん」
 その声に救われるのと同時に、胸が痛んだ。



 昼休み。
 デスクで一人うつむいていると、佐伯がトレーを持って近づいてきた。
 「一緒に食べよう」
 周囲の視線を気にする私とは対照的に、彼は堂々と私の向かいに座った。

 「……噂なんて気にするなよ。俺がそばにいればいい」
 優しい笑顔。
 その言葉に、胸が震える。



 午後の会議。
 同僚たちの視線が冷たく突き刺さる中、佐伯はさりげなく私のフォローをしてくれた。
 言葉に詰まった私の代わりに、資料を的確に補足する。
 「西園寺さんの案は現場にも有効だと思います」
 自分のことのように支えてくれるその姿に、涙が込み上げそうになった。



 会議後、廊下で声をかけられた。
 「西園寺さん」
 振り向くと、佐伯が真剣な眼差しを向けていた。

 「……俺はもう待つだけじゃない」
 低く落ち着いた声。
 「君が藤堂部長を好きでいることはわかってる。
 でも、それでも……俺は君を諦めない」

 胸が大きく揺れた。



 「どうして、そこまで……」
 震える声で問いかけると、彼は少しだけ寂しげに笑った。

 「だって俺は、君の涙を見たくないんだ。
 君を泣かせる男じゃなく、笑わせられる男でありたい」

 その言葉があまりに優しくて、心が痛んだ。



 夜。
 帰り道でスマートフォンを開くと、佐伯から短いメッセージが届いていた。
 《明日も君の笑顔が見られますように》

 胸の奥で、何かが静かに揺れた。
 ――もし、この人を選べたなら。
 私はもっと楽になれるのだろうか。

 けれど、頭に浮かぶのはいつだって、冷たい視線を投げるあの人だった。