眠れぬ夜を越えた翌朝、鏡に映る顔はひどくやつれていた。
 「これじゃ、また心配されてしまう……」
 そう呟きながら化粧を重ねても、赤く腫れた瞼は隠しきれない。

 会社に着くと、いつものざわめきがやけに遠く聞こえた。
 けれど私が通り過ぎると、そのざわめきが一斉に小さくなる。
 ――囁き声。
 それが全部、自分に向けられていると直感した。



 「聞いた? 西園寺さんと部長、やっぱりただの上司と部下じゃないって」
 「だってさ、この前のプレゼン、あんなにフォローしてもらって」
 「それだけじゃないよ。夜も一緒にいたの、見た人がいるらしい」

 足が止まった。
 夜――?
 確かに、先日帰り道を送ってもらったことはあった。
 けれど、それがもう「事実」として囁かれている。

 喉がカラカラに乾く。
 呼吸すら苦しい。



 「……西園寺さん」
 背後から佐伯の声がして、思わず振り返る。
 「大丈夫?」
 彼の瞳に心配の色が浮かんでいた。

 「……大丈夫です」
 微笑もうとするが、うまく笑えなかった。

 佐伯は何も言わずに、ただそっと私の手から資料を受け取り、代わりにコピー機にかけてくれた。
 その優しさが余計に胸を締めつける。



 午後、廊下を歩いていると、ふいに立ち止まる人影があった。
 ――藤堂部長。
 「西園寺」
 低い声で名を呼ばれ、心臓が大きく跳ねる。

 けれど周囲の視線を意識した瞬間、私は思わず一歩後ずさった。
 その動きを見た彼の表情が、わずかに歪む。

 「……今、噂になっているのは知ってるな」
 「……はい」
 声が震える。

 彼は一瞬言葉を探し、そして低く呟いた。
 「気にするな」

 それだけを言い残し、背を向けた。



 「気にするな」――そんなの無理だ。
 影のようにまとわりつく囁きは、日ごとに重さを増していく。

 昼休みも、休憩室に入れば静まり返る。
 エレベーターに乗れば、ひそひそと笑い声が背中に突き刺さる。
 孤立していくのを肌で感じていた。



 夜、自宅の窓辺に立ち、街の灯を見下ろす。
 「どうして……」
 ぽつりと零れた声は、雨音にかき消された。

 噂は影のように広がり、私の足元を飲み込んでいく。
 抗おうとしても、消し去ることはできない。

 ――十年前の影に縛られ、今は噂という影に覆われている。
 私はまた、一人で戦わなくてはならないのだろうか。