雨の音が世界を覆い隠す夜。
 仕事帰りの駅前で、私は立ち尽くしていた。
 忘れたはずの、いや、忘れようとしてきた名前が、胸の奥で痛むように響く。

 ――藤堂蓮。

 人混みの向こう、街灯の下に立つ男。
 濡れた黒髪、凛とした横顔。
 十年ぶりなのに、すぐにわかった。
 私の初恋の人。
 そして、最後に私を深く傷つけた人。



 「……藤堂さん」
 思わず名を呼んでしまう。

 彼はゆっくり振り返り、視線をこちらに向けた。
 冷たい瞳。
 十年前、優しく笑ってくれたはずの目には、今はもう温もりがない。

 「……久しぶりだな」
 低く掠れた声。
 ただそれだけ。

 私は胸が詰まって、声が出ない。
 本当は「会いたかった」と言いたかったのに。
 「元気だった?」と聞きたかったのに。
 雨音だけが、二人の間を埋め尽くしていく。



 「……偶然ね」
 やっと絞り出した声は、震えていた。
 彼は一瞬だけ目を細め、けれどすぐに視線を逸らした。

 「偶然、か」
 吐き捨てるような声に、胸が強く痛む。

 「どうしてそんな言い方を……」
 問いかけた途端、彼が近づいてきた。
 傘を差していない私の肩に、自分の傘を差し出す。

 「濡れる」
 短く、それだけ。



 「……優しいんですね」
 皮肉にも似た言葉が、唇から漏れる。

 彼の瞳がわずかに揺れた。
 「優しくなんかない」
 掠れた声。
 「十年前、俺は君を傷つけた。その事実は変わらない」

 心臓が跳ねた。
 十年前のことを、彼も覚えている。
 あの日の涙を、彼も忘れていない。

 けれど――。



 「もう一度……会えてしまったら、どうすればいいんですか」
 震える声で呟くと、彼が一歩、さらに近づく。

 傘の下、狭い空間。
 雨音にかき消される距離で、彼の吐息が頬を掠めた。

 「俺に聞くな。……俺だってわからない」

 低い声が胸に突き刺さる。
 拒絶とも、告白とも取れる曖昧な響きに、心が揺れた。



 雨に濡れた夜の街。
 十年前に止まってしまった初恋が、今、もう一度動き出そうとしている。

 ――でも、それが幸せなのかどうか、まだ答えは見つからない。