コルの店は、ふるい。

 開店したのは三年前だが、それ以前に営業していた食料品店の建物を買い取ってはじめたものだ。建てられてからもう、五十年ほど経っているらしい。

 だから、扉が乱暴に開けられた衝撃で壁がひどく軋んだし、棚の酒瓶は揺れてがちゃがちゃとぶつかり合う音をたてた。
 ウィスタは頬張っていたホットサンドにむせそうになり、くちを押さえた。

 「なんだ、どうした」

 コルはカウンタの向こうで皿を拭いていたが、飛び込んできた客の勢いに驚いて振り返った。相手の顔をみてやや険しい表情になる。
 入ってきた男は、店内を慌てた様子で見渡した。息が荒い。肩が激しく上下している。

 「ゴンズ、どうした。なにかあったのか」

 改めてコルが呼びかけると、白髪混じりのその小太りの男は窓の外を指差した。手は震えている。

 「お、沖で、船がひっくりけえってるんだよ!」
 「……船が? この港のものか?」
 「わからねえ、もう半分ほど沈んじまってて、船腹しかみえなかったんだ。あまりでかくはねえ」
 「ひとは」
 「見えなかった。俺は湾の様子を見回ってたんだが、破片が流れてきたから追ってみたんだ、そうしたら……周りをすこし廻ってみたが、人影は見えなかった。でも俺の船、霊珠《れいじゅ》が切れかかっちまってて、急いで戻ってこなきゃならなくてよ」

 コルは前掛けのうえで腕を組んだ。
 港のものは、遭難を発見したらすぐに神殿に通報する義務を負っている。連絡役のようなものが港ごとに置かれているから、そこへゆけばよい。
 が、しらせを聞いた神殿が派遣する船が現場へ到着するのは、ずっと後、もしかすると明日になってからかもしれない。救かるものも、救からないだろう。
 ことにここ十数年、この湾の付近では海難事故は起きておらず、救難体制も十分とはいえない。下手すると、他の港からの回船《かいせん》となるかもしれない。

 ゴンズと呼ばれた男もおなじことを考えているようで、漁師帽を握り締め、落ち着かない様子で目を泳がせている。

 「なあ、どうする、コル。神殿にお伺いたてるまえに、行っちまうか」
 「ああ……だが、船がない。昨日の嵐でみな、霊珠を取り外しちまってる。さっきも船長たちのところ回ったんだが、今日出る予定の船はないらしい」
 「そうか……ちくしょう、一隻くらいでられる船、ねえもんか」

 コルもゴンズも、改めて店内を見まわした。
 普段なら夜の漁もどりの漁師たちで賑わっている時刻だが、いまはウィスタと、数人の隠居した年寄りしかいない。
 と、ウィスタが、ちいさく手をあげた。

 「あの……わたし、出られますけど」

 コルとゴンズは、目を見合わせた。

 「わたしが乗り込めば、船、動かせます」
 「いや、ウィスタちゃん、気持ちはありがてえが、沖は嵐のあとだから危ねえんだ。漂流物がいっぱいでよ」

 ゴンズがいうと、ウィスタは不思議そうな表情を浮かべた。

 「ぶつかって落ちたら泳ぎますし」
 「泳ぐって、あんた……」
 「霊珠に祝福を与えている時間もないでしょうし。ゴンズさんは船、だせるんですよね」
 「あ、ああ、すぐそこに係留したけどよ」

 ウィスタはミルクが満たされたカップを持ち上げ、ぐぐぐっと飲み干し、たんと置いた。立ち上がる。

 「さ、いきましょう」
 「……ウィスタ、大丈夫なのか?」

 コルがウィスタの背中に呼びかけた。気遣わしげな、抑えた声。ウィスタにはもちろん、その意味がわかっている。
 船が、沈んだ。
 そのことばをきいたときに、ウィスタの拍動はおおきく乱れ、手が震えた。
 だが、ウィスタはもう、彼女を拘束しようとする記憶を飛び越える方法を手に入れているのである。
 くるんと振り返り、おおきく笑った。

 「なにいってるの。わたしは船護《ふなも》りの巫女。船と乗員を護るために、ここにいるんだから!」

 ゴンズは他にも行ける者を探したが、短時間では見つけることができなかった。
 コルが神殿の連絡所へ走ることとなり、ウィスタたちは船に向かった。ウィスタは着替える間もなかったから、白い巫女服のままである。

 ゴンズの船は小型の快速艇だった。湾の外まわりで小魚や海藻を採るしごとをしており、大きな積載量が不要なためだ。したがって霊珠も大きくはなく、活動可能な時間は長くはない。
 ウィスタは船首ちかくに固定された蒼い霊珠に祈る。
 船全体が、ふおん、と風に包まれた。周囲の水面がざざっと揺れる。ウィスタは操舵室にいるゴンズに振り返り、頷いた。ゴンズは手をあげて答え、手元の操作棒を倒した。
 すると、霊珠を固定している台が前方に傾く。同時に、船が音もなく滑り出す。水霊《すいれい》のちからを得た霊珠は、振るなり傾けることで、特定の方向に水を動かす能力をもつ。
 巫女自身が船を動かすことはできるが、船長の操作を可能とするため、霊珠を経由してちからを使うことが多い。現在のほとんどの船にはこうした、霊珠を操作する機構が備わっているのである。

 沖合に向けて船を走らせる。たしかにゴンズがいうとおり、昨夜の風雨の影響で漂流物が多い。やがて船の破片のようなものが見られるようになり、遠くに船影が見えた。
 ただし、海面に出ているのは黒い船腹だ。
 そう大きくはない。いまウィスタが乗るこの船とちょうど同じくらいだった。
 
 「この港のものですか?」
 
 ウィスタが操舵室に向かって声をかけると、中でゴンズが首を振った。

 「たぶん、ちがうんじゃねえかな。ここらの船はみな白い船腹だ。ああやってひっくりがえったときにみつけづれえからな。黒くするのは、軍船とか、そんなのだ」
 「軍船……」

 近づいてみる。
 その船のものなのか、塗料のついた破片が無数に流れており、こちらの船側にあたってごつごつと音を立てる。
 船腹には傷はついていないように見えた。おそらく、波をまともに横から受けて転覆したものと思われた。
 ゆっくりと周囲を廻ってみる。
 ゴンズの説明どおり、いかなる状態であれ、人影はなかった。
 より近づく。船を停め、ゴンズは係留用のひっかけ棒をつかって、船腹を強く叩いた。下から叩き返されることを期待したが、音はない。
 
 「ウィスタちゃん、ちょっと、祈ってみてくれねえか」
 「はい」

 ウィスタはその黒い船に向かって祝福の祈りを送った。が、手応えがない。船の様子も変わらない。どうやら、その船の霊珠は衝撃などで外れ、沈んでしまったらしい。

 「こりゃあ、残念だが……乗員は、もう」

 ゴンズは帽子をとり、黒い船に向かって頭をさげた。
 ウィスタも水の中を見つめた。乗員であったもの、そして港でその帰りを待っているであろう家族のことを想像し、その魂の安寧を、祈った。
 数年前に神殿のなかで自らの夫に、祈り続けたように。
 
 と。

 しゅん、と空気を切るような音。
 続いて、胸に軽い衝撃。
 ウィスタは、首の下を抑えた。
 熱を感じた。

 次の瞬間、船が大きく揺れた。
 波もないのに、まるで左右から巨大な手で掴まれ、揺さぶられるように、おおきく傾いた。構造材が軋んで音をたてた。
 ゴンズは悲鳴をあげ、手近なものに掴まった。

 「ウィスタちゃん……っ!」

 ゴンズは舷側に立っていたウィスタの方を見て、息を呑んだ。
 左手で手すりをつかみ、右手を胸にあてている。
 その右手の周囲が、つよく、蒼く、輝いていた。
 身体の周囲にいくつもの燐光が漂っている。
 燐光はやがて渦をなし、彼女を包んだ。

 ウィスタはわずかにゴンズの方へ振りかえった。表情はない。
 そのまま目を瞑り、手すりをこえて、ゆらりと海中へ落ちた。

 白の巫女服は揺れながら沈んでいった。
 嵐のあとの濁った水が、すぐにその姿を隠した。