ウィスタは祈り続けている。

 低く雲のかかる湾内を、顔を出したばかりの太陽が照らし出す。
 緋色のひかりが船を、岸壁を、あるいはいま港の背後のちいさな高台に立つウィスタの、色白の横顔を刻み出してゆく。

 昨夜の強い風雨はすでに去り、港町には爽やかな春の風が吹きとおっている。
 いまだ明けきらぬ夜の粘度は、だが、活気を帯びつつある町を沈めるちからをもう持ち得ない。
 煉瓦造りが多い港内の建物は、屋根も、看板も、まだ乾かぬ雨露に朝のひかりをうけ、みな、輝いている。

 額のまえに組んだ指、そこに眉間を軽くつけ、ウィスタは目を閉じている。
 朱色の髪は簡素な髪留めで束ねられ、意思の強さを感じる同じ色の眉尻がわずかに上げられている。
 星がひかりを失いつつある深い蒼の空を背景に、白い巫女の装束をまとって一心に祈る彼女の姿は、神話を主題とした一幅の絵画とも思われた。

 と、彼女の肩が、わずかに動いた。
 目を薄く、あける。
 彼女がたつ高台の下に、ひとりの男が岸壁のほうから早足でやってくることに気づいたためだ。
 ウィスタはかたちの良いくちびるをあけ、すう、と、吸った。
 重大な、審判のとき。

 男はウィスタを見上げ、両手をおおきく広げ、顔のまえで交差させた。
 眉を寄せ、首を左右に振っている。
 
 ウィスタはそれを確認し、組んでいた指を解いて腕を下ろした。
 下ろした勢いで、肩ががくんと、落ちている。首も同様である。大きなため息。

 「ああああ。だめかあ。やっぱりなあ」
 「悪いね。さすがに昨日の嵐じゃあ、漁にならないだろうってさ。商船にも当たってみたけど、今日は出る予定がないらしい」

 高台にあがってきた男はウィスタの隣に立ち、黒髪を短く刈り込んだ頭をぽりぽりと掻いた。
 この港町で唯一の食堂であり、酒場であり、雑貨屋と食料品店、そして仕事の斡旋屋を兼ねる店の主人、コルである。ウィスタとは親子ほども離れているのだが、よく引き締まった長身の体躯が見た目の印象を実際よりずっと若く見せている。

 「だよねえ。うああ、これで三日連続、仕事なし、だあ……」
 「まあ、船が動いてこその、船護《ふなも》りの巫女だからなあ」
 「うう……じゃあ、明日の出漁に備えて、霊珠《れいじゅ》の祝福を……」
 「昨日の嵐でみんな、霊珠は取り外しちゃってるんじゃないかなあ……」
 「はああ」

 ウィスタの肩がより深く落ちた。
 コルは、なんと声をかけようかしばし悩んだふうだったが、やがてぽんと、手を叩いた。

 「朝めし、食ったか。おごるよ」

 ウィスタはただちに顔をあげた。
 髪色とおなじ朱色の瞳がコルをまっすぐみている。
 わずかに、涙ぐんでいる。

 「厚いベーコンとたまご挟んだホットサンド! パン、三枚!」

 コルは苦笑し、だが頷いて、少し嬉しそうに歩き出した。ウィスタも後をついてゆく。店は、ここからすぐ近くなのだ。

 ウィスタは、この港町で唯一の、船護りの巫女である。
 町に来て、三年になる。

 船護りの巫女の仕事は、船を動かすことだ。
 世界はその九割以上を海が占めており、おおきな陸地も存在しない。だから、船はあらゆる産業や生活、そして政治の中心であり、すべての人々の重要な関心事だった。
 遠い昔は帆を立てて風で走る船が主流だったが、やがて発見された特別なちからが、それに置き換わった。

 それが、水霊《すいれい》である。

 ある条件をもった者が祈りを捧げると、水なり海を動かすことができた。動いた水で流れをつくることもでき、それを利用して、水に浮かぶものを走らせることができた。
 原理も理屈もわからなかったが、ひとびとは水に棲む霊、水霊が祈りに反応すると考えた。

 ある条件というのは、あざ、である。
 数百人にひとり、産まれた女児の胸に、蒼いあざが浮かんでいることがある。意味のない紋様であることもあるが、花や鳥、魚のかたちをもっていることもある。
 そうした女が水に向かって祈ると、水霊を使役することができた。強いちからを持った女が祈れば、山のように大きな船も、動かせた。
 
 あざは、紋章と呼ばれ、紋章を持つ女は巫女と呼ばれた。
 不思議なことに、巫女はほぼ、特定の地域でしか生まれなかった。
 それがここ、聖ルオ国である。

 もっとも、水霊のちからが明らかになるまでは、ルオは単なる島だった。巫女が生じることから自然と世界中から人が集まり、教義が発生し、神殿が築かれ、そのまわりに町ができ、やがて国家を形成したのである。

 が、数百年前、ルオを独占しようとしたいくつかの国が争い、ここは戦場となった。無数のひとが命を失い、島は荒れた。
 当時の王は、王政を放棄し、二度と過ちを冒さぬようにと、鎖国した。鎖国後の国を指導したのは神殿である。神殿は、巫女を他国に送ることを事実上、停止した。

 ルオから巫女を得ることができなくなった国々は存亡を賭けて手段を探り、やがて、霊珠という技術を編み出した。
 特定の性質を持つ蒼い宝玉に、巫女が祈りを込めると、その巫女のちからが一時的に乗り移る。それにより、船長は巫女が乗りこまずとも、自らの意思で水霊を使役し、船を動かすことができるようになったのである。
 その祈りのことを、霊珠の祝福といった。
 霊珠に祝福を与え、あるいは自ら船に乗り込み、動かすことを主な仕事とする巫女を、船護りの巫女と呼ぶ。

 一方、国の中心、水霊の神殿には、もっともちからの強い巫女が集められた。国を、あるいは世界の海を制御するためである。
 これを、神殿の巫女と呼んだ。
 神殿の巫女たちがちからを合わせると、嵐を和らげたり、あるいは引き起こすこともできた。

 神殿の巫女の胸には、より鮮明で、美しい形象の紋章が浮かんでいる。そうした紋章を持つ者には、強い水霊のちからが宿るのである。
 
 二十四年前、ウィスタ、ウィストアギネス・アスタレビオは神殿にほど近い町で産声をあげた。
 立ち会ったものがみな、息を飲んだ。
 あまりにも鮮やかな紋章。
 花開くようなかたちの波に包まれる、八つの角をもつ星。
 とりあげた産婆が跪き、祈りすら捧げたという。

 神殿の秘儀を経ることなくちからを使うことは禁じられていたから、彼女が十六歳となり、秘儀を受ける資格を得て神殿にあがる日には、親戚たちはまるで祭りのようなありさまだった。
 通常は神官が秘儀を実施するところ、ウィスタのためには主教そのひとが担当した。神殿の中心、一説によると最初の巫女のなきがらが収められているという巨大な像の前で、ウィスタは、聖杯にたたえられた水に手をかざした。

 水は、反応しなかった。
 同じ日に秘儀をうけた六人のうち、巫女の能力が認められなかったのは、ウィスタひとりであった。

 ただ、その持つ紋章のゆえに様子をみることとなり、神殿に滞在して訓練をしているうちに、いくらかのちからを使うことができるようになった。
 それでも、ごく一般的な巫女より、いくぶん弱い程度の能力だった。

 二年間、猶予された。
 が、期限が来た。

 国の東方に、商船、つまり荷役の船をあつかうことを生業とする家があり、その長男が、巫女の能力をもつ嫁を探しているというはなしがあった。
 神殿はウィスタにその縁談を勧めた。
 ウィスタは応じた。

 遠洋に出ていて戻りがずいぶん先になるという結婚相手の希望により、ウィスタはひとりで、神殿のなかの小さな礼拝室で、祝言をあげた。
 主教と、同僚の巫女たちが立ち会った。しかし、家族は来なかった。

 結婚したために神殿の巫女の資格を喪《うしな》い、いたたまれぬ思いで待っているウィスタに、ある日、しらせが届いた。
 夫が乗る船が、座礁し、沈んだと。
 続報はすぐに届いた。内容は、生存者の一覧だった。
 夫の名はなかった。

 夫の家族が神殿にやってきた。
 離縁の手続きのためである。
 水霊の巫女ウィスタは、夫となるひとの乗る船すら、護れなかった。
 だれも口にだして云わなかったが、ウィスタ自身が、そうした言葉で、みずからを罰した。

 神殿を出て、実家には戻らず、巫女が不在の町を転々とし、ほそぼそと、船護りの巫女のしごとをした。
 霊珠の祝福もあまり上手にはできなかったが、そのぶん、値引きをした。みずから漁船に乗り組むことも多かった。泳ぎを学び、港の慣わしを覚え、生きた。
 生きることが許されているのかは、彼女自身には判断がつかなかった。
 ちからの強い巫女が来れば、譲って逃げるように町を出た。あるいは、神殿での出来事を知っている者が噂をひろめ、夜中のうちに出てゆかざるを得ないこともあった。

 三年前、この港町に辿り着いた。
 食事をするために入った店で、店主コルは、ウィスタに話しかけてきた。彼自身もこの町にきて店を開いたばかりということ、そして、出身はウィスタと同じ町ということ。
 彼女を、あるいはその身に起きたできごとも、よく知っているということ。
 ウィスタは、食事が終わったら町を出てゆくと決めた。が、コルは、親身だった。その後どうやって暮らしてきたのかをきき、この町で自分は斡旋屋もするから、よかったら一緒に仕事をしないかと、誘ってくれた。
 行先もなかったから、ウィスタは警戒しながらもそれに応じ、その日は近くの宿にとまり、数日後にコルの勧めで、その店の二階に間借りした。

 ウィスタが警戒したようなことは、コルは、しなかった。
 コルがとってくる船護りの巫女の仕事をこなし、店で食事をし、酒を飲むことも覚え、港の荒くれどもと親しくなり、ゆっくりとウィスタは、笑うことを思い出していった。
 悪夢に泣いて目覚めることなく、ぐっすりと眠ることができるようになったのは、神殿にあがって以来のことだった。

 出戻りの巫女、ウィストアギネス・アスタレビオの安息は、このちいさな港町の酒場の二階、あまり建て付けのよくない、歩けば軋み、底冷えがする部屋のなかにおちていたのである。