太陽はすでに水平線を離れ、星と月から空の支配を取り戻しつつある。

 ウィスタは昨夜、一睡もしていない。が、わずかの眠気も感じていない。表情を見る限り、オリアスも同様だった。

 艀船《はしけ》が母艦を離れる。簡素で小さな、平船《ひらぶね》だ。
 オリアスがみずから操船している。
 ウィスタはその側で、舷側《げんそく》の手すりを掴み、朝の海風に朱《あか》い髪を揺らしている。
 乗り込んでいるのは二人だけだ。

 リッキンも他の者も同行を主張したが、オリアスは頷かなかった。相手がこちらを沈める気なら、何人乗っていようと同じことであり、犠牲は少ない方がよい、と。万が一があった場合の全艦隊の今後について指示をして、オリアスは、ウィスタとともに艀船に降りた。
 母艦から離れるときに、その陰から陽光の下へ出る。海面に乱反射した朝の光が二人を刻み出す。並び立つその姿は、母艦から見送るものたちに神話のいち場面を思い起こさせた。

 ほどなく、神殿の船の側からも艀船が離れるのが見えた。こちらのものよりやや大きい。やがて接近し、乗り込んでいるものの姿が視認できるようになったとき、ウィスタは声を漏らした。

 「……ああ……主教さま……」

 思わず頭を下げ、巫女の礼をとる。
 神殿の艀船の先頭には、純白の神官服に身を包んだ主教、イディ三世の姿があった。
 後ろに、教政院《きょうせいいん》議長、リリア。神殿の巫女の姿も、三人ほど見えている。

 声を張れば届く距離まで近接した。
 オリアスは停船し、舷側に立った。
 ウィスタも横につく。

 「……シア航国《こうこく》第七艦隊司令、皇嗣、オリアス・アールツェブルゲン・シア。貴国への前触れなき接近について非礼を詫びます」

 オリアスが声をあげると、主教はやや驚いた顔をして、頷いた。

 「聖ルオ国、水霊《すいれい》の神殿の、イディ三世です。そうか、あなたは、シアの皇嗣だったのか」
 「……その節は、失礼を」
 「いや……密かに我が国を訪れたのは、なにか存念があってのことだったのであろう。今日の用件も同じと、考えて良いのかな」
 「……それは」

 オリアスが続けようとすると、主教の後ろで腕を組んでいたリリアが前に出た。

 「ちょっと、よろしいかな。そこの元巫女がわたしに話がある。そう聞いたから、主教もわたしも、ここに来たのだ。先にウィスタに用件を聞こうじゃありませんか。なあ、ウィスタ」

 そういい、ウィスタのほうへ目を向ける。その目を彼女は、まっすぐ受け止めた。

 「……はい」
 「言ってみろ。時間はたっぷりある。昔の思い出話からはじめるか」

 リリアはそういって笑ったが、ウィスタは動かない。

 「……なにが、起こっているのですか」
 「ん?」
 「神殿で。ルオの国で。水霊の巫女のちからは、望むものには等しく頒《わ》け与えられる。わたしは神殿でそのように習いました。違うのですか。事実は、違うのですか」
 「……おまえは、どう思うのだ。どう考えるのだ。はっきり、言ってみろ」
 「議長」

 主教が振り返り、リリアを制止した。

 「ウィスタにそのようなことを言わせなくてもよい。わたしがそちらの、皇嗣どのと直に話そう。ああ、ウィスタ。かわいそうに、捕えられて酷い目に遭わされ、そのように言えと脅されたのか。もう、心配するな。あとはわたしたちが……」
 「いいえ」

 ウィスタが声を張った。目を見張る主教。まったく予期していない言葉を聞いた者の反応だった。

 「いいえ。わたしが、知りたいのです。わたしが、確かめたいのです。自分の国に何が起きているのか。神殿は、わたしが知っているような神殿なのか」
 「……ウィスタ」
 「ほんの短い時間でしたが、外の世界、他の国の人たちと交わりました。その言葉も聞きました。全部が本当かはわからない。でも、わたしはその人たちを、好きになりました。だから、信じたい。信じます」
 「……」
 「その人たちは、こう言いました。わたしの国が、聖ルオ国が、巫女のちからをすべて……」
 「もう、良い、ウィスタ」

 主教が手をあげた。が、ウィスタはなかば叫ぶように、声をあげた。

 「すべて封じて、どんな願いも聞き入れなかった。何回、使いを送っても一度も返答しなかった。その使いも誰一人、帰らない。何年にも渡って、わずかでいい、少しでいいから巫女を、国を、開放してほしい。開国してほしい。そう訴えたと聞いています」
 「……」
 「主教さま。わたしにはなんのちからもありません。一度は神殿に上げていただいたのにちからは弱く、縁があった夫すら救うことができず、国のことも、政治のことも、なんにも知りません。ただの田舎の、船護《ふなも》りの巫女です。ですが……」

 ウィスタはそこで、オリアスの方に振りむいた。
 オリアスは、わずかに微笑み、頷いた。

 「……それでも、わずかの時間に、たくさんのことを知りました。たくさんの想いを学びました。もう、見なかったことにはできない。主教さま。国で……神殿で、なにが起こっているのですか。ルオは、巫女のちからを、封じたのですか。国は、神殿は、なにを行おうとしているのですか」

 早口で言い切る。返答をするものはない。しばらく、波が船側を叩く音だけが響いていた。

 「……ウィスタ」

 ややあって、主教がくちを開いた。

 「シアの者たちに、感化されてしまったのだな……そのようなことがあるわけがなかろう。いくつかの港ではいつでも、他の国の船を受け入れておる。神殿の巫女も、必要に応じて派遣している。すべては、陰謀だ。開国を強要しようとする諸外国が……」
 「本当にそうでしょうか?」

 ふいに、リリアが後ろから声を出した。主教がゆっくりと振り向く。

 「……なんと?」
 「書類は山のようにある。毎日のように、神殿が指定した港で、各国の船の霊珠《れいじゅ》に祝福を与えた記載がある。各国からの返礼の物品も届いている。教政院はその管理と監視をしているから、毎日見ている。ただし、書類上で」
 「……」
 「わたしの手のものを現地に送ることもある。抜き打ちでね。だが不思議と、そういうときだけ、嵐が起こって取引は中止だ。あるいは他国の事情で、寄港が取り止めになる。まあ、たまには実際に霊珠の祝福が行われていることもありました。だが……」

 リリアは憂鬱そうにため息をついて、言葉を継いだ。

 「ある時、わたし自身が港に行ったことがありましてね。どうしたわけか、他国の船の乗員に、わたしが知っている顔がある。かつて神殿の地下港の連絡船を管理していた、船乗りだ」
 「……見間違いでは」
 「残念ながら、違います。わたしと同じ郷里の男です。ご存じでしょう、わたしも田舎の港町の出です」
 「……」
 「彼が国籍を移したという話は聞いていない。まあ、わたしが嫌われ者だから、郷里の噂話が耳に入らなかっただけかもしれませんが」

 主教は、沈黙した。
 ウィスタとオリアスもなにも言わず、リリアの顔を見つめている。
 
 「偽装です。他国との取引があるように、装われています。それも、数年に渡って。巫女のちからは、他国への霊珠への祝福は、ここ何年か、まったく行われていない。複数の証拠からそのように判断しました」
 「……そのような、ことが……」
 「主教。外交と経済は、教政院の管轄です。が、巫女の祝福はすべて神殿が管理している。実際に巫女を動かしているのは、神殿です。その長がこうした事実を知らないというのは、あり得ることでしょうか」

 遠くを見るように、主教は顔をあげた。白髪が多く混じる長髪が金の髪留めで束ねられている。ああ、と声をだして、彼はかくんと、こうべを垂れた。

 「……そう、か……。わたしの足元で、そのような不正が……誰が、なんのために……」
 「調べねばなりませんな。詳細に、そして、苛烈に」

 リリアは目を細め、主教へ強い視線を投げかけた。
 主教はややおいて、頷いた。

 「……そうだな。調べねばならんな」

 その手をわずかに上げる。
 艀船の後方で、神殿の巫女たちが跪《ひざまず》く。
 周囲の水がにわかにざわめく。
 リリアが反応した。
 両手を左右に広げる。
 その手がわずかに発光する。
 
 「ウィスタ! 護れ!」

 リリアが叫んだ瞬間、背丈の数倍の波浪が立った。
 ウィスタが乗る艀船はそれに呑まれ、瞬時にして転覆した。