水霊《すいれい》の巫女といえども、水を自由自在に操ることができるものではない。基本的には、流れを変える、止める、作る、という作用に限られる。神殿の巫女でもそこは同様であり、ただ、その規模の大小で、優劣がつくのみである。

 だから、いま、教政院《きょうせいいん》議長、リリアが見せている水の操作は、彼女が優れた巫女であるから可能となっているものだと、説明することには無理がある。
 異能だった。
 水を波立て、うねらせ、ちょうど小さな竜巻のように伸ばす。思いのままの方向に移動させ、標的を打つ。
 水霊の巫女の枠を超えて、リリアは異能者であった。

 リリアが放った水の竜は、ふたたびオリアスに襲いかかった。
 左右の手で同時に生成された太い水の渦が、鞭のようにしなり、オリアスを挟撃した。
 ひとつは避けたが、もうひとつをまともに喰らった。のけぞるように弾き飛ばされ、壁に身体を打ちつける。悶絶する。

 と、ウィスタがオリアスに走り寄り、その前に立った。
 苦しげな表情。リリアを上目で見上げ、すぐ、目を逸らした。

 「……なにをしてる。おまえは、人質ではなかったのか」

 リリアは表情を作らず、そう言った。

 「……こ、この者、わが国に仇をなすものではございません、わが国に迫った危機を止めようと、開国をするよう進言しようとして……」
 「その男の正体、きいたのか」
 「……は、い。シア……」

 ウィスタが答えようとしたとき、予告なく、ウィスタの足元の水路の水が沸き起こった。足元に殺到する。ウィスタは目をつぶり、祈りを送った。水の勢いは殺されたが、打ち消すには至らない。ウィスタは足をすくわれ、オリアスの横に転倒した。
 床に背を打ちつけ、痛みにもだえる。

 「言わぬが、よい」
 「……え」

 ウィスタが驚いた目を向けると、リリアは、ふふっと笑った。
 笑って、くちの中だけで、そうか、と言った。

 リリアが大きく振った腕は、通路の左右の水路の水、すべてを呼び起こした。のみならず、おそらく神殿のこの階の水すべてが、この場所に集約されつつあるようだった。
 リリアを中心に渦が形成される。高速で回転する。水の粒子がきらめき、空間を満たす。
 ものを思うように下に向けられていたリリアの目が見開かれた。ウィスタとオリアスを見据える。攻撃対象の指示だった。

 水は轟音とともに、膨大な圧力の塊としてウィスタたちに迫った。一部は先に付近の石壁に衝突し、その構造を揺るがした。炸裂する水流。
 ウィスタは、逃れることができない。
 仰向けに倒れているオリアスに覆い被さる。
 胸と、胸が、接触する。

 金属が鋭く叩きつけられるような音。
 その音はこの廊下すべてを走り、あるいは神殿全体に響いたかもしれない。
 同時に、光。
 ウィスタとオリアスの身体の間から、強く蒼い光が、いく筋も放射された。

 光は廊下全体になんらかの紋様を刻んだ。その全貌を見てとることは、この場の誰にもできていない。紋様は回転し、意思をもつかのように一点に集約した。
 リリアが送った水の壁は光の紋様に切断された。光はそのまま壁を斬り、床を割り、リリアをも襲う。
 リリアは右手をあげてなんらかの膜を形成し、跳ね除けた。
 切断された廊下の壁が崩れる。床が裂け、大きな石材が崩れ落ちる。天井が軋む。
 光が収まると同時に、廊下が崩壊した。ウィスタとオリアスの上に巨大な石材が落ちてくる。が、ウィスタの横から噴き上げた水がそれを支え、横へ逸らした。

 ウィスタは、呼ばれたように感じて振り返った。
 リリアが後退りながら、ウィスタになにかを言っている。だが崩壊の轟音が、その声をかき消した。
 足元が揺れる。ウィスタはオリアスの背に腕をまわした。オリアスはなにも言えず、目を見開いている。
 と、二人を囲んで新たな水の壁が形成された。
 同時に、床が落ちた。
 ふたりも落ちるが、球体となった水の壁に護られるように、ふわりと降りた。
 降りた先には、水面があった。
 神殿の地下港だった。

 構造材が巨大な水飛沫をあげながら落ちる。その水柱に囲まれるように、二人は水の上に立った。
 足元も蒼く、光っている。

 「……な」

 オリアスはウィスタと手を繋ぎながら、足元をみて、上を見上げ、ウィスタの顔に視線をあわせて、くちをぱくぱくと動かした。
 ウィスタは、震えていた。我に返り、握っていたオリアスの手を離して胸にあてる。
 その瞬間、二人を包んでいた球体の壁が消失した。

 「きゃっ」
 「わあっ」

 水の中に転落したが、ふたりともすぐに泳ぎ出す。
 オリアスが先に手近の船に辿り着き、舷側の登り手を掴んだ。
 ウィスタのほうへ手を伸ばす。
 船上でふたりは、再び、目をみあわせた。

 と、地下港の階段の方から、複数の声が響いた。
 神官たちが走ってくる。
 
 「……いくぞ」

 オリアスはそういい、返事を待たずに操舵室に入った。小さな連絡船で、ウィスタが動かせる規模の船だった。
 迷う余裕もなく、彼女は、祈りを送った。
 船首の霊珠《れいじゅ》が輝く。
 オリアスの操作で船は滑るように動き出した。

 神殿の地下を抜けると、眩しい月明かりが船を照らした。
 後方からなにか叫ぶ声が聞こえるが、追っ手はないようだった。
 
 「……おい、あれは……いったい」

 しばらく進み、神殿の湾を抜けたころ、オリアスがくちを開いた。
 ウィスタは船尾で呆然と座り込んでいる。
 自分がしでかしたこと、先ほどの出来事、現在の事態のどれにもあたまが追いついていない。
 いま彼女は、強い酒を飲みたいと、ぼうっと考えている。

 「おい……」

 なんどか話しかけて、オリアスは諦めた。

 すぐに前方に、船影が現れた。
 黒い船。
 が、先日、転覆した船とは規模が異なる。
 近づくにつれてその威容が明らかになった。
 舷側までは海面から背丈の五倍ほど。
 明るい月明かりのもと、その長い船側に、十ばかりの砲門があることも見てとれた。

 やがて近接する。相手の側面につける。こちらは減速し、停止した。
 と、軍船の舷側から、係留索と登り綱が落とされた。
 上に誰かがいるらしい。声も聞こえる。

 オリアスは操舵室から出て係留索をとり、船首に繋いだ。登り綱を掴み、ウィスタに声をかける。

 「あとから籠を下ろす。それに乗って上がればいい」

 ウィスタは呆けた思考で、それでもふるふると首をふり、オリアスから綱を奪い取るようにして、結び目に足をかけた。そのままするすると、登ってゆく。登るべきかの判断も、省略したようだった。
 オリアスは眉をあげて、感嘆の表情を作ってみせた。続けて、登る。

 甲板にふたり、降り立った。
 月明かりの下、艦橋の前に、なんにんかの人影。どれも黒く、身体にぴったりあった簡素な服をつけている。

 と、人影のひとつが、走り寄った。オリアスに抱きつく。うぅ、と彼は仰け反り、しかめ面をした。

 「……親方あ! なにしてたんすか、約束の三日過ぎても戻ってこないから迎えにきましたよ! もう、嵐で海に沈んでるじゃねえか、捕まって消されたんじゃねえかって、心配で心配で」

 抱きついたのは、茶色い長髪をいくつもの細い綱のように巻き、髪飾りをいくつも置いている男だった。オリアスより、いや、ウィスタよりもまだ、背が低い。
 
 「親方っていうな、艦長だ」

 オリアスが苦々しげにいうと、男は、泣き顔をつくった。

 「あああ。そのおことば、もいちど聞けて、よかった……ほんとに、ほんとに、よかったっす……」

 と、男はウィスタの存在にいま気がついたように、彼女の方へ目を向ける。
 急にしらっとした表情となる。
 太い眉をさげ、睨む。

 「だれすか、この女」
 「……巫女だ」
 「ええっ! 神殿の巫女、攫《さら》ってきちまったんですか! すげえ! さすが親方!」
 「いや、神殿の巫女じゃない。漁船の船護りをしてたらしい」

 ウィスタはとりあえず、ちいさく頭を下げてみた。
  
 「え。船護り。うちの艦隊、間に合ってますよ、いま」 
 「いや、違うんだ……このひとは、ああ……なんだっけ」

 紹介のために名を言おうとして、まだ聞いていなかったことを思い出した。
 ウィスタは、名乗って良いものかまよったが、なかばやけくその気持ちで声をだした。

 「ウィストアギネス・アスタレビオ。神殿を首になって、結婚して出戻って、小さな港町で漁船の船護り、してました」

 それを聞いて、巻き髪の男はしばらく黙り、ぷっと、吹き出した。

 「そりゃすげえ。なんかうちの船に似合いそうですね、親方」
 「……親方じゃねえって、言ってる」

 聞いているのかいないのか、男は、片目をつむってウィスタに右手を差し出した。
 
 「俺はリッキン。リッキン・ジムリ。オリアス艦長の右腕だ。航海長やってる。ようこそ、シア航国、第七艦隊へ! 艦隊ったって、一隻だけだけどな! あはは!」