紙片に残る面影

 週の半ば、オフィスの空気はどこか緊張していた。
 大きなプレゼンを控えて、社員たちは慌ただしく資料を整え、電話がひっきりなしに鳴っている。

 結衣もその一人として、山積みのファイルを抱えて廊下を歩いていた。
 重さに体が傾き、今にも落としそうになったとき——。

「大丈夫? 持つよ」

 軽やかな声と共に、ファイルの半分を抱え取ってくれる手があった。
 営業課の佐伯だった。
 明るい笑顔に、結衣は思わず安堵の息を漏らす。

「ありがとうございます……助かりました」
「気にしないで。篠原さん、最近ずっと顔色悪そうだから。無理してない?」
「えっ……そ、そんなこと……」

 気遣う言葉に、思わず小さく笑みがこぼれる。
 その瞬間。

「——ここで何をしている」

 低い声が響いた。
 廊下の先に悠真が立っていた。
 視線が鋭く、空気が一瞬にして張り詰める。

「部長、これは……」
「資料を運ぶだけなら一人でできるはずだ」

 冷たい口調に、結衣は胸を刺されるような痛みを覚えた。
 慌てて頭を下げる。

「……申し訳ありません」

 佐伯が口を開きかけたが、悠真の視線に遮られ、黙って去っていった。
 残された結衣は、怒られた子どものようにうつむき、ファイルを抱え直した。

(……上司として注意しただけ。そうに決まってる。だけど……どうして、こんなに苦しいの)



 その日の会議。
 プレゼン準備の確認で、結衣は担当部分を説明していた。
 緊張で声がかすれ、言葉が詰まる。

「そこは——こう説明した方がわかりやすいんじゃないですか?」

 佐伯がさっと助け舟を出した。
 感謝の気持ちで結衣が彼を見た、その瞬間。

「篠原さん、自分でやりなさい」

 悠真の声が遮った。
 会議室の空気が凍る。
 結衣の頬が熱くなり、心臓が痛みで震える。

「……はい」

 声を震わせながら説明を続ける。
 悠真の視線が背中に突き刺さるようで、呼吸が苦しい。

(……どうして。どうしてこんなに冷たくするの。やっぱり私が“あの結衣”だから? それとも——嫉妬……?)

 そんな考えがよぎり、慌てて打ち消す。
 ありえない。上司としての態度だ。
 そう自分に言い聞かせる。



 会議が終わり、結衣は残業を片づけて会社を出た。
 夜風が頬を撫でる。少し冷たく、心を落ち着けるはずの空気が、今夜はやけに重かった。

 ふと視線を向けると、会社の前で悠真が誰かと話している。
 街灯に照らされ、その姿がはっきりと見えた。
 相手は——美月だった。

 ビジネスバッグを肩に掛けた美月が、楽しげに笑いながら何かを話している。
 悠真は真剣に耳を傾け、ときおり穏やかに頷いていた。
 そして、美月が自然に彼の腕に触れる。

(……また。二人は、やっぱり繋がってたんだ)

 胸がきゅうっと締めつけられる。
 信じたいと思った気持ちが、一瞬で崩れ落ちていく。

 足がすくみ、その場から逃げ出した。



 夜。
 アパートの部屋で、結衣は泣きながらシーツを握りしめていた。

(やっぱり……信じられない。誤解だったなんて……きっと嘘。彼は、今でも……美月と)

 涙が止まらない。
 許せない。信じられない。
 その気持ちが胸を切り裂く。

 シーツの端を無意識にカリカリとこする。
 その癖だけが、過去と現在を繋ぐ証のようで、余計に苦しかった。



 一方その頃。
 オフィスに戻った悠真は、窓際に立って街の灯を見下ろしていた。

(どうして……あんなに避けるんだ。やっぱり結衣なのに)

 彼の脳裏には、昼間の光景が何度も蘇る。
 佐伯と笑い合う結衣。頬を赤らめて感謝する姿。

(他の男に、あんな顔を見せるなんて……)

 胸の奥が嫉妬に焼ける。
 拳を強く握りしめ、声にならない吐息を漏らした。



 互いの心は、想いがあるのに交わらない。
 結衣は「再び裏切られた」と思い込み、悠真は「他の男に心を奪われた」と苛立つ。

 すれ違いと誤解は深まり、嫉妬と痛みが二人の距離をさらに引き裂いていった。