紙片に残る面影

 昼休みの社員食堂は、ざわめきと食器の触れ合う音で満ちていた。
 派遣社員という立場の結衣は、いつも隅の席でひっそりとお弁当を広げている。
 その日もそうするつもりだったが、背後から声をかけられた。

「篠原さん、一人? 良かったら一緒に食べない?」

 声の主は営業課の佐伯だった。笑顔が柔らかく、誰にでも分け隔てなく接するタイプだ。
 彼の気さくさに救われていた結衣は、小さく微笑んで頷いた。

「ありがとうございます……じゃあ、ご一緒しても」
「よかった。派遣さんって最初は馴染みにくいでしょ? 俺も手伝えることがあれば言ってよ」
「……はい。すごく助かります」

 自然と笑みがこぼれる。
 ほんの少し、肩の力が抜けた気がした。

 けれど、遠くの席からその様子を見つめる視線に気づくことはなかった。
 悠真はコーヒーを口にしながら、無言で二人を見ていた。
 胸の奥がざわつき、苛立ちが喉まで込み上げる。

(何を……楽しそうに)



 午後、資料室。
 結衣はコピー機から出てくる書類を慌てて揃えていた。
 そこへ佐伯がやって来る。

「重そうだね。手伝うよ」
「あ、大丈夫です!」
「いいって。ほら」

 差し出された手が自然に重なり、紙束を支える。
 その拍子に、指先がわずかに触れ合った。
 結衣の頬に熱が走り、慌てて手を引っ込める。

「す、すみません!」
「いや、こちらこそ。……赤くなってる?」
「ち、違います!」

 笑い合うような空気になった、その瞬間。

「何をしている」

 低い声が響いた。
 振り向くと、ドアのところに悠真が立っていた。
 冷たい眼差しが突き刺さり、空気が一瞬にして凍りつく。

「仕、資料を……」
「勤務中に私語は慎め」
 短い叱責。
 その声音は鋭く、結衣の胸を貫いた。

「……申し訳ありません」

 深く頭を下げる。
 佐伯も慌てて謝罪し、その場を去った。

 残された結衣は、胸の奥に複雑な感情を抱えていた。
(上司として怒っただけ……そう、そうに決まってる。なのに……どうしてこんなに苦しいの)



 その日の終業後。
 結衣は帰り支度を整え、ロビーへと足を運んだ。
 外は雨上がりの匂いが漂い、ガラス越しに夜の街の灯りが揺れている。

 ふと視線を上げた瞬間、息が止まった。
 ロビーの一角で、悠真が女性と話していたのだ。
 彼女は秘書課の先輩で、スタイルの良い美しい女性。
 軽やかに笑いながら、悠真の肩へそっと手を置いた。

(……また、女の人と……)

 鼓動が耳を打つ。
 五年前の記憶が、鋭く甦る。
 美月と抱き合っていたあの日。
 あの光景と重なって見え、呼吸が苦しくなる。

「……っ」

 踵を返し、足早にその場を立ち去った。
 背後で悠真の声が聞こえた気がしたが、振り向くことはできなかった。



 夜、自室。
 ベッドに腰を下ろした結衣は、胸を押さえて小さく震えていた。

(やっぱり……彼は変わってない。上司としては冷静でも、プライベートではきっと……)

 そう思うことでしか、痛む心を納得させられなかった。
 けれど涙は止まらない。
 枕を濡らす涙を隠すように、シーツの端を指先でカリカリとこする。

 その癖は、本人さえ気づかぬうちに、また過去と現在を繋いでいた。



 一方、同じ夜。
 悠真はデスクに残った書類を整理しながら、窓の外の街灯を眺めていた。

(……やはり、あの仕草。あれは間違いない。篠原結衣……いや、結衣。君なんだろう?)

 喉まで出かかった名を押し殺す。
 なのに、昼間の光景がどうしても脳裏を離れなかった。
 佐伯と笑い合う姿。
 頬を赤らめる表情。

(他の男と、あんな顔をするなんて……)

 嫉妬と確信が入り混じり、胸の奥が熱く焼ける。
 グラスに注いだ水を飲み干しても、その苦さは消えなかった。



 互いに心を揺さぶられながらも、距離は縮まらない。
 むしろ、誤解と嫉妬が二人の間に新たな壁を築いていた。

 けれど同時に——確かに二人の想いは、再び燃え始めていた。