聖殿の中庭には一本の大きな木が聳えている。
 ブラックウッド王国の象徴でもある神木、聖なる樹木、ブラックウッドだ。

 その根元に置かれた四角い石が誓約の石「オラクルストーン」である。

 マクニール大司教とハリエット、ノーイックに続いて、ギルバートは中庭に足を踏み入れた。
 ヘーゼルダインが後に続く。

 二歳の時に一度来たことがあるらしいのだが、さすがに記憶には残っていない。
 中庭の入り口に立って、ギルバートは聖域であるその場所をゆっくりと見回した。

 白い石を敷き詰めた床。
 円形の水路の囲まれた神木と『オラクルストーン』。
 
 王宮前広場に置かれた写しは、この神木と石を象ったものだとわかる。
 水路の水は神木の背後にある泉から湧き出ているようだ。

 大司教の他に、聖殿を護る司祭たちが隅で待機している。

 四角く黒い石が目に入る。
 そこには何も彫られていない。

 周囲がわずかに透き通る黒い石は、沈黙を現すように静かにそこにあるだけだ。

 大司教が石の前に設えられた簡素な祭壇に向かう。
 祭壇の奥の黒い石に銀の水差しから何かを注いだ。
 聖水だ。
 リリーが持つ水盆の聖水とは別の、聖殿の庭に沸く泉から取ったものである。

 石の表面が艶やかに輝いた。

「では、始めましょう」

 大司教が祭壇に向かって祈りを捧げる。
 それが終わるとノーイックを振り向いた。

「葡萄酒を」

 控えていた司祭がノーイックにグラスを差し出す。
 ノーイックがそれを祭壇に置いた。

 石は沈黙を保ったままだ。

 ノーイックが一歩下がる前に、空気が冷たくなった。
 パラ……、と音がしたかと思うと、氷の粒があたりに落ちてきた。

「雹だ」

 無数の雹が中庭全体に勢いよく降り注ぐ。

「うわっ」
「いた……っ」

 司祭たちが、屋根の下に逃げこんだ。
 氷の粒を受けながらマクニール大司教がノーイックに尋ねる。

「パンと花も捧げる勇気がありますか?」

 当然だとばかりにノーイックが司祭を睨む。

「あるに決まってる」

 大司教は無言でノーイックを見ている。
 ノーイックの顔が怒りに歪んだ。

「僕が、第一王子だ。生まれた時から、ずっとそうだったじゃないか。なんで、今頃になって、間違いだったとか言われなきゃならないんだよ!」

 大司教が頷く。

「王になる覚悟がおありなのですね?」
「だから、あるに決まってる!」
「では、どうぞ。パンを」

 別の司祭が差し出したパンを乱暴に掴んで、ノーイックは祭壇に向かってずんずん歩き出した。

 空がパッと光った。
 祭壇まであと数歩というところで、バリバリ……と大きな雷鳴があたりに轟く。

「うわぁああ……っ」

 ノーイックが両手で頭を抱えてしゃがみこんだ。
 投げ出されたパンが宙を舞う。

「嫌だ! 怖いよ!」

 バリバリ……と二度目の雷鳴があたりに響いた。

「僕のせいじゃない! 僕がやったんじゃない! 全部、母上がしたことじゃないか……!」

 空が再び光る。
 白い石を敷き詰めた床の上で、投げ捨てられたパンが光の中に浮かび上がる。

「もうやめる! 僕は、王になんかならない!」

 その瞬間、空を染めた稲光は小さくなり、雷鳴が遠ざかる。
 しゃがみこんでいたノーイックが這うようにしてギルバートたちの立つ中庭への入り口に戻ってくる。 

 別の司祭が新しいパンを手に持って、今度はギルバートに近づいてきた。
 床に落ちたパンは別の司祭が拾い上げ、丁寧に埃を掃っている。

 大司教が法衣の袖を振って手招く。

「ギルバート殿下。パンを祭壇に」

 ギルバートは頷き、パンを受け取る。

 ゆっくりと祭壇に向かい、静かにそれを置いた。

 石が光りだす。
 石から放たれた光は、やがて幾筋もの帯になって中庭全体を跳ねまわった。

 眩しさに、全員が目を覆った。

 光のダンスが小さくなって目を開けると、石には新たな王の名が刻まれていた。

 ――ギルバート・リンドグレーン。

「おめでとうございます。新国王ギルバート陛下。これをもって、無事に王位は継承されました。元首としての私の役目は終わりです」

 大司教が穏やかに告げる。
 司祭たちがギルバートに向かって頭を下げた。

 最後にギルバートは祭壇に花を捧げた。
 石がキラリと光る。

 祝福するように。
 どこか、ほっとしたように。

 中庭を出る時にハリエットが聞いた。

「ノーイックはどこですか?」
 
 司祭たちが顔を見合わせる。
 一人の司祭が答えた。

「先に出ていかれました。よほど雷がお嫌いなのでしょう」

 *   *   *