ちょうどその時に公爵家の使いのものが声をかけなかったら、おそらくニアナは手を振り上げて跳躍していただろう。

「ニアナ・ナビリア様でいらっしゃますね」

 白髪混じりの髪に口髭を蓄えた、背の高い執事風の男が彼女に微笑みかけていた。五十ほどとニアナは見当をつけた。すっと伸びた背筋。低く穏やかな声。後ろに侍女らしき女を従えている。公爵邸の使いだろう。

「お別れを惜しまれているところ、申し訳ございません。公爵様のお邸まで距離がございます。よろしければすぐ出立したいと存じますが」
「あ、は、はい……」

と、子爵が口を挟んだ。

「ああ、使いの方。これが我が娘、ニアナです。すぐに支度させ……」
「それはわたくしどもで行わせていただきます」

 子爵の声に被せるように、それでも抑えた声で告げた執事は、ニアナにわずかに頷いてみせた。すべての事情をわかっているのだろう。彼女を見る目の優しさは、決して金で買った商品に向けるものではなかった。

「お疲れかとは存じますが、お支度は到着後に。差し支えないでしょうか」

 改めて問われ、ニアナはこくんと頷いた。そこで相手にいまだ礼をとっていなかったことを思い出し、改めて膝を曲げ、裾を摘んでみせた。

「ニアナ・ナビリアでございます」

 執事は微笑し、上品な所作で丁重な返礼を行った。

「ローディルダム公爵家で執事長をさせていただいております、アムゼンと申します。以後、お見知り置きくださいませ」

 染み込むような声に、別離の悲しさと不安、そして子爵への苛立ちにささくれた心がふわりと覆われたように感じ、ニアナは小さく安堵した。
 よかった。少なくとも、この人がいてくれる。
 どんな辛い結婚生活になろうとも。

 と、子爵がこほんと咳払いをした。

「む……ええ、ご出立であれば、その」
「ああ、これは失礼しました。こちらを」

 アムゼンが合図をすると、後ろの侍女が小さな包みをふたつ捧げ、子爵に差し出した。ざらりという音。数十枚の高額面の金貨、とニアナは連想した。
 見開いた目を包みに注ぎ、涎を垂らしそうな表情で両手を差し伸ばす子爵。その横顔に、アムゼンは言葉を投げた。

「小さな袋は子爵家において花嫁支度の購いとなさってください。大きな袋は、ニアナ様ご自身へのお支度金です。ニアナ様の暮らしておられたお店にお届けくださいませ。そうした条件と、貴家の執事どのからあらかじめ伺っておりました」
「……な」

 子爵は顔を引き攣らせ、背後の邸を振り返った。窓から先日の使いが顔を見せていたが、慌てたように引っ込んだ。おそらくアムゼンら公爵家の手のものが、ニアナの身辺のことはすべて事前に調べ上げていたのだろう。

「……だが、それは……その……」

 なにか言おうとする子爵だったが、慇懃に頭を下げるアムゼンに言葉を返せなかった。ちっ、と舌打ちをして横を向く。店にはおそらく公爵家の追跡調査が入るだろう。偽ることはできなかった。

「それでは、参ります」
「……はい」

 アムゼンが差し出した手を取り、ニアナは子爵家のものとは比べ物にならない豪奢な馬車に乗り込んだ。誂えの良い上質な内装。ニアナは広い後列、アムゼンと侍女は前列に並んだ。
 静かに出発する。子爵は一応の見送りをして、それでも二十歩分も離れると早々に玄関に引っ込んだ。ニアナは子爵も、その邸も振り返ることがなかった。二度と会うことはないと考えているが、それは相手も同様だろう。

 馬車の中でアムゼンは簡潔に事情の説明をした。
 公爵は二十四歳になるが、上級貴族は家督相続にあたって二十五歳までに結婚している必要がある、そこで何人もの候補が挙げられたが、あらゆる条件を考慮に入れ、ニアナが最も相応しいと判断されたのだ、と。

 もっとも、ニアナはその話をあまり信じていない。貴族同士とはいえ家格も大きく異なる。年齢なり容姿が条件に適合した女たちのうちから、何があっても……たとえば、花嫁が婚姻後すぐに姿を消すなり、あわれ骸を晒すなりしても、後腐れがなさそうな者として自分が指名されただけなのだろう。
 冷血公爵とは、おそらくそのような配慮が必要な人物なのだ。

 それでもニアナは、できる限りの誠意を尽くそうと考えている。娼館の女たちが客をあしらうように、自分もうまくやろう。乱暴をされるのだろうか。だとしても、抗いながら受け入れよう。そうしてしたたかに、生き延びよう。
 捨てられた令嬢、娼館で育った娘が、愛するひとたちへの恩返しをすることができた。そして曲がりなりにも、誰かに必要とされた。
 今が自分の人生の決着点なのだと、そう思って生きよう。

 ぼうっとそう考えているニアナに、アムゼンは微笑みを向けながらごく小さく言葉を送った。
 旦那様をお願いします。あなたなら、大丈夫。
 が、ちょうど馬車が大きく揺れたために、ニアナはその言葉を聞き取ることができなかった。

 陽が傾きかけた頃、公爵邸に到着した。
 邸は外門から母屋の馬寄せまでもかなりの距離があり、ニアナはその規模に圧倒された。国の成り立ちの神話に由来する装飾が施されたファサードは、彼女がこれまでに見たどんな建物よりも美しく、壮麗だった。
 白い重厚な扉が内側から開けられた。先に立ったアムゼンが、どうぞ、と手で示す。ニアナがゆっくりと踏み入れると、磨き上げられた玄関ホールに二十人ほどの侍女たちが並び、礼をとっていた。
 ニアナはどうしてよいか分からず、ただ黙って小さく頭を下げた。

 と、ホールの奥、左右の大きな階段の先に踊り場があり、そこに誰かが立っているのに気がついた。

「ローディルダム公、ウィリオン様です」

 見上げたニアナに、アムゼンが横から小さく告げた。
 ニアナは慌てて深く礼をとり、それからゆっくりと、控えめに顔を上げた。

 金の紋章の入った黒い装束。
 身体にぴったりとあった布地の内側はもちろん伺うことはできないが、遠目にも単なる細身ではなく、したたかに鍛え抜かれた体躯であろうことが見てとれた。
 浅黒く引き締まった頬。銀の前髪は目を隠すように下ろされ、その奥から覗く瞳の色は黒灰色だろうか。
 予期した風貌とかけ離れた公爵の(かんばせ)に驚きを覚えながら、その瞳を見つめる。が、そのうちに、ニアナは自分が動けずにいることに気づいた。視線が外せない。魔法にかかったように公爵の瞳に捕えられている。恐怖が沸き起こる。
 と、公爵がふっと目を逸らした。とたんに束縛が解ける。
 公爵はもう一度ニアナをちらっと見下ろし、興味を失ったというかたちで踵を返した。奥へ消える。

「……あれが、冷血の……」

 小さく呟いたニアナは、失言に気がついて慌てて口を押さえた。
 アムゼンは気づいたはずだったが、柔らかい表情を崩さず、静かに言葉をかけた。

「公爵様へのお目通りは夜になります。それまではゆっくり、お休みください。この後のことは侍女から説明をさせます」

 そう言って侍女たちの方へ視線を向けると、数人が頷いて足早に近寄ってきた。こちらです、と一人が先導し、ニアナを案内する。アムゼンはそれを思わしげに見送ってから、歩き出した。
 二人の姿が見えなくなったあとで、侍女たちはひそひそと新しい女主人の悲惨な結婚生活について意見を交わした。