教会の鐘が鳴っている。
 
 単に正午を告げるものであり、いつもと音が変わるわけでもない。
 が、その音色はニアナの、あるいは彼女を見守る全員の心に染み込んで、目の淵に温かいものを滲ませることとなった。

「……ありがとう」

 馬車の横に立ち、ずっと俯いていたニアナは、ようやくそれだけを口にした。
 その声に、堪えていた皆が口を押さえ、顔を覆った。

 ナビリア子爵家からの使いは数日後に再び現れ、ニアナに公爵家への嫁入りの承諾を迫った。さすがに腕をとって強引に連れてゆくわけにもゆかず、一応の熟考の時間を置いたという体だが、さりとて拒否は許さないという声音と表情であった。
 
 が、強く迫られる前に、ニアナが先に頷いた。
 拍子抜けをした使者が、いいのか、と間の抜けたことを問うと、ニアナは俯いて、ひとつだけお願いがあります、と言った。
 支度金は、わたしが出発した後、このお店の女主人(おかみ)に届けてください。皆に配るように、と言葉を添えて。
 なにか言おうとした使者に、ニアナは強い目を向けて、お願いします、と重ねた。使者は言葉を飲んで、頷いた。金が届けられない心配をしないのか、と聞こうとしたのだが、さすがに憚られた。

 三日後に改めて迎えに来ると言い残し、使者は去った。
 応接室から戻ったニアナは再び女たちに囲まれ、穏やかな表情で、申し入れを受け入れることに決めたと告げた。
 その場で泣き出す女も、怒り出す女もいた。
 が、やがて全員が代わるがわるに、ニアナを抱きしめた。
 娘とも、妹とも思うニアナの決心を、皆が受け入れた。

 そうして今日が、旅立ちの日。

 小さな馬車の横に立つニアナは、黄灰色の長衣に、白い薄手の外衣。荷物といえば抱えられる程度の革鞄がひとつだけだ。小旅行でもしようというような体裁であり、とてもこれから婚家に向かう花嫁とは思われなかった。
 女たちはドレスを贈ると言ったが、ニアナは首を振ったのだ。そんな布地と余裕があるなら皆さんの新しいのを作って、お客さん、喜ばせてあげてください、と、軽口で答えた。

「……ほんとに、行っちまうのかい」

 一人が声を絞り出す。
 ニアナが頷くと、皆がわらわらと走り寄ってきた。

「ニアナあ」
「ここにいればいいじゃないかよ、寂しいよ」
「ばか、引き留めてどうすんだい、笑顔で送り出してやりなよ」
「何言ってんだ、あんたが一番泣いてんじゃん」

 いつものように好き勝手に言い合う皆の声を、ニアナは胸に刻みつけた。
 全員を抱きしめて、頬に口付けし、ニアナはひとりひとりの顔を見渡して、ゆっくりと頭を下げる。

「……行ってきます」
「身体に気をつけてね」
「お許しが出たら、たまには戻っておいで」

 戻ることは、おそらく叶わない。
 ニアナも、皆も、そう確信している。
 
 冷血公爵、ウィリオン・ローディルダムのもとでどんな過酷な生活が待っているのか。無事で、日々を送ることができるのか。そんなことすら、少しも見通しが立たなかった。
 祝福の言葉がひとつも聞かれない、奇妙な門出の情景だった。

 馬車に乗り込み、ニアナは窓から顔を出した。
 皆の顔が見えなくなるまで手を振り続けた。
 御者は遠慮もなく乱暴に馬を歩かせたから、彼女はあちこちに身体をぶつけることとなった。それでも慣れ親しんだ風景が途切れるまで、彼女は去ってきた方角をずっと見つめ続けた。

 そう時間はかからず、子爵邸に到着した。
 ここでいったん支度を整え、公爵家からの迎えの馬車に乗り換えることとなっているのだ。
 馬車を降り、あたりを見回す。
 ニアナにはこの邸で暮らした記憶は薄かったが、それでも母屋や庭のあちこちに微かな懐かしさを感じた。ただ、建物も庭も、ほとんど手入れがされていない。荒れ放題だ。まだ人が住んでいるように思えず、首を傾げた。
 
 と、邸の扉が軋んだ音を立てて開けられ、中から初老の男が姿を見せた。
 不健康そうに浮腫んだ顔を目にした瞬間、ニアナは胃の中から酸いものが上がってくるのを感じた。
 顔は覚えていない。が、心の底に焼きついた暗い影が、彼女の胃の腑をつかんだのだ。

「ニアナか」

 酒で焼けたような掠れ声。にちゃりと口角を持ち上げたその男、ナビリア子爵に、それでもニアナは短い裾で、できる限り優雅なカーテシーを作ってみせた。そういう仕草を自分ができることにも、またそれをこの男の前で披露できることにも、驚いた。

「久しいな。いくつになった」
「……はたち、で、ございます」
「ふむ。妙齢だな。母親に似て肉付きも悪くない」

 顎を撫でながら下卑た声を出すその男の好色そうな視線は、十数年ぶりに再会した娘に向けるべきものではなかった。
 ニアナは顔をあげずにいる。
 表情を歪めているのを見て取られたくなかったためだ。

「……恐れ入ります」
「聞けば娼館で暮らしていたとか。勝手に家を出ていってそんな商売に身を染めるとは、お前の母もなかなか肝が据わっておるよ。ふふ、お前もさぞかし、たくさんの客を悦ばせてきたのだろうな、その身体で」

 ニアナの瞳に炎が宿った。くっと顔を上げる。
 子爵の濁った目が正面から見返してきた。