初夏ではあるが、冷涼な風が山嶺から降りてきている。
抜けるような青空に、どこからか運ばれてきた花びらが舞う。
花びらは会場に降り、女たちが運ぶ盃のひとつに浮いた。
「あ、花、入っちゃった」
「素敵じゃないですか。ニアナ様のお式らしいと思います」
「へへ、あんたいいこと言うじゃん」
「誇り高きローディルダムの侍女ですから」
ふんす、と胸を張ってみせる侍女。銀の魔女亭の女はあははと声を出して笑い、器用に盆から手を放して侍女の背をぽんぽんと叩いた。
名誉公ウィリオン、そしてその妻ニアナの、改めての婚姻披露の宴だ。
すべてが落ち着いたいま、催してはどうかとの声が家の中からも、王宮からも上がったのである。
会場となっているのは花街の教会。
いまだ再建途上ではあるが、聖堂の周辺はすでに復旧している。銀の魔女亭を含めた建物も仮復旧をなしており、営業も行われている。いずれも花街の象徴として、その修復を急ぐよう、公爵家が特に指示を出していたのだ。
やっと緑の生え揃った教会の中庭に、すでに多数の列席者が詰めかけている。色とりどりの装束で身を包んだ花街の女たち、男たち。公爵家の使用人。王宮の衛士らも招かれていた。卓が用意され、めいめい飲み物をとり、軽食を口にして歓談している。
ニアナは自らの生い立ちのすべてを家中の者に告げていた。その際、侍女のうちには泣いたものがある。が、裏切られたとの思いではない。全員がニアナを囲み、その背に、肩に、柔らかく触れたのだ。
今日、この場で侍女らはニアナの家族に出会い、すぐに打ち解けていた。
「……すべては元には戻らない。それでもみな、力強く前を向く。どんなことがあっても希望を失わない。安心しました」
「どうしました。急にしおらしいことを。傷が熱でも持ちましたか」
庭の隅で並んで盃を手にしているのは執事長のアムゼン、そして侍女長のヘレーネ。どちらも普段どおりの制服だ。ただ、胸に小さく薔薇の装飾をあしらっている。公爵家の象徴として使うようになっていたのだ。
ヘレーネが真顔で返した言葉に、アムゼンは眉を上げてみせた。
「はは。もうすっかり良くなりましたよ。ただ……」
「ただ?」
「……ズーシアス候も引退され、カイン氏は王子を廃された。アルノルド王子の後継も確定したいま、先代様から引き継いだ、いわば公爵家の暗部はもう、終わりにすべきなのです。わたしのような古い者と共にね」
俯いたアムゼンに、ヘレーネは言葉をかけようとし、口をつぐんだ。同じように俯く。ここしばらくの事柄すべてについて説明を受けていた彼女は、いつものようには軽口を返せない。それでも、と顔を上げると、アムゼンの顔は正面にあった。まっすぐに彼女を見ている。その手に、小さな包みが乗せられていた。差し出している。
「……なんですか」
「わたしと、旅をしませんか。少し長い旅になると思います。ですが、きっとたくさん、素敵なことが待っていると思います。旦那様と、奥様のように」
包みから光るものを取り出して、ヘレーネの手を取る。彼女は抵抗しない。動けない。アムゼンの顔を見つめて、人生で初めて指に輪が通されるのをただ、ただ、感じている。
ちょうどその頃に、おもての通りに馬車が到着した。上品だが質素なつくりだ。なんの紋章も入っていない。三人の男が降りてきた。
「今日はお招きいただき、ありがとうございます」
中央、癖のある赤毛の、素朴な印象の青年が礼をとった。受付役の侍女はひっという声を上げ、なにかの道具のように直角に腰を折った。隣の花街の女は横目にそれを不思議そうに見やり、微笑で返す。
「ようこそ、いらっしゃいませ。楽しんでらしてくださいね」
「ええ、ありがとう。素敵なドレスだ」
そう言い、彼は女の手をとり、軽く唇を落とす仕草をしてみせた。
颯爽と去ってゆく背を見て、女はため息をついた。
「いい男だねえ。ちょっと、狙ってみようかなあ」
「……お、お、おおおお、お……」
「ん、どしたの。なんで固まってんの、あんた」
「あ、あれ、あれ……あ、アルノルド、王子……」
受付周辺の女たちが小さな悲鳴を上げた。花街の女は膝から崩れ、昏倒した。
と、聖堂の扉が開く。
花街に縁のある子どもたちに囲まれて、ウィリオンが姿を見せた。純白の、身体にぴったりあった装束。やはり胸元には深紅の薔薇。中庭のみなを見渡し、人差し指と中指を揃えて額にあて、さっと上げてみせた。
きゃあ、と侍女たちから声が上がる。
公爵家に戻ったウィリオンは、振舞いを改めた。一新、と言っていい。
ニアナの口添えにより様々な誤解を解き、そのうえで親しみを得られるよう、彼なりに工夫をしたのである。
培った冷血の仮面とごろつき風の空気を攪拌した仕草は、どうしたことか、侍女たちの彼に対する評価を反転させた。むしろ、非常に好評だった。もちろんニアナが彼のためにさまざまな弁護を行ったためでもあるが、あまりの好評にニアナは顔をしかめることもあり、そうした夜はウィリオンはたいへん苦慮する羽目となった。
ウィリオンに続いて、花嫁が姿を現した。
純白。長い裾を引き、胸の前に手を組んで、ベールを揺らしている。降り注ぐ陽光のなかで、ニアナの姿は薄く黄金をまとっているように見えていた。
ウィリオンがその手を取り、ゆっくりと前に歩ませる。聖堂前の石段でふたりが向き合う。ベールを持ち上げ、微笑みあい、互いに小さく唇をつけた。
列席者からため息と、ちいさく鼻をすする音。ぶいいと鼻をかんだのは、おそらく銀の魔女亭の女主人《おかみ》だ。
ニアナは改めてみなの方に振り向き、大きな笑顔で手を振った。胸につけた薔薇の装飾を外し、ぽんと放り投げる。受け取ったのは侍女長ヘレーネであった。隣のアムゼンと目を見合わせ、ともに自らの胸の薔薇よりも赤くなり、俯く。
ニアナは中庭に出ようと脚を出す。が、ベールが風で上がってしまった。捩れて肩にかかる。形を直してやろうと、ウィリオンが背後から手を出した。左の肩に触れる。
ニアナは、即座に反応した。
肩に置かれた相手の手を右手で取り、上に捻り上げる。腰をだんと相手の腹に入れ、ふっと息を吐きながら、身体を捻って強く引き下ろした。
中庭に転がり、青空を見上げるウィリオン。
静まり返る列席者。
脚を踏み開いた花嫁の顔から血の気がゆっくりと抜けてゆく。
その顔色は、おそらく彼女の纏うドレスよりも、ずっと白かった。
雲ひとつない青空に二羽の小さな鳥が舞う。
互いに睦まじくじゃれあい、遠く遠く、飛んでゆく。
どこか、ニアナとウィリオンに似ているように思えた。
<了>



