数年前に閉めた酒場だ。
 建物自体も古く、今でも使われているようには見えない。
 店舗の他に、厨房や休憩室、住み込みの従業員のための部屋がいくつかある。
 そのもっとも店舗に近い場所、すなわち戸口をすぐに確認できるところが彼らの溜まり場となっていた。

 「……なんか、変な声、しねえか」

 木札の賭け事をしていた男の一人が声を出す。
 車座になっているのは四人の男。いずれもさまざまな模様の入った太い腕をこれみよがしに剝きだしている。傍らには酒の瓶、つまみの皿。部屋は煙草の煙が充満している。

 「あ? いや、聴こえねえが」
 「……気のせいか」

 男は気を取り直して手札に目を落とした。そのまま賭け事が継続されたが、間もなく全員が顔をあげた。

 「……聴こえるな」
 「近づいてきてるぜ。お前、ちょっと様子、見てこい」
 「ちっ。俺の札にサマ、仕掛けんじゃねえぞ」

 身体をゆすって立ち上がった男。部屋を出て、店舗だった場所に立つ。遠くから聞こえてきていた声は、いまは何軒か先で上げられているらしい。呼びかけているような声に聞こえた。
 やがてその声が消えた。様子を伺っていると、男の目の前の戸口、木製の分厚い扉の向こうに誰かが立った気配がある。
 扉が叩かれた。男は返答をしない。命令は、誰が訪ねて来ても相手にするな、という内容だったためである。気配を消して、相手が去るのを待つ。
 と。

 「こんにちは! 火の用心!」

 大音声。
 びりり、と扉が震えた。
 あまりの声に男は扉を開けてしまった。黙らせたかったのだ。近隣の注目を集めたくなかった。

 扉の向こう、残照を背負って立っていたのは、ひとりの中年女性。どこかの侍女、という風体だが、目が鋭い。が、その目をすぐに和らげて男を見上げる。

 「ローディルダム公爵家です。お変わりはありませんか」

 今度は柔らかな声。だが、男は動揺した。その名乗りに、である。彼は腕力において仲間たちをはるかに凌駕したが、脳の発達は比例していなかった。

 「なんだよ、公爵さんの見回りか。ここには俺たちしか居ねえよ」

 薄い微笑を貼り付けたまま、侍女の動作が静止した。何も言わないため、男は用事が済んだものと考えて扉を閉めようとした。
 その扉に、手がかかる。

 「……なぜ、人を探していると知っているのですか」

 しまった、と男が考えた瞬間に、侍女は室内に踏み込んでいた。素早く周りを見回す。男はその背に手をかけようとした。
 が、次の瞬間、寝転がって天井を見上げていたのは男であった。
 視界の隅に映った侍女が立てかけたほうきを手に取ったのを見た。が、彼の記憶と視界はそこで途切れる。

 物音を聞いて男たちが走り出た。
 最初の男が口から泡を吹いて倒れ、その横に侍女が立っている。
 袖をまくり、裾をたくし上げ、ほうきを脇にかまえて肩幅に脚を踏み張っている。
 その視線はまっすぐ、男たちを射抜いている。

 「あんだてめえ!」
 「官憲《さつ》か!」

 男たちは彼女に殺到した。
 最初の男が振り上げたこぶしが侍女の頬に到達する直前、彼女は身を引いた。つんのめる男の首筋を、右脇を支点としてぐんと回転させたほうきの柄が直撃する。男は吹き飛ばされ、後頭部で床を打った。

 その背後から別の男が現れる。今度は油断をしていない。両拳を前にかまえ、ゆっくりすり足で近づいてくる。間合いを図り、右、左と細かく打ってくる。そのすべてを侍女はほうきの柄で払った。が、そこに間隙が生じた。男はにやりと口角を上げて廻し蹴りを見舞ってくる。ただ、それは侍女が呼んだ攻撃だった。くん、と屈み、床すれすれに高速で振った柄が男の脛を弾き飛ばす。転倒したそのみぞおちに、柄を突き当てる。

 最後の男は、逃走した。廊下に逃げ込む。侍女は追った。男はひとつの部屋の扉を乱暴に開け、走りこんだ。侍女も続く。
 男はその窓のない部屋の奥にいた人影に走り寄り、抱え起こし、尻から刃物を抜いてその首辺りに突き付けた。

 「て、てめえ、なにもんだ。動くんじゃねえぞ、こいつを探してるんだろう。動いたらぶっ刺してやっからな!」
 「……やってごらんなさい」

 侍女は、ゆらり、と前に出た。手挟んだほうきをゆっくりと持ち上げる。

 「わたくしは、ヘレーネ・ヴィトゲンシュテイン。雷神の槍と恐れられた父祖の技を受け継ぐもの。あなたが刃を振るのが速いか、わたくしがあなたの額を砕くのが速いか。試してごらんなさい」
 「……ち、ち、ちきしょ」

 石造りの床が揺れた。
 男が身動きした瞬間、その眉間に柄の先端が突きつけられていた。紙一枚の間隙をおいて静止している。遅れてきた風が男の髪を揺らす。侍女が踏みしめた重い音すら、後からやってきたように彼は感じている。
 柄の先端に瞳を寄せ、男はそのまま昏倒した。

 戸口からわずかに残照が零れてくる。
 薄暗い部屋の中で、少し白髪を含んだヘレーネの髪が燃えるように輝く。
 ふん、と胸を張り、刃を突きつけられていた人影に手を差し出した。が、縛られていることに気づいて背に回る。

 「奥様かと思えば、執事長。こんなところでなにをやっているのです。だらしない」
 「……美しい」

 人影、アムゼンは問いかけに合わぬ答えを口の中だけで小さく呟いた。その瞳が潤んでいる。


 ◇◇◇


 ニアナは走り出していた。
 部屋を出る。真っ暗だ。建物の構造などわからない。手あたり次第に曲がり、扉を開け、階下へ進む道を探す。

 口を突いて出る言葉はずっと同じものだった。
 ウィリオン。ウィリオン。

 窓を越えたウィリオンとカインはそのまま落下した。
 走り寄るニアナは、一度、がしゃんという音を聞いた。その直後に水音。窓に縋りつく。月明かりに川面の波紋。
 震える脚を叱咤し、踵を返した。
 廃墟のような建物の中、薄闇で走る彼女はなんども転倒し、その都度、脚なり腕を打撲した。切った箇所もある。が、手当などしない。痛みを感じていない。走る。走る。は、は、という呼吸音、あるいは嗚咽が、しんとした建物に反響する。

 出口を見つけて、転がるように走り出る。
 ぶわりと水と下草の匂いが彼女を包む。
 茂みをかき分けて川に近づく。
 浮いている影がふたつ。

 「ウィリオン!」

 叫んで、飛び込んだ。深い。すぐに足が着かなくなる。水をかき分けると、それでも浮いている影にたどりついた。黒い装束に手を伸ばす。身体を捩り、引き付け、岸まで運んだ。
 震える手で、影、ウィリオンを仰向かせる。首筋に手を当てる。息がある。胸が上下している。ごぼっ、と、わずかに水を吐いて、咳き込んだ。
 そこまで見てから、ニアナは振り返った。数拍、動かない。
 が、立ち上がった。ふたたび飛び込む。もうひとつの影、カインを同じように引き寄せ、岸に上げた。
 なぜそうするのかを、ニアナ自身も説明できない。それでも、そうしなければ大事なものがすべて奪われてしまうように感じていたのだ。
 呼吸を確認し、再びウィリオンに向き直る。

 「ウィリオン……ウィリオン!」

 幾度も呼び掛けているうちに、首を動かした。薄く目を開ける。

 「……よお……怪我、ねえか」

 穏やかな声に、ニアナの目から堪えていたものが零れ落ちた。
 が、すぐに視線が動く。意識を戻して動いたためだろう、ウィリオンの腹部から血が溢れたのだ。無意識にそれを手で押えたニアナ。それでも指の間から溢れてくる。苦悶するウィリオン。

 「待ってて、すぐ戻る」

 立ち上がり、走り出す。建物の周りを巡る。そして目指すものを見つけた。
 ウィリオンが乗ってきた白馬は木立に隠れるように繋がれていた。
 ニアナは馬の扱いを知らない。どうすれば導けるかもわからない。それでも彼女は舫《もやい》を解いて、馬に言葉をかけた。お願い。お願い、助けて。お願い。
 口輪を掴んで誘導するニアナに、白馬は大人しく従った。そのまま川辺まで引き、ウィリオンの横につける。

 「ごめんなさい。我慢して」

 声をかけ、身を起こさせる。呻きながら応じて、ウィリオンは立ち上がり、崩れた。脇から支え、馬に寄り掛からせる。

 「……んだよ、お前、俺だけに、懐いてたんじゃ……ねえ、のか……へへ、に、ニアナに引かれて来やがって、う、浮気もの、め……」
 「ウィリオン、ごめん、乗れる?」
 「へっ……誰に、言ってんだよ、俺は、薔薇の、おおか……」

 飛び乗ろうとして落ちかけたウィリオンの背を支え、全力で押し上げる。何度も何度も試みて、ようやく馬の背に乗せる。ニアナは一度で飛び乗った。ウィリオンの背について、彼の脇を通して手綱を握る。

 「……馬、乗れんのかよ」

 吐く息が薄い。それを感じながら、ニアナは笑った。頬を転がる雫はそのままに、大きく笑った。

 「ごめ、ん。わかんない。ね、教えて、馬の乗りかた。今度、あなたのお仕事、落ち着いたらさ」
 「……へ。すぐに乗れると、思うなよ……俺のしごきは、きつい、ぞ……」

 答えずにニアナは直感だけで手綱を振る。それでも馬は、こたえた。走り出す。行きたい方へ身体を向けて綱を引けば従った。ニアナが苦慮していれば、ウィリオンはそれを感じて手を添えた。二人が走らせる馬は、広い草地に出た。

 眩しいほどの、満月の夜。

 疾走する馬の背で、ニアナは狼を見ている。
 狼は、夫の背にあった。

 あの夜にニアナを捉え、獲物として見据えた黄金の瞳が、いま彼女を愛しげに見つめている。穏やかに、静かに、見つめている。その言おうとしていることをニアナは感じ取って、拒んだ。顔を振って、拒んだ。

 「……なあ、おい」

 しばらく意識を失っていたのだろう。傾いでいた首を持ち上げ、ウィリオンはわずかに振り向いた。振り向こうとした。が、動けない。

 「あの夜も、よお。こんな月だったよな。いや……もう少し、小さかった、か……欠けてたんだろうな。今夜は満月なのかな。へっ、薔薇の狼の旅立ちには似合いだぜ」
 「喋らないで!」

 叫びながら、ニアナは考えている。
 いのちのすべてをかけて、考えている。
 どこにいけばいい。どこにいけば、救える。どこに、どこに!
 考えながら、言葉を継ぐ。

 「黙っていて。お願い。動くたびに、声を出すたびに……」
 「ああ、わりいな、服をよ、汚しちまっ……て。俺なんかの、血で、な。あとで、もっといいもの、買えよ……俺も、少しは財産みたいなもの、残して、やれると、思う……から」

 共に、全身が濡れている。川に浸かったのだ。互いに傷を負い、装束などなかば形を成していない。
 が、ウィリオンは見ているのだ。
 蒼い月の下で、ニアナを後ろに乗せて走った、その夜を。
 夜着を纏ったニアナが吹き付ける風に髪を押さえ、困惑している姿を。
 大きな夜景を見ながら、その頬に手を重ねた夜を。

 ニアナ。
 ニアナ。
 
 幸せに、なれよ。

 「死なせない!」

 ニアナの声は絶叫となっている。

 「死なせない! あなたを! わたしはそう言った! 忘れたのっ!」
 「……忘れちゃ、いねえさ」

 薔薇の狼の崩れそうになる背に、ニアナは顔を押し付ける。
 その感触に頬を緩めながら、ウィリオンは小さく呟いた。

 「……あん時ぁ、痛かったぜ。でもよ、ご令嬢に投げ飛ばされるってなあ、わりい思い出じゃねえ……なあ、娼館から来た、ご令嬢さん」