「……どうして」
目の前の相手、月を背景に立つカイン第二王子に向けた言葉がどういう意味であるのか、それを発したニアナ自身にもわかっていない。
カインはわずかに目を見開き、かくりと首を傾けた。紺のざらりとした長髪が目にかかっている。木製の人形のような、何かの部品のような、無機質な仕草。
「なにが? 眠って起きたらこんな夜中になっていたことに驚いた? 月が綺麗すぎて信じられないのかな? ああ、僕がどうしてこんな服装か、ってことかな。おかしいかな。似合っていないかな」
的外れな言葉を、カインは本心で返している。暗紫色の緩い外套をばさりと翻して歯をむき出した。
「まあ、立っていないで、座りなよ。遠慮しないで。好きな場所を使っていいよ。ここは君の家なんだから。これからずっと住むんだ、慣れていかないとね」
「……どうして、わたしを……」
「どうして? え、ここに連れてきたこと? な、なにを言ってるの」
カインは苦しそうに息をなんどか吸い込んだ。痙攣しているように見えたが、それは彼の哄笑だった。
「君が望んだんじゃないか。ねえ。呼んだでしょ。僕を。あの時、王宮でさ。ね、あれはそういう意味だったでしょ」
「……え……」
「君を誘った侯爵を、セドナを、君は小気味よく袖にしたね。ふ、ふ、あれ、最高だったね。でも君にとって、ローディルダム公もただの金目当てだ。じゃあ、なにを求めてるのかなって考えたんだ。そうしたら、わかった。わかったんだよ。ああ、この人は僕を呼んでる、本当の相手、同じ人種を探してるんだって」
肩を揺らすように歩いてくる。その間も視線はずっとニアナを捉えている。瞬きをしない。ニアナは震える脚を、動かない脚を叱咤した。ゆっくりと後ずさる。
「君は僕とおんなじだ。本当の顔がない。本当の家がない。家族がない。貴族の娘なのに娼館で育って、なにも持っていなくて、嘘のなか、虚構のなかに生きていて。ローディルダム公に近づいたのも金のため。そして彼が結婚に応じたのも計算づく。利用し、利用され、信頼できるものは金だけ。そうだね」
ニアナは首を振る。ちがう。ちがう。が、怯えを含んで歪んだその表情を、カインは真実を突かれて困惑しているものと捉えたようだった。満足そうに目元を緩め、両手を前に掲げる。ゆらりと揺れながら進んでくるその姿は生きている人間のものとも思えなかった。
「だからね、僕は頑張ったんだ。あらゆる障害を乗り越えて、君を閉じ込めていた街を灼《や》いて、ようやくローディルダム公の手から君を取り戻したんだ。解放してあげたんだ。嬉しかったろう。ね」
「……ち、が……」
「だけど君を侯爵家に、王宮になど迎えない。あんな偽りだらけの場所は、君にはふさわしくない。だから、ここに案内したんだ。本当の家。僕がこの世界で唯一、安心できる場所。ね。いいところだろう」
後退するニアナにカインが追い付く。肩に指が触れる。身を捩って避けようとするが、ぐいと掴まれる。引き寄せられ、濁った眼がニアナの間近に迫る。ニアナは唇を噛み、呼吸を止めた。
「お礼なんていいよ。その代わりに、僕を大事にして。僕を安心させて。僕をずっと、いろんな嫌なものから護るって、言って。あの時、ローディルダム公にはそうしたじゃないか。セドナの前に立ってさ。でも、あんな演技じゃなくて、もっともっと本気で。ね。だって家族になるんだろう。僕たち。ね。僕を護って」
「わ、たし、は……!」
掠れた声を振り絞り、ニアナは声を上げた。ぴく、とカインの指が揺れる。
「わたし、は、自分の意思で、自分で選んで、ウィリオン……ローディルダム公に嫁ぎました……誰に命じられたからでもありません。わたしが、望んだんです」
「薬のことも?」
カインの瞳から色彩と温度が失せている。それはニアナも同様だ。理由が異なるのみである。
「僕のところで捌いていた薬、調べてたでしょ。もしかしたら、とは思ってたけどさ、一緒に捕まえたおじさん、あれ公爵家の執事だよね。きっと、君は公爵家に脅されたんだ。無理やりに協力させられたんだ。執事に監視されながら、娼館に戻されて調べさせられてたんだ。そうだよね」
「……いいえ、わたしが、自分から望んで」
「嘘だ。嘘に決まっている。可哀そうに、そう言えと指示されてるんだね。だって君には利点がないもの。嫁いですぐに、そんな危険なことに手を出すはずがない。なんの利益もない。そんなこと、誰もするはずが……」
「そう、したかったんです! あの人のために!」
声を張り上げる理由が、それこそない。反論する必要などないのだ。それでもニアナは、言い切った。自分の中のなにがそうさせているのか、彼女自身にも説明がつかない。
「嘘だ」
「嘘ではありません。繋がったから。あの人、ローディルダム公とわたしが、繋がったから。嫁いだのもそう。わたしと繋がった、お世話になったみんなのため。ぜんぶ、わたしが、そうしたかったからです」
「……そう」
カインは肩を掴む手をわずかに緩めた。彼女を上目に見ていた視線が揺れている。
「わかったよ……でも、さ。それならさ、これからは、僕のために……新しく繋がった僕のために、尽くしてくれるんだよね。同じように。ね」
「……」
ニアナは言葉を返さない。胸の前でこぶしを重ね、涙が滲んだ目をカインに向けて、小さく首を振る。
「……どうして。ローディルダム公でいいなら、僕だっていいだろう。地位かい、金かい。僕は王子だよ。少なくともそういうことになってる。欲しいというなら、いくらでも……」
「……帰してください」
「良い暮らしをさせる。外に出さえしなければ、どんな贅沢も叶えてあげる。だから、家族だと言って。ね。これからは僕を護るって、僕の唯一の家族になるって、そう言って。ね」
「……帰して。お願いします」
「ああああっ!」
カインは地面を蹴り、窓の方に振り向いた。手近の酒瓶を蹴り飛ばす。なにが入っているか分からない不潔な袋を踏みにじる。頭を掻きむしり、早足で右手の壁、殺風景な部屋に似つかわしくない豪奢な木棚に向かった。背中を揺らして抽斗に手をかけ、引く。
中にあったものを掴んで、顔に近づける。鼻を埋める。すう、すうと何度も深く呼吸をして、手のものをニアナに示した。
「……いいよ。わかった。なら、君もみんなと一緒になってもらう。家族にもいろんな形があるからね。それでもいい。うん。言葉は僕からかけることにするよ。君は喋れなくなるけど、寂しくないと思うよ。こうやって毎日、抱きしめてあげるからさ」
月明かりとわずかな燭台の灯に照らされ、ゆらゆらと彼の手の中で揺れているもの。ニアナには影しか見えない。が、ゆっくりと形が像を結ぶ。
大量の、女の髪。
ニアナは叫んだ。少なくとも自分ではそのつもりだった。が、実際には声になっていない。肺の空気をすべて送り出し、彼女に向かって歩いてくるカインの前で膝を折る。ゆっくりと首を左右に振る。全身が痺れたように動かない。言うことを聞かない。
ぱらぱらと手の中の髪を取りこぼしながら、カインはニアナに歩み寄った。口元を歪めて、彼女の頭に手を伸ばす。
と。
月明かりが、消えた。
突風と思われた。が、その風は実体を伴っていた。
窓を覆った黒い風は室内に飛び込み、だん、と床に転がった。そのまま人の形をとり、床を蹴る。振り返りかけたカインの背に殺到し、身体を当てた。転倒したカインは反対の壁まで飛ばされ、背を打ち付ける。
「ニアナ!」
全身を黒い布で覆い、頭巾で目元まで隠した男が彼女の肩を掴んだ。
その黒灰色の瞳を、ニアナは知っている。
秘密を打ち明けられた日も、今日も、彼の背後には月がある。
震える手を伸ばし、ニアナは口の形だけで彼の名を呼び、その頬に触れた。
と、扉が乱暴に開けられる。複数の男たちがなだれ込んできた。
「てめえ、なにもんだ!」
ウィリオンは即座にニアナから飛び離れた。男たちが武器を投げることを予想し、ニアナに被害が及ばないように距離をとったのだ。十分に離れ、そこから跳躍する。
最初の男に走り、拳を振り上げる。相手が左の腕を上げて防ごうとする。男の直前で身体を回転させ、左の踵を腹に打ち込む。転がる男。その背を踏み越えるように次の男に飛び掛かり、みぞおちに膝を入れた。
倒れた男たちを横目に、目の前に迫った壁を蹴って反転する。転がるように逃れたその場所、ウィリオンが立っていた位置に長刀が突き刺さる。横合いの男が投げたのだ。足を広げて蜘蛛のように地に伏せ、ウィリオンはそこから再び跳んだ。長刀を振りかざす男。その懐に飛び込み、素早く腹に拳を叩きこむ。が、男は堪え、刀を振るった。ウィリオンは避けたが、わずかに背を掠った。
「……く」
振り返りざまに足を振り抜く。側頭部に強い蹴りを受けた男は転倒した。滑り流れた刀を背後にいた男が取る。さらに他の男たちが部屋に入って来る。数人がウィリオンの背後に回り込む。
が、そこで動きが止まった。
「……な……あ、あんた……」
構えをとり、ウィリオンは動かない。薄く開いた目、氷のような瞳。ただ、先ほど受けた刀傷により肩口から出血していた。黒の装束の背の部分が破れている。血は、むき出しとなった背中を伝っている。
月にわずかにかかっていた雲が消え、彼の背を蒼い光が照らしだした。
「……狼と……薔薇の、刺青……あんた……」
「ヴィ……ヴィルの兄貴!」
「薔薇の狼……い、生きて、いた……?」
男たちは後ずさった。手の得物を取り落とす者もある。
その間隙をウィリオンは見逃さない。
男たちの視界から消え、次の瞬間には一人の腹の前に屈んでいた。足のばねで跳ね上がるように立つと同時に拳を男の顎に当てる。くるりと後ろを向きながら再び背を屈め、右の男の脚を払う。転倒するところを首筋に膝を入れる。二人の男は同時に床に倒れ、同じように昏倒した。
離れた男に飛ぶ。相手は手元に短刀を構えている。その真正面に飛び込む。繰り出された短刀を脇に挟み、相手の鼻先に頭突きを見舞う。屈んだ顎を膝で蹴り上げる。宙に舞った男の横をすり抜け、次の男の前で回転し、首筋に手刀を叩きこむ。
後ろから抱えられる。その鼻に後頭部を当て、床を蹴って背後の壁に叩きつける。屈み、正面から襲った男の腹を拳で突き上げる。
男たちのすべてを片付けた、その刹那。
「危ない!」
ニアナが叫んだ。ウィリオンは咄嗟に身を引く。その首筋を掠めて短刀が飛んだ。背後の壁に突き立つ。
「……誰だよ、お前。邪魔すんな」
口元に血をにじませながら、カインが短刀を振り上げていた。
「公爵の犬か。それともお前も、ニアナを狙ってるのか。まあ、どっちでもいいや。いまいいところなんだ。そこで僕たちの門出を見守っていてよ。死にながらね」
手を引き、投擲の姿勢に入る。その瞬間にウィリオンは床を蹴った。拳を振り上げ、カインに迫る。
と、カインが短刀と異なる手でなにかを投げつけた。ぱん、と手の甲で打ち払う。だがそれは、手が当たった瞬間に爆ぜるように砕けた。白い靄のようなものが舞う。それを吸い込み、ウィリオンはがはっと息を吐いた。カインに到達するまえに膝が折れ、滑り込むように転倒する。
背を丸めて咳き込むウィリオンの腹を、カインは蹴り上げた。飛ぶ身体を追い、何度も、何度もつま先をめり込ませる。
「苦しいだろう。少量なら気持ちいい薬なんだけどね、大量にいちどに吸い込めば呼吸が止まる。死ぬこともあるよ。まあ、君の死因は別のものかもしれないけど」
そういい、もういちど蹴ろうと上げた足先を、ウィリオンは掴んだ。体重をかけて引き倒す。カインは転倒し、ウィリオンが組み付いた。上になり、襟元を掴んで引き上げる。
「……な、ぜ……こんな、ことを……しやがる、てめえ、が、なぜ……」
呼吸が続かずに前のめりになるウィリオンの脇腹を拳で打ち、左の肩を掴んで引き落とした。態勢が逆となる。上になり、ウィリオンの首に手を当てる。
「……お前、僕のこと知っているんだ。下等動物のくせに。どこで見た」
「……知って、る、ぜ……くそ、おう、じ……てめえは、手を出しちゃ、ならねえもんに、手ぇ、つけた……何ひとつ、不自由もねえ、おぼっちゃんの、道楽にしちゃあ、火遊びが、過ぎるぜ」
言ったウィリオンの横面をカインはしたたかに打ち付けた。胸を掴んで持ち上げ、何度も打つ。
「お前、なんて言った。今、なんて言った。え。なにひとつ不自由ない、おぼっちゃんって、言ったのか。え。言ったのか」
「……すま、ねえな……言葉が悪かった……てめえは、ただのガキだ……おもちゃをねだって、泣きわめいてる、甘ったれのな」
「あああああっ!」
カインは後ろに手を回した。腰の背面の鞘から短刀を抜き放つ。両手を柄に添え、ウィリオンを組み敷いたままで高く振り上げる。
が、叫んだ彼は、後ろから近付いた足音に気づけなかった。
空の瓶を横に振り抜いたニアナ。瓶はカインの手を弾いた。短刀が飛ぶ。
その瞬間にウィリオンは片膝を跳ね上げ、カインの身体を頭上の方向へ投げた。積んであった木箱に頭から突っ込む。
ウィリオンは何度も咳き込みながら立ち上がり、ふらつきながらカインの方へ踏み出した。相手は動かない。意識を失っているらしい。
ウィリオンは振り返り、ニアナを見た。彼女は瓶を抱えたまま、壁際で震えている。その姿を捉えた時にウィリオンは口元がほころぶのを感じた。これほど不適切な状況はないという場面で、心が暖かく満たされるのを感じた。
ゆっくりと歩み寄る。ニアナも震える唇でなにかを言おうとしている。
手の届くところまできた、その時に。
がたり、と背後で音がした。
振り返ったウィリオンの視線は、短刀を数本、振りかざしているカインを捉えた。が、狙っているのは彼ではない。
ウィリオンは、跳んだ。ニアナに覆いかぶさる。カインの腕が降り抜かれる。
短刀がウィリオンの背に突き立った。
「ぐ……あっ」
呻くウィリオン。ニアナは視界をふさがれているが、何が起こっているか知っている。それでも叫ぶ暇もなかった。
自分を覆うウィリオンの背に、すぐにカインが到達したからだ。
その手に握られていた短刀の先が、ウィリオンの脇腹に突き立っている。
ウィリオンは呻きながら身を捻って刃を抜き、カインを正面に捉えた。短刀を持つ腕を取り、そのまま身体を押す。
ウィリオンの怒気に圧倒されながら、それでもカインは甲高い声を出した。
「お前に何がわかる! 自由に、気ままに生きているお前らに! 親も家族も、友だちだって持っていやがるくせに! 僕にはなにもない。なにもないんだ。自分すら、いないんだよ!」
「……うるせえぞ、ガキ……生まれついての王子様がよ、たかが……隣の国に、連れてこられたくれえで、癇癪おこしてんじゃ、ねえぞ……」
「僕の父親は、ズーシアス侯、セドナだ!」
カインの顔が歪んでいる。泣いているように見えるが涙が零れていない。
「……な、に……」
「隣国の後宮の女が、僕の母だ。国に来ていた侯爵が母に手を出し、僕を産ませた。それが露見しそうになって母は殺された。口封じだよ。だけど結局はバレた」
「……」
「セドナは許しを乞うために材料を出した。その子を、この国の王室の養子にしてみせるって。隣国の王室は呑んだよ。隣国の流れの者が、セドナの血を引く者が、この国の王になる。隣国がこの国の主となる。そのために僕は生かされた。名前も、顔も、親も家族も素性も、ぜんぶ剝ぎ取られてね。は、は、笑っちゃうだろ。は、は」
「……くだらねえ」
二人はすでに窓際まで来ている。そのまま押しながら、ウィリオンは声を出した。ほとんど呼吸ができていない。薬品のためであり、刺傷のためでもある。
「……それで、てめえ、は……どうしたんだよ。なにが、剥ぎ取られた、だ……てめえ、は、いるじゃねえか……ここに、よお。だったら、てめえで、選べよ。どうやって、生きてえか、自分で、よ」
「お前らとは、違うんだよっ!」
カインが身を捻り、ウィリオンを窓の方へ押す。首を掴んでいる。その頭の下には月明かりに照らされた川面が見えている。三階ほどの高さがある。
「奪われたこともない癖に、知ったようなことを!」
「……奪われた、さ」
ウィリオンはちらと部屋の奥のニアナに目を向けた。ウィリオンの声を聴いたように感じ、彼女は走り出した。
叫ぼうとしている。
待って、だめ!
「……ここで、終わりにしねえか。なあ、おぼっちゃんよ」
ウィリオンはカインの胴に腕を回した。床を蹴る。
二人の身体は虚空に躍り出た。



