「……いま、なんと仰いました?」

 壁際に追い詰められたのは若い男。金の紋章が入った黒い詰襟は、ローディルダム公爵家の衛士の制服であった。
 彼の正面、厳しい面持ちでぐいと顔を寄せているのは侍女長のヘレーネ。その背と左右には侍女たち。眉を逆立て、あるいは口に手を当て涙ぐんでいるものもある。

 侍女たちは怪我人を手当てし、焼け出された住人を介助して、火元を離れた安全なこのあたりまで案内していたのだ。そうやって動きながら、ニアナの姿を探していた。火傷を負った女がいる、と聞けば走って向かった。顔を確認するたびに安堵と落胆の両方を味わった。
 やがて公爵家の衛士たちも到着し、その場所を拠点として、それぞれ消火なり保護に立ち働いていたのである。
 そしてやや落ち着いた頃、ひとりの衛士がヘレーネに言ったのだ。
 奥様の名をさきほど焼け跡で聞いた、攫われたなどと言っている、と。

 「た、確かかはわかりません。ただ、その女は言ったのです。奥様、ニアナ様が攫われた、と……娼館街のあたりでした。奥様の名前を口に出している女たちがいたので質したのです」
 「こんなところでなにをしているのです、あなたたちは!」

 ヘレーネはさらに顔を寄せ、怒鳴った。声は周囲の石造りの建物に反響した。

 「なぜ今すぐ探しに行かないのですか! こうしている間にも、奥様は……!」
 「いえ、ですが……奥様がこんなところ、まして娼館あたりにおられたとも思えませんし、攫われるような理由も……おそらく別人でしょう」

 衛士も侍女たちと同様に、ニアナが公爵邸に入る前の暮らしを知らない。いまニアナが邸を出ていることは知っているが、実家、すなわちナビリア子爵家の関係先にいるのだろうと思っている。
 侍女長はアムゼンを脅し、ようやく市街の北部、花街のあたりにいるということだけを聞き取っていた。ただ、花街は広い。ヘレーネにとっても、だから衛士の言うことはもっともに聞こえている。
 が、彼女の直感はまったく別の結論を叫んでいたのである。

 「……手の空いている衛士どのだけでも、動けませんか」
 「いまは火災の後始末で全員、手がいっぱいです……それに公爵様、ウィリオン公のお姿も見えない。ご命令もなく現場を動くことはできません。奥様のご安全の確認は、事態が落ち着いてからご判断を仰ぎます」

 衛士はそれだけ言い、それではと礼をとって小走りに去って行った。
 後に残された侍女たちが不安そうに顔を見合わせる。
 ヘレーネはしばらく黙し、じっと考えていたが、やがてきっと上を向いた。

 「ご挨拶をいたしましょう」
 
 大きな声を上げたので、みな一斉にその顔を見た。全員、なにを言いだすんだ、という表情。

 「誇り高き公爵家の侍女たるもの、不躾に他人様にものを尋ね歩くことは許されません。はしたないことです。まして、奥様を探しております、などとは。公爵家のうちうちの出来事を声高に言うものではありません」
 「……」
 「ですが、大きな火災が生じたのです。火元でない住民の皆様も不安に思っておられましょう。そういう方々にご挨拶、お声がけし、ご安心いただくのもまた、公爵家のものの務めではないでしょうか」

 そう言い、歩き出した。みな首を捻りながらついてゆく。少し先の街路で、ヘレーネはやおら一軒の家の戸口を叩いた。息を吸う。

 「こんにちは! 公爵家です! お元気ですか!」

 大音声。空気が震えた。侍女らも震えた。
 驚いて出てきた住人の背後、室内の様子を伺い、得心したように頷き、礼をとって退がる。住人は不思議な顔をして引っ込んだ。次の戸口でも侍女長は同じことを行い、その次も同様だった。
 様子をしばらく見ていた侍女らは、互いに顔を見合わせ、口を引き結んだ。頬を紅潮させ、うん、と頷きあう。

 「こんにちは! 公爵家です! ごきげんよう!」
 「こんにちは! ローディルダム家です! いかがお過ごしですか!」
 「こんにちは! こんにちは! お変わりありませんか!」

 侍女らの大きな声が、火災の落ち着いた花街の一帯に響きはじめた。


 ◇◇◇


 王都の中心は、言うまでもなく王宮だ。
 その王宮を囲むように諸侯の駐在邸がある。領地が遠方の貴族が王都に滞在する際に利用するものだが、ほとんど領地に帰らずに駐在邸に常駐するものも少なくない。
 
 いま、そうした邸が立ち並ぶ街道を一頭の白馬が走っている。
 騎乗するのはひとりの男。金の紋章の載った黒の詰襟姿だった。
 ローディルダム公爵ウィリオンは、遠い山の稜線に消えかけた残照を背に受けつつ、中腰に馬を駆っている。黒灰色の瞳がまっすぐに前を向いている。奥歯を噛みしめ、眉を逆立て、たたきつけるような風に揺られる白銀の髪は彼の感情を映して逆立っているように見えていた。

 真っすぐに街道をゆき、木立のある角で鋭角に地面を蹴って曲がり、速度を落とすことなく緩い坂を駆け登る。
 上位貴族の邸の立ち並ぶ区画だ。夜ともいえない時間ではあるが、すでに人通りはほとんどない。凄まじいほどの蹄音が建物に反響する。

 やがて正面に目的とする建物が見えた。速度は落ちない。落ちないばかりか、ウィリオンは馬の横腹を蹴った。加速する。
 固く閉ざされた鉄門。大人の身長ほどはある。左右には衛士が立っている。
 衛士らは先ほどからの蹄音に首を捻っていたが、それが近づき、彼らの立つところへまっすぐ向かってきたから狼狽した。
 止まれ、と大声を出し、槍を構える。左右で交差させ門を護る。
 白馬はそのまま突き進んだ。
 突き進み、蹴られる、と身を引いた衛士たちの頭上を越えた。跳んだのである。

 門を飛び越えた白馬はそのまま噴水のある中庭を突き切り、邸の正面に到着した。ぐっと手綱を絞る。馬は前足を突っ張り、砂利が飛ぶ。減速した馬からウィリオンは飛び降りた。その勢いのまま走る。
 正面扉横の通用口が開き、複数の衛士が走り出てきた。
 最初の衛士の足元に滑り込み、足払いをする。倒れた者には目もくれず、次に向かってきた衛士に肩から当たる。相手は転倒し、道が開いた。走る。通用口を潜る。邸内は明るかった。玄関広場を行き来していた侍女らが侵入者の姿を見て悲鳴を上げる。
 ウィリオンはこの邸の構造を知っているわけではない。が、貴族の邸宅はどこも似たような作りであり、目指す部屋はすぐに見当がついた。階段を駆け上がり、廊下の奥にその部屋を見つけた。

 蹴り開けるように扉を開く。
 ほの明るい照明。奥の巨大な窓の前に執務机があり、目指す姿はそこにあった。
 驚いて立ち上がるその男にウィリオンは走り寄り、胸倉を掴む。掴んだ勢いのまま相手を後ろの壁に押し付ける。切れた息を整えることもなく、肩を大きく上下させ、目を見開いてウィリオンは叫んだ。

 「ニアナはどこだ!」

 押さえつけられたのは、金髪を後ろに撫でつけた片眼鏡の男。
 ズーシアス侯セドナは、はじめ驚愕に見開いていた眼を、ゆっくりと眇めていった。口角が上がる。

 「これはずいぶんと乱暴なご訪問ですな、ローディルダムのご次男どの……ああ、今はローディルダム公でいらっしゃったか。まずは手をお放しなさい。これでは口もきけません」

 ウィリオンはぐいと改めて引き寄せ、それから突き放すように解放した。襟元を直しながらセドナはふんと鼻を鳴らす。
 その時に背後の扉から衛士たちが数名、走りこんできた。が、セドナは彼らに手を振ってみせた。下がっていよ、との合図だ。衛士たちはウィリオンをたっぷりと睨みつけ、扉を閉めた。

 「ニアナ……ああ、先日ご紹介いただいた、ご内儀ですな。どうかされましたか。お姿が見えないのですか」
 「ふざけるな!」

 ウィリオンは顔を歪めて再び手を伸ばそうとした。が、セドナは目の前で手をひらひらと振る。少し考え、苦笑いのような表情を浮かべた。

 「……と、いうことは。誰かに拐《かどわ》かされたのですな。そしてわたしを、ズーシアス家をお疑いだ。酷い言いがかりだが、まあ、今はいいでしょう。ともかく違います。わたしではない」
 「貴様以外の誰がする!」
 「本当です。わたしではない。お疑いなら邸のなかを探していただいても構わない。使用人にも訊いてください。誓って、ここにはいない」
 「……どこへ隠した」

 ぎり、と奥歯を軋ませながら声を出すウィリオン。が、セドナはむしろ楽しげに頬を綻ばせ、上等の革の椅子に腰かけた。手を広げ、歌うように声を出す。

 「ですから、わたしではないと申し上げたでしょう。ただ、もしかしたら、という心当たりはありますがね」

 がん、と机が叩かれた。

 「言え! ニアナはどこだ! 誰が攫った!」
 「……ただ、ね。軽々にお伝えするのもどうかと思っておりまして。迷っておるのですよ」

 老獪、という年齢でもない。が、彼の脂ぎった顔つきは、十分に生涯分の世俗の汚れを吸収したようなどす黒さを備えている。

 迷っている、というのは本当だった。表現を変えれば、計算している。
 ローディルダム公が不躾にも侯爵家に無断侵入し、当主の胸倉を掴み、恫喝したこと。その妻が行方不明であるということ。そして、その下手人について、彼には十分以上の心当たりがあるということ。
 こうした状況をどう組み合わせれば、この後の自分の、ズーシアス家の立ち位置がもっとも有利になるかを凄まじい速度で計算している。その計算は、ウィリオンが彼の前に立った瞬間から行われている。
 この男が国の裏面を支配するようになったことには、相応の理由が存在したのである。

 ……切り捨てるか。
 彼はいま、そう考えている。
 あまりにも扱いにくくなった。もはや、火遊びでは済まない。もちろんあれだけの仕掛けを施して、やっと辿り着いたいまの状況だ。勿体ない。が、予想以上に危険な存在になってきた。自分が巻き込まれるようなことがあれば本末転倒だ。
 利点があれば、手放しても構わぬか。
 むしろ公爵家の手で命を落としてくれれば都合が良いというものだな。
 そしてそうなれば、目の前の男は反逆罪だ。事件について何を主張しようとも、気が触れた、としか思われまい。たとえそれが事実であっても。

 「……そうですなあ」

 鷹揚な声を出し、セドナは顎を撫でた。肚が決まり、決まった上はなにやら楽しくなってきたのだ。

 「こうしたことを明かしたとなると、当家も少なからぬ危険を背負うやも知れません。そういう相手をわたしはいま、想像しています。ですから、言いかねておるのですよ」
 「言え!」
 「いやいや、なかなか……」

 ウィリオンは手を出した。セドナ候の首を掴む。力を入れる。苦悶しながら、だが、相手は嘲笑っていた。

 「……やって、みろ……あなたのつまも、あなたのいえも、おわりだ……」

 ウィリオンは唇を噛みしめ、胴を震わせた。震えたままで手を放し、卓に両手をばんと突いた。額を分厚い木の板に押し付ける。絞り出すように声を出す。

 「……頼む……頼む、教えてくれ。頼む」
 「ごほっ……ならば、わたしの出す条件を、吞みますか」
 「呑む。俺ができることであれば」
 「なに、造作もないことですよ」

 そういい、セドナは首を撫でながら袖机を空けた。革表紙の冊子を取り出す。目の前に広げて、なにやら書き込んだ。数行の文字。
 書き終わって改めてから、ぐいとウィリオンの方へ押し出す。

 「署名してください。読んでも構いませんよ」

 ウィリオンは文字に目を通し、顔を上げた。表情が歪んでいる。

 「……貴様……」
 「わたしが読み上げましょうか。ひとつ、ローディルダム公は妻ニアナをただちに離縁し、二度と婚姻を申し込まない。ふたつ、公爵家として王権の継承には今後、一切関与しない」
 「……」
 「当然でしょう。今回の問題は、あなたの奥方、あの破廉恥な女……おっと失礼、あの方の奇矯な振る舞いが原因だとわたしは思っております。その責任をとっていただきませんと。ただ、家督継承には二十五までに結婚している必要がありますから、ふた月後のお誕生日、ご再婚が間に合えばよろしいのですが」

 ぺろり、と唇を舐め、血走った眼を自分に向けるウィリオンを見やる。その視線は愉悦とでもいった色を浮かべている。

 「仮に再婚が成ったとしても、もう王権への干渉はお止めいただきたい。これはこの条件を吞まなくても同じことです。お分かりですね」

 呑まなければ、あるいは余計なことをすれば、今度のことを問題化する。そうして公爵家とその当主には難があると、王は頼るべきではないという結論に導く。そういうことをセドナは言葉の裏に表現した。

 ウィリオンは、百を数えるほどの間、沈黙した。
 これまでのことを考えている。
 父と兄の死を考えている。
 そして、ニアナのことを考えている。

 あの日、暗い寝室に立っていた女。驚かしてやろうと後ろから近付いたら足払いをかけてきて。
 帰れと言えば泣いて怒り、あげくに投げ飛ばされ。飲めぬ酒を飲んで、歌って、大笑いをして。おしゃべりで、負けず嫌いで、すぐ怒ってすぐ泣いて。
 くるくる変わる大きな表情。自分を見る目が、柔らかくて。
 ウィリオン、と呼んでくれるようになっていた。
 ウィリオン、という声が、離れない。
 
 ウィリオン。
 わたしが、死なせない。あなたを。

 「……わかった」

 ウィリオンは筆記具を取り上げ、書面に記名をした。王権の象徴が印字された、神聖な宣誓用の用紙だった。記載内容は法的な拘束力を持つ。
 それを持ち上げ、セドナ候は何度も目で追った。指でなぞり、目元を撓める。

 「いいでしょう。実はここしばらく、第二王子、当家でお預かりしているカイン王子が、どうも悪いお仲間に縁を持ったようなのです。お止めくださるよう何度もご忠告したのですが……それで先日、そのお仲間たちと雑談の中で、王子がニアナどのの名前を出されたようなのです。風変わりな方だと、ずいぶんと皆さん、興味を示されていたとわたしも聞かされましてな」
 「場所は!」
 「は?」
 「そいつらの隠れ家(やさ)だ! 根城はどこだっつってんだよ!」

 ウィリオンの口調が崩れている。が、セドナも気にはしていない。もう会話に興味を失っているかのように手元の書類に何度も目を通している。
 
 「ああ、確かにはわかりませんが……当家は元々、海産物の流通が家業でしてな。王領の北東部にも魚の加工場を持っていました。いまは使っておりませんがね。どうもそこに集まっているというような……」

 言葉の途中で、すでにウィリオンは床を蹴っている。
 セドナは見えなくなったその背に向けて、ふん、と鼻をひとつ鳴らしてみせた。