「……なかなか、見つかりませんね……」
 「……うん……外で歩いてるとは限らないからね、奥様……」

 こほん、という咳払い。
 ひそひそと意見を交わしあっていた侍女ふたりはびくんと揺れ、俯いた。
 
 「すべての建物を見て回るわけにも参りません。それに、わたくしには見えるのです。傷心の奥様が時おりご在所から彷徨い出られるお姿を。光を求めて、安らぎを求めて。ああ、紅に染まった稜線よ、我が結婚生活の行く末を照らしておくれ、そうおっしゃいながら空を振り仰ぐのです。あの方、ニアナ様の繊細なお心、わたくしには手に取るようにわかるのです」

 絶対わかってないよね、と侍女らは同時に考えたが、口を小さく折り曲げたままで神妙に頷いた。ふたりの前を歩く侍女長はこぶしを握り、ひとりうむうむと頷いている。

 今朝からローディルダム公爵家の侍女たちは、一斉に休暇を取っている。侍女らの休暇は侍女長の専権事項であり、侍女長のそれは執事長が管理する。そして侍女長へレーネは昨夜、執事長であるアムゼンに宣言した。明日、休みます、と。
 アムゼンは許可せざるを得ない。すべての侍女が同時に休むとは思っていないからだ。だが公爵家からは本日、侍女ぜんいんが姿を消した。
 残された当主ウィリオンと執事長への意趣返しと見えなくもない。彼女らの女主人、ニアナを護ろうとしない男たちへの。そしてそう指摘されても、ヘレーネも侍女たちもふふと笑って流したであろう。

 そうして侍女たちは街に出た。
 姿を消した女主人、ニアナを見つけ、連れ戻すためである。
 ヘレーネは宣言した。奥様のために、公爵家のために!
 全員が唱和し、足並みをそろえて公爵家の門を出た。

 最初におこなったことは甘味処の捜索である。
 前掛けを外しただけの侍女姿の女たちがずかずかと乗り込んできて、めいめい注文し、なにやら眉を逆立てて奥様のゆくえはなどと議論しながらひどく甘い皿をまたたくまに平らげ、さらに全員おかわりを注文し、徹頭徹尾むずかしい顔で外に出ていったから、店主はひどく怯えて当日は早めの店仕舞いを行った。

 侍女たちはその後、食堂なり市場なり、あるいは小間物や化粧品を扱う店など多岐にわたる捜索先を熱心に丹念に調査した。どうしたわけか大量に荷物が発生したのでそれは彼女らの一部がいったん邸に持ち帰っていった。

 一部の侍女が、そろそろ、と小声で侍女長の背中に声をかけたのは昼もまわった頃である。声を出した方もかけられた方も腹が苦しく、もう入らない。頃合いだ、とヘレーネは判断した。遠くを指差し号令する。
 全員をいくつかの隊に分ける。それぞれ自由に街路を歩き、なんとかして奥様を見つけよ!

 見つけよ、と言われても、と侍女たちは困惑した。きっと侍女長にはなにか良い案があるのだろうと思っていたが、かいかぶりであることが判明したのである。が、午前中の捜索経費、すなわち食事と土産物について、すべて侍女長の裁量により公爵邸の経費として融通してもらっていた手前、なにも反論ができない。

 こうして侍女たちが散ったのが二刻ほど前。ヘレーネの下には若手の侍女ふたりがついて、いまこうして街路を練り歩いているのである。

 「あの……侍女長……せめてそのあたりの商店で、おはなし伺うとかしてみませんか。奥様ご存じじゃありませんか、って」
 「なりません」

 ぴしゃり、と侍女長は言い切った。振り返りもしない。

 「奥様のお名前を出してはなりません。公爵家に傷をつけることとなります。あくまでわたくしどもが目で探すのです。それに、どんな方がおられるかわからないお店などにお声がけするのははしたない。わたくしどもは誇り高いローディルダム公爵家の侍女。そこをわきまえる必要があります」

 はあ、と侍女たちが俯いた、その時。

 きゃあ、という悲鳴が聞こえた。
 数拍後、今度はぼん、というような音。
 離れた街路で煙があがったようだった。

 侍女たちは顔を見合わせ、上長を仰いだ。
 ヘレーネは眉をそばだて、じっと煙を見つめている。
 
 「……火事、でしょうか」

 侍女が声をかけると、ヘレーネは頷いた。
 急いで助けを呼びましょう、危ないから退がるのです。
 そうした言葉を予期して侍女たちは、上長が口を開くのを待つ。

 と、ヘレーネはぐいと袖をまくり上げた。
 裾を後ろに寄せるような仕草。
 煙のほうを見つめて顔を逸らず声を出す。
 
 「行きましょう」
 「えっ」
 「助けにゆくのです。怪我人がいるかもしれません。手が必要でしょう」
 「で、でも……」

 ためらう侍女たちに、ヘレーネは振り向いた。怒ったような顔をして、それでもすぐに目元を緩め、静かな声を出す。

 「公爵家は領内を、ひとびとを護るためにある。先代様は常にそうおっしゃっていました。先ほども申しましたね。わたしたちは誇り高きローディルダムの侍女。そうではありませんか」

 
 ◇◇◇


 小物の店をいくつか巡って、アムゼンは思案顔をしている。

 ニアナが明日、銀の魔女亭を去るにあたって、なにか気の利いた礼の品物を女たちに置いていきたいと考え、少し遠回りをしていたのだ。
 もっともアムゼンはローディルダム公爵の友人という触れ込みであり、それにニアナも出身の家に里帰りしただけだから、彼から礼というのもおかしいようだが、なにもなくても女性には土産を持参することの多い彼である。自分の男を上げておきたいという考えももちろんあるのだろう。

 ともかくいま、彼が待たせている馬車の荷台にはひと抱え以上の品物が積み上げられている。それでも足りないと考えているのか、アムゼンは指を折って数を確かめながら、また次の店の戸口に立った。

 と、その時。
 どん、とも、ずん、とも聞こえる鈍い音。

 振り返ったアムゼンは、街路の向こうの建物の隙間に黒煙を見た。
 その瞬間、彼は全力で走り出している。脇に抱えた土産を打ち捨て、馬車など振り返りもせずに、最短距離で黒煙の上がった場所を目指す。
 花街の中心部、娼館の並ぶあたり。
 そこは彼がこれから赴くべき場所でもあった。

 すぐに匂いを感じるようになる。視界に薄墨がかかる。角を曲がるたびに濃度を増すそれらを突き破るように、彼は持てる全力で石畳を蹴っている。
 やめてくれ。頼む。どうか、やめてくれ。
 ローディルダム公爵家を表裏いずれの面からもながく支え続けた彼の、その冷静な判断力も計算も、いま胸の中の絶叫に埋められて機能していない。ただ、ただ、子どものように叫んでいる。

 最後の角を曲がる。
 正面の奥には、三階建ての乳白色の建物が見えるはずであり、昼であれば二階の窓から支度中の女たちが手を振るし、夜ともなれば一階の酒場にともった灯りが眩しく煌めいて、下品な内容の歌をみなで大笑いしながら歌うのが聴こえてくる。
 そういう場所が、そこにあるはずだった。
 あるべき、だった。

 アムゼンは首を振り、折れそうになる膝を理性で支えた。
 銀の魔女亭を含む、娼館が多く並ぶ一帯の街区すべてが、凶悪な丹黒色で埋められていた。
 舞い散る灰を浴びながら、彼はおのれの横面を全力で殴った。唇を強く噛む。目を見開く。建物に走り寄ると猛烈な熱が彼を襲った。
 女たちの姿がある。呆然と立ちすくみ、あるいは膝をついて泣き叫んでいる。

 「中に残っている者は! みな無事か!」

 アムゼンは彼女らに駆け寄り、その肩を揺さぶりながら叫んだ。答えがない。炎を瞳に映して小さく首を振る者、アムゼンの顔を見て意味のとれない何かを呟く者。
 と、その時。
 彼が来たのとは逆の方向からひとりの女が走ってきた。ゆっくりと脚を緩め、炎を見つめながら手に持った網籠を取り落とし、立ち尽くす。
 ニアナだった。

 「ニアナ様、ご無事で……!」

 走り寄り声をかける。が、反応はない。どうして、どうして、と、小さく掠れた声を出すばかりだ。アムゼンは肩を掴んだ。激しく揺さぶる。がくがくとニアナの首が動く。頬をころがる涙が飛び散る。

 「しっかりしなさい! 残っている者がいないか確認するんです!」
 「……やだ……どうして……やだ……」
 「ニアナ様!」
 「……だ……やだ」

 ぱん、と音。
 ニアナは左の頬をおさえ、手のひらを振るったアムゼンの方へゆっくりと顔を振り向けた。

 「……アム、ゼン……さん……」
 「あなたは公爵夫人だ!」

 アムゼンは彼女の瞳をまっすぐ見ながら間近で強い声を出した。
 
 「もう、誰かの娘じゃない! 大勢のうちのひとりじゃない! 護るんです! みんなを、あなたの大事な人たちを、あなたが! 公爵家はそのためにある、あなたの夫はそのことを絶対に曲げなかった! どんな場所でも、どんな状況でも!」

 ……護らなきゃいけねえ奴を、俺なんかに預けようとするんだぜ。いかれてるよな。親父たち。へへ。
 ……必ず護る、って、アルノルドに言ったんだ。

 蒼い月の光を受けながらそう語ったウィリオンが、彼女の胸に降りた。
 降りて、目が合って、微笑んで。

 ぱん、と、ニアナは今度は自らの両手で頬を叩いた。滲んでいた涙が飛んで、熱のなかにすぐに消えた。
 鼻を啜りながら素早く周囲を見回す。女たちを数える。

 「アムゼンさん、女主人《おかみ》の姿がない!」
 「普段はどこに」
 「厨房の奥、事務室!」

 聞いた瞬間にアムゼンは走っている。共用の井戸を目の端に捉えている。上着を脱ぎ、水を被り、脱いだ上着を浸して頭を覆った。
 その間にニアナは女たちを回って助け起こし、動けそうなものには声をかける。

 「怪我した人を運びたいの。お願い、力を貸して。火傷を負った人は服の上から水をかけて。煙の来ない場所へ」

 その姿をちらと振り返り、アムゼンは小さく頷いた。炎を数拍みつめて熱の薄いところを探し、呼吸を整え、飛び込む。