冷血公爵の夜の顔〜娼館育ちの令嬢は薔薇の狼に溺愛される〜


 雨は止んだが、月はない。
 裏通りには店も少なく、窓の明かりも限られている。大気を満たした水蒸気が深夜の闇をさらに深くしているように思われる。

 その裏町の中通りを、いまひとつの影が移動している。
 黒の外套をぎゅっと前に寄せ、右手で頭巾を目深に下ろし、かつかつと靴音を響かせて足早に歩いている。時おり左右を確認し、あるいは後ろを振り返る。路地への入り口の前を通過するときには特に慎重に周囲を確認しているようだ。

 女、であろう。
 顔は見えない。が、わずかに栗色の長い髪が頭巾の裾から零れ落ちている。外套から覗く足首は細く、艶のある履物もこの街の流行、特に夜の商売をする女たちに好まれているものだった。
 水たまりを踏みながら、酒場の厨房の裏手から流れる煙を裂くように歩く。

 と、唐突に彼女の脚が止まった。
 止まっただけではない。じり、と後ろに下がる。
 その視線は正面、前方左手の路地から湧き出てきた複数の影に向けられている。

 「よお、姉ちゃん。俺たちを覚えてっか」

 正面の影は三つ。いずれも男だ。体格が良い、いや、その腕なり脚なりを武器として使用することを目的として肥大化させた体躯、と表現したほうがよいのだろう。
 その中央にいた、原色の袖なしの上衣の男がひきつるように口角を上げた。

 「さっきの酒場。姉ちゃんが薬のことを聞きまわってた後ろでよ、俺たちが飲んでたんだわ。やべえことに首を突っ込む割にはずいぶん不用心じゃねえか。てめえ、誰に言われて調べてんだ。裏は誰だ」

 言葉が終わるか否かのところで女は踵を返し、駆け出した。が、数歩もゆかぬうちに男の一人に回り込まれた。急停止し、別の方向に転回しようとしたが、同じように男が立った。三方向から囲まれる形だ。

 「花街で流れてる強《つえ》え薬を知らねえか、そいつがどこで作られて誰が元締めになってるか調べてる、って言ってたなあ。よお、そんなこと聞いてどうすんだ。誰にそのネタ、売るんだよ。え」

 女は外套をより強く押え、じりじりと後退する。男たちは悠然と距離を詰め、下卑た笑いを浮かべている。

 「……まあ、いいわ。俺たちが一晩中、たっぷりもてなしてやっからよ。朝になりゃあ、てめえから言いたくなるだろうよ」

 そういい、袖なしの男が女に腕を伸ばす。女は身を引く。が、あえなく外套が掴まれ、さらけ出されたその奥の細腕を捕られた。身を捩って逃れようとする女。へへ、と男たちはさらに目元を緩ませ、一歩を踏み出した。

 その時。

 「がっ……ぐげ」

 男の一人が奇妙な声を上げ、崩れ落ちた。首筋を打たれたのだろう。白目を剥き、泡を吹いている。
 背後に人影。
 薄暗いなかにもなお暗いその影は、全身を黒い布で覆っているようだ。細身の長身。体格から男性と思われた。口元も頭も隠され、目元のみ肌が見えている。黒灰色の瞳を鋭く男たちに向けている。

 「あんだあ、てめえ」

 残った男は二人ともに懐から短刀を取り出した。その一方、長髪の男がそれを胸元に構えて、黒衣の男に突進する。相手は避けようともせずその到達を待つ。ひゅっと伸ばされた腕をつかんで脇に挟み、身体を回した。関節を逆方向に捻られた長髪は悲鳴を上げる。その関節に黒衣の男は膝を叩きこんだ。骨の砕ける音。絶叫とともに倒れかかった長髪の側頭部に黒衣の男が鋭い蹴りを見舞う。

 昏倒した長髪を見下ろし、黒衣の男はゆっくりと振り返った。半袖の男の息が荒い。獣と同等の知性を持つ彼らにも、目の前の相手が餌であるのか、あるいは自分が餌であるのかは本能において判断が可能だったのだ。
 いま、その本能は、傍に立つ女を人質として逃走することを半袖の男に命じた。
 女の腕をとり、背後に廻ってその胸元に刃を突き立てる。

 「てめえ! どこの野郎だ、この女の連れか。一歩でも動いてみろ、ぐっさり行くぜ、脅しじゃ……」

 ねえぞ、と言いかけたのだが、言葉が最後まで続かない。
 腕の中の女が消え、代わりに横合いから黒衣の男の廻し蹴りが飛んできたためだ。
 吹き飛ばされる男。黒衣の男が即座に間合いを詰める。起き上がる前に膝で首を押え、男が取り落とした短刀をもてあそぶように目の前で揺らして見せる。

 「お前の上は誰だ。そいつは薬にどう関わっている。薬はどこから流れてきている。言え」
 「て、て、てめえ……なにもんだ」

 ぎり、と膝で男の首元を締める。苦悶の声を漏らす半袖の男。その目元まで短刀の光る刃先を近づける。血走る目が見開かれる。

 「……う、上は、三番街を仕切ってる親分だ。俺らは薬には関わっちゃいねえ、ただ、薬のことを聞きまわってる奴を見かけたら報告しろって、親分が言われてるらしい」
 「報告……? 誰にだ」
 「し、知らねえ。本当だ。ただ、お、親分のところに来る使いが、旦那、って呼んでた。その、旦那って奴がたぶん、も、元締めだ……」

 そこまで言い、酸素不足に陥った男は意識を失い、首をかくりと倒した。

 黒衣の男は立ち上がり、外套の女に近づく。女の手を取り、ぐいと引く。女は若干の抵抗を見せたが、そのまま引かれていった。足早にいくつかの角を曲がり、もうすぐ表通りというあたりで暗がりに入った。
 そこで男は女の肩を掴む。顔を近づける。ぐい、と口元を覆う布を下げる。ごく小さな囁くような音量で、だが目を剥いて怒鳴ってみせた。

 「なにやってんだ危ねえだろうが! さっきのあれ、わざと捕まっただろ! 半袖のやつに! あんたなら逃げられたはずだろうがよ!」
 「中途半端に逃げたら背中からやられるでしょ! 羽交締めにされた方がむしろ逃げやすいの! 思いっきり下にしゃがめば抜けられる。それに、それに……」

 黒衣の男ウィリオンは、頭巾の奥のニアナに言葉の礫をぶつけられるのを待っている。ウィリオンがひとつ言えば、十ほども返る。夜と朝を幾度も共にし、互いの温度を充分に知ったいま、夫は妻を遅まきながらに理解しつつあるのだ。
 が、その妻は、どうしたことか言葉を止めた。俯き加減にあらぬ方を向く。

 「……あなたなら、わたしが傷つく前に助けてくれるって、わかってたから」

 ローディルダム公ウィリオン、あるいは貧民街のヴィルは、いずれもこの言葉と態度に洒落た返答を寄越すことができるような男ではない。なにやら息苦しそうに口をぱくぱくさせ、首から上をゆっくりと赤く染めながら、ニアナとは別の方向に顔を逸らす。

 「……次からはもう、おとりなんてさせねえ。他の奴にやらせとけばいい」
 「誰も危険な目に遭わせたくない。必要なら、わたしがやる」
 「駄目だ。他の手を考える」
 「薬の大元に繋がってるのを釣り出すにはおとりが必要だって、あなたとアムゼンさんが言ったんじゃない。誰かがやらなきゃいけないなら、わたしが……」
 「ニアナが危ない目に遭うのが嫌だっつってんだよ!」

 街路に響くほどの声に、今度はニアナが頬を朱に染めた。ふたりとも沈黙して数拍の時間が経過する。見るものが見ていれば、二人ともに砕け散ってしまえとの呪いの言葉を吐かれるべき場面である。

 「……とにかく、三番街のごろつきを叩けばいいってことは分かった」
 「これでよかったの? 薬のこと調べてるって、はっきり伝わっちゃう」
 「いいんだ。だいぶ情報は集まった。あとは根っこにいる奴にこうやって圧をかけていく。焦れて動いた時が、そいつの最後だ……さて、俺はもう少し探ってから戻るからな。店まで送る」
 「大丈夫、一人で戻れるから」
 「いや、送る」
 「大丈夫だってば」
 「黙って送られとけよこの!」

 数日ぶりに会えたんだ、もう少し話がしたい。顔を見ていたい。手に触れたい。そんなことが言えるわけもないウィリオンは顔をくしゃりと妙なかたちに歪め、ニアナの手を掴んで眉を逆立て、歩き出す。
 ニアナも怒り顔を作ってみせた。が、それもすぐに柔らかな微笑に置き換えられる。

 雨上がりの湿気を含んだ風が生暖かい。おそらく二人によってさらに温度を上げられた結果なのだろう。
 その後に二人が砕け散ったか否かは誰も確認していない。