ちょうど、ウィリオンが二十一の誕生日を迎える前日だった。

 土砂降りの雨の中、腹を押さえて、その男は戸口に立っていた。
 扉を叩く音に出た三下《ちんぴら》は、なんだてめえ、と追い返そうとしたが、男は苦しそうな息の中、窓の外の薔薇のことで、とだけ言った。
 困惑した三下がウィリオン……ヴィルにそのことを告げると、彼は三下を遠ざけて自室に男を通した。薔薇はヴィルも背負っていたが、大食堂の窓のすぐ外に咲き誇る紅い花の映像は、彼が公爵家を想起するときに最初に浮かんでくるものだった。

 目の前で男は膝から崩れた。腹から出血をしている。刺されていた。
 顔を近づけたヴィルに、男は告げた。
 表に馬車が停まっています。中に……。それだけ言って、男は意識を失った。

 馬車の中にはひとりの若者がいた。息が荒い。三下が引き出そうとすると、倒れた。ヴィルは二人を並べ、闇医者を呼んだ。 
 二人ともに息を吹き返したが、闇医者は言った。若い方は毒を受けている、長い時間をかけて殺す毒だ、関わり合いにならないほうがいい。

 口をきけるようになった男は、ヴィルを見て微笑んだ。やっぱり、似ておいでだ。奥様にも、旦那様にも。
 アムゼンと名乗った男は、公爵家の裏のことを取り仕切っている、と告げた。そして隣に寝かされている若者に目をやって、国王ファールハイム三世の一子、アルノルドだと説明した。王宮内で命を狙われているとも、そこから逃す途上で襲われたのだとも。
 ヴィルはふんと鼻を鳴らした。信じるはずもない。が、アムゼンは穏やかな表情を変えずに告げた。あなたが護るのです。旦那様、ローディルダム公はおっしゃいました。あなたに託せと、あなたなら護り切れると、あれはそういう子だ、と。

 「……親父もアムゼンも、俺がどこでなにしてるのか、ずっと見てやがったんだと。ったく、いやらしいぜ。全部わかってて、こんな俺に、背中にでっけえ刺青を背負ったごろつきの俺なんぞによ、絶対に護らなきゃいけねえ奴を預けようとするんだぜ。いかれてるよな」

 鼻を掻きながら、ウィリオンはへへと笑った。

 「それでも俺は信じなかった。そりゃそうだろ、滅茶苦茶な話だ。だいたいよ、公爵家でもどこでも、まともな家で匿えよ、ってなるだろ。だができねえと。そうしたら相手の思うつぼ、王子を拐《かどわ》かしたとして謀反の罪を被せられる、そういう相手だ、って言うんだ」

 そこでウィリオンはニアナに顔を振り向けた。月明かりに銀の髪が揺れる。

 「俺を担ごうとしてねえか、って言ってやったらな、あのおっさん、身体が動くようになってからどっかに消えてな、戻ってきたと思ったらついてこいって言うんだ。どこに行ったと思う?」

 が、ニアナは答えられない。答えがわからないからというのもあるが、ウィリオンの語る内容が彼女の理解の範囲をとうに超えていたからでもある。まだ胸元にすら彼の説明は落ちていない。ただただ、首を振っている。

 「……王宮だよ。国王に会わされた。へっ、おまけによ。俺の肩つかんで、頭下げてさ、息子を頼む、って言うんだ。国王が、だぜ。笑っちまった。笑って、だけどもう、頷くしかなくなった。そうやって、アルノルド、俺はルディって呼んでたが、あいつを預かることになったんだ」

 ウィリオンは懐かしそうな、だがどこか苦しげな表情を浮かべた。

 「ルディは世間では辺境で療養中ってことになったらしいな。俺んとこに寝泊まりして、外に出る時には俺の手の奴らが護衛についた。もちろんあいつらにはルディの正体は明かしてねえ。実際にキツい交渉事、あったぜ。本職のやべえ奴が何度も襲ってきた。だが俺たちは喧嘩では絶対負けねえ。相手が誰だろうとな」
 「……」
 「しばらく経つと、ルディの体調は目に見えて良くなった。飯も食うし、身体も厚くなった。アムゼンのおっさんは定期的に訪ねて来てたから、言ったんだ。ルディを匿った日に医者が言ってた、毒のことをよ」
 「……」
 「アムゼンは頷いてたよ。だから、王宮では護り切れなかったんだ、ってな。味も匂いもない、証拠が残らない。だが間違いなく仕掛けられていたと。なあ、ここまでの話でよ、相手が誰かってのは見当ついてるだろ」

 今度はニアナは、頷いた。二人の王子の対立、いや、その背後の勢力同士の対立の話は、庶民の娯楽の一種として消費され尽くされているのである。
 第一王子が狙われたのなら、それを行ったのは反対勢力でしかない。
 つまり、ズーシアス侯爵家だ。

 「だが、その頃でも貴族連中はほとんど、侯爵の側についていた。まあ、金だよな。無理もねえ。王宮で働く奴の多くもそっちに靡いた。だから、事は慎重に進める必要があるって、アムゼンは言っていた。証拠を揃えて、多くの目がある中で追い詰めなければならない、ってな」

 そこでウィリオンは言葉を切り、俯いて唇を噛んだ。

 「二年ほど前のことだ。侯爵家は隣国とつながりが深い。隣国は薬品の研究が盛んだ。そこからの繋がりで、証言をしてくれそうな奴を確保できた、ってアムゼンが報告してくれた。あと一息だ、って言って帰って、そのすぐ後に……親父と、兄貴が死んだ。殺されたんだ」
 「……え」
 「馬の暴走って聞いて、俺はすぐにぴんときた。薬を使ったってな。だが、事故で侯爵の甥まで死んじまいやがった。公爵家の馬車でな。それで、仕舞いだ。もう追及なんざできやしねえ。なにか言おうもんなら袋叩きだろ」

 ウィリオンは、ぎり、と奥歯を噛むような表情を見せた。

 「野郎……侯爵はよ、俺の家族だけじゃねえ。てめえの身内まで手にかけやがった。絶対に有利な立場を作るためにな。俺たちはごろつきだ。ごみ溜めに生きてる。それでも背骨はひん曲がっちゃいねえ。だが、野郎は越えちゃならねえ線を越えやがった。人間を辞めちまいやがった」
 「……」
 「許さねえ。野郎……侯爵は絶対に、俺が潰す」

 ウィリオンの手がわずかに震えている。ニアナは手を伸ばし、指先だけ触れ、引き込めた。それでも思い直し、ゆっくり、静かに重ねていった。ウィリオンは怯えたように息を吸い、少しずつ吐き出して、それで心拍を下げたようだった。

 「……俺は家に戻った。野郎にツケを払わせるためにな。貧民街のヴィルは喧嘩で刺されて死んだということにした。ルディ、アルノルドも王宮《ヤサ》に戻った。戻るときに、俺は言った。必ず俺が護る、って。あいつもな、生意気に同じ言葉を返しやがったよ」

 そこでウィリオンは声を止めた。長い間をつくって、ちらとニアナを見た。また正面に戻り、再び横目に見て、やはり下に視線を落とす。片膝を立て、それを抱えて、下唇を噛んでいる。
 その表情はどこか子供のようだと、ニアナは月明かりに浮く彼の頬を見ている。

 「……わかっただろ」

 ずいぶん経ってから、ウィリオンは独りごちるように声を出した。

 「俺がなにをしようとしてるのか。どうして夜ごとに外に出ているのか。なぜ理由も告げずに街のごろつきどもを捕らえるのか。なぜ……俺が、あんたを巻き込めねえって、言ってるのか」
 「……ねえ」

 ニアナが言葉を返したので、ウィリオンはわずかに首を振り向けた。

 「今日。どうして王宮で、わたしを庇ったの。わたしが言われたことに、怒ったの。都合が悪いなら、わたしを悪者にすれば、切り捨てればよかっただけなのに」

 問いに答えずに問いを返すニアナに、ウィリオンは不思議なものを見るような目を向けた。それから口角を持ち上げて、ふ、という音を漏らした。

 「じゃあ、俺も聞くぜ。どうして俺を庇ったんだ。侯爵の挑発に乗ったのは俺だ。俺が、公爵家がどうなろうが、来たばっかりのあんたにゃ関係ねえだろうによ」

 ニアナは答えない。ウィリオンも同様だ。ただ、互いに重なった手のひらの温度を感じている。そのことを通じて、相手の声を、心が叫ぶ言葉を、充分に受け取っている。

 「……今なら、なかったことにできる。帰れるんだぜ」
 「……帰らない。言ったじゃない」
 「怖くは、ねえのか」
 「怖い」
 「だったら……」
 「怖い。でも、わたしが知らないところであなたが苦しむのも、怖い。あなたが苦しい思いをしているのを知らないことが怖い。あなたが……消えるのが、怖い」

 ニアナの手のひらがウィリオンのそれを包み込む。ぎゅっと力を籠める。ウィリオンがその手を引き寄せた。肩が互いに触れる。

 「……薔薇は、よ。近づいた奴、ぜんぶ傷つけちまう。懐に入れば、手を触れれば、抜けねえ棘が刺さるんだ。だから、俺は、一人で……」

 ウィリオンの言葉はそこで途切れた。呼吸も同時に止まっている。肺に空気を入れる方法を失念したのだ。ニアナが彼の背に腕を回したためである。

 「……痛くない」
 「……」
 「抱きしめても、痛くない。刺さらない。温かい。温かくて、それで……」

 ニアナは間近にウィリオンの顔を見上げて囁いた。できるだけ小さな声で、相手の柔らかい心に傷をつけることがないように。が、彼女もやはり中途で言葉を失うこととなる。

 重なった唇の温度は、わずかにウィリオンの方が高かった。
 温かくて、わたしと、おんなじ。
 彼女は目元で微笑んで、それからゆっくりと瞼を閉じた。

 さら、と夜風が下草を揺らしてゆく。
 中天を越えた月が、ひとつになった影をその上に刻んでいる。