「ぜったい無理だめ無理だめだめ無理無理」
「うわっ暴れんな、ちゃんと掴まってろ」
「いやああ無理無理い」
とん、と壁を蹴ったウィリオンは、手首に巻き付けた硬質の紐を器用に操作し、緩急をつけて降下する。そのたびに衝撃が伝わり、都度、ウィリオンの首に両手を廻して抱き着いた格好のニアナは叫ぶのだ。
「大丈夫だって、ほらよ、もうすぐ地面に着く」
その言葉に薄目を開いたニアナは、それでもまだ大人の身長ふたつぶんほどは二人の身体が浮いていることを発見し、にゃ、と奇妙な声を漏らし、暴れた。
「動くなっつってるだろうがよ! あ、やべ」
ニアナが身動きしたことで紐の操作を誤り、想定より速い速度で落下したウィリオンは、なんとかぎりぎりで態勢を立て直して、どんと両足で地面に踏み立った。
ニアナは、すでに自分の脚が地に着いているにも関わらず、ウィリオンに抱き着いたままだ。かくかくと震え、ぎゅっと閉じた目尻に涙が滲んでいる。その身体を引きはがそうとしたウィリオンは、思い直して彼女の薄い背に手をまわした。
ニアナの寝室に侵入してきた黒い影、頭巾と口あてで顔を隠したローディルダム公ウィリオンは、ほら行くぜ、と彼女を抱え起こして、上に何かを羽織るように指示をした。相手が夫と理解したニアナは、わけもわからぬまま言われた通りにする。ウィリオンは窓際に歩いていき、ニアナを手招きした。夜景を見て話をするものと思い、ニアナはうんと頷いて近寄ったが、その彼女の腰に手を廻し、ウィリオンは夜の闇に飛び出した。
ローディルダム公爵家は三階建てである。ニアナの私室は二階にあり、その上方、屋根の端のあたりから紐が下ろされていた。それを左手に巻き付け、いつのまにか幅広の帯のようなもので自分とニアナの胴体を巻いて固定していたウィリオンは、窓を蹴り、ずっと眼下の庭先に向けて身を躍らせたのだ。
庭には、一頭の馬が係留されていた。
半ばべそをかいているニアナの手を引いて、今度はウィリオンは馬に乗せようとする。首を振るニアナ。が、先に飛び乗って手を伸ばすウィリオンの背後に、彼女の目線はちょうど、明るい月を捉えたのだ。
口元を覆っているが、目元がよく見えた。穏やかに緩められたその目にもう少し近寄りたいと思い、ニアナは迂闊にも手を差し出した。その手を掴んで、ウィリオンは自分の前に引っ張り上げる。
ニアナは乗馬の経験がない。それでも、引き上げられるときにぽんと跳んで応えるという運動神経を有しており、それを披露してしまった。横座りに馬の首の後ろ、ウィリオンの前に落ち着くと、彼は手綱を振るった。
風が流れる。
木々が飛ぶ。
夜が、月が、擦過する。
邸の敷地などすぐに抜け、木立を通過し、斜面を登る。細い林道を通過して、高台に出た。見晴らしがよい。公爵邸とその領地の街並みが一望できる。大きな岩があり、その横で馬の脚を止め、ウィリオンは飛び降りてニアナに手を広げてみせた。俺の腕に飛び込め、という様子だった。
ニアナは涙目のまま、ずるずると自分で馬から降りた。
「寒くないか」
岩に腰かけ、隣に座るように手招きしながら、ウィリオンは声を出した。ニアナは夜着であり、薄いものを羽織ってはいるが、人に見られでもしたらと気が気ではない。それでもウィリオンが、懐から布のようなものを出して岩の上に敷くという配慮を見せたので、そこに座った。
二階から綱いっぽんで降り立ち、生まれて初めて馬の背で揺られて、ニアナは文字通り目を回しかけていた。何度か息を吸い、吐くうちにようやく落ち着いてきたので、肩を抱きながら言葉を出す。
「……ちょっと、寒い」
「だよな……悪《わり》い。いろいろ、びっくりしたろ。なんかよ、その……ぜんぶ話すって決めたらさ、ぜんぶ、見せたくなっちまってよ。俺がいつも、見てるもの。いつもやっていること」
ニアナはウィリオンの方に振り返った。口元を覆う布をとっていない。視線も、ニアナではなく正面の風景を見ている。
ニアナにとっては、今夜のような行動をいつもしているのか、という驚きよりも、ぜんぶ話す、という言葉に感じた動揺のほうが大きい。腹の括り方がわからず、彼女も正面に向き直った。
「……よく、来るんですか。ここ」
「ん、ああ、悩んだときはだいたいな……なあ、あれ、わかるか」
ウィリオンは視界の左の端の方、ずっと遠くを指さした。市街の北のはずれだ。そこだけぼんやりと街が明るい。高い塔が月明かりに浮かんでいる。
「え、はい……たぶん、花街、かな……教会の塔も見える」
「そうだ。あんたが育った場所、だろ」
「……はい。娼館。花街には何軒もあって、わたしは中でもいちばん大きい、銀の魔女亭、っていうお店にいました。四歳の冬に、拾ってもらって。それからずっと」
「……親父さん、子爵には、会ってたのか。花街で暮らしているあいだ」
ニアナは首を振り、笑った。
「お邸に来るときに、十何年かぶりに会いました。もう、会うこともないと思う」
「……そう、か」
ウィリオンはしばらく黙って、それから手を上げ、今度は花街のやや南、暗い一帯を指さした。
「花街の南のあたり、なにがあるか知ってるか」
「え、あ、はい……貧民街、って呼ばれてるって聞いてました。あんまり近寄ったら駄目だって。不良とか、ごろつきとか、花街に縁がある人も多いらしいけど、危険なところだって……」
「俺は、そこで育った」
再び振り返ったニアナに、今度はウィリオンは視線を返した。照れるような目元。口あてに指をかけ、引き下ろす。小さく薄く、そしてどこか寂しげに笑っていた。
「ヴィル。それが俺のもうひとつの名前だ。貧民街のヴィル、薔薇の狼っていやあ、ちょっとした顔だったんだぜ。まあ、聞いたこたあ、ねえだろうけどな」
「……え」
「十五の時に、家を出た。親父と大喧嘩をしてな」
物語をするように、他人の噂をするように、ウィリオンは感情をこめずに静かに話を続けた。ニアナはそれを聞きながら、彼の黒灰色の瞳に映った街の灯に、彼の過ごした過去の時間に、魂が吸い込まれていくように感じている。
ローディルダム公爵家の先代当主は二度、結婚をしている。最初の妻は長男をもうけたが、直後に病で亡くなった。後添えは商人の娘で、それがウィリオンの母だ。
最初の妻を失った後、先代は悲嘆に暮れ、消沈し、公務すら停滞したという。見かねた周囲のあっせんにより、長男が三歳になったころに再婚した。先代は新しい妻を愛したし、妻も応えたが、あまりうまくはいかなかった。
次男であるウィリオンが生まれてしばらくすると、妻は離縁を申し出た。ウィリオンを連れていくと彼女は主張したが、先代が許さなかった。
兄弟はどちらも貴族の子として十分な教育と鍛錬を受けた。分け隔てもなく、優劣をつけられることもなかった。少なくとも父である先代はそう振舞った。
が、ウィリオンは幼いころから感じていた。父の目は兄を見ている。兄を通じて、知らない影、この世にない魂を見ようとしている。自分を見ていない。
徐々に父に反発するようになり、困惑した父は根気強く彼に向き合ったが、関係性はゆっくりとねじれを見せるようになっていった。
ウィリオンが十五歳の冬に父子は衝突した。きっかけは大したことではなかった。互いにむきになっただけだし、意地を張っただけだが、言ってはならない言葉をいずれも口にした。最後には、出て行け、わかった、という応答になった。
ふらふらと歩く彼を拾ったのは、下町のごろつきだった。
強い雨が降る深夜、肩が当たったのどうのと因縁をつけられたウィリオンは、いきなり相手に殴りかかった。もちろん逆襲され、ぼろきれのように転がったが、相手が去った後に男が近寄ってきた。
おい、ガキ。てめえ、いい根性してんじゃねえか。行くとこ、あるのか。ウィリオンは首を振った。ごろつきは貧民街に彼を連れてゆき、兄貴分に引き渡した。
てめえ、名前は。問われて彼は、ヴィル、と名乗った。
そこで雑用をしているうちに、親分格に目をつけられた。威勢のいい若いのが足りてねえんだ、うちに来い。ヴィルに断る理由はなかった。
数年が経過すると、ヴィル自身が数名の男を連れて歩くようになっていた。天性の運動神経に裏打ちされた格闘技術、その粗暴さに似合わぬ計算、教養が評価された。ごろつき同士のいさかいには彼は必ず顔を出し、そのすべてに勝利した。
やがて彼はひとつの集団を任されるようになり、その頃に刺青を背負った。絵柄として、彼は薔薇と黒い狼を指定した。一度相手に喰らいついたら離さない狼、と彼は呼ばれていたのだ。だが、薔薇は、と問われると、彼はいつもあいまいに笑って誤魔化した。
ローディルダム公爵家の庭には薔薇が咲いている。季節には庭の一角を紅色に染める。その薔薇は、行方がわからなくなった次男の母が手植えしたものなのだ。
貧民街のヴィル、薔薇の狼。
腕力と金が論理を構成する昏い世界で、その名を知らぬものなどいなかった。



