馬車は賑やかな街並みを抜けて郊外に出た。
王宮が色とりどりの屋根の向こうに隠れたころ、ようやくニアナはひとことだけ発した。
「……ごめん、なさい」
王宮の使用人が持たせてくれた蓋つきの盃には、温かいミルクが入れられている。それをニアナは膝に乗せ、両方の手のひらで包むようにしている。肩掛けは公爵家より侍女が持参していたもので、それが二枚、彼女の上半身を覆っている。
それでも今に至るまで、彼女の震えは止まらなかったのだ。
ズーシアス候セドナと第二王子カインは、必要な手続きを終えるとすぐに王の前から退出した。カインの背を押すように部屋を出る直前、セドナはニアナを睨んだし、押されるカインは何度も彼女に振り向いた。
王と第一王子アルノルド、そしてウィリオンとニアナだけとなった部屋で、しばらくは誰も言葉を発さなかった。が、やがてニアナが震えながら膝を折ってしまい、これをウィリオンが椅子に導いたことで呪縛が解けた。
ほんとう、なのか。
アルノルドは短くウィリオンにそう問いかけた。ウィリオンはわずかに躊躇い、頷いた。なにが、とは聞かない。ニアナの出自、娼館に暮らしていたことを指すのは自明である。
ニアナは覚悟していた。
ウィリオンがセドナ侯爵の言葉、ニアナを貶める内容に爆発的に反応したことが、冷血の仮面をかなぐり捨てようとしたことが、嬉しかった。が、危険だと思った。そのことが事実だからである。今日はたまたま言い当てられただけとしても、やがて彼の敵はその弱みとして、自分の出自のことを知るだろう。それを利用しようとするだろう。
だから、自ら明かした。
自分がウィリオンを誘ったのだと、相手にその気がなかったのに女の武器で強引に縁を結ばせたのだと、そう見せた。そのことで、弱みを封じた。
責めを負うとすれば、切り捨てられるとすれば、自分だけでいい。
それがウィリオンの見せた姿勢に対する、彼女の回答だった。
ウィリオンが頷くのを見た王と王子は、顔を見合わせた。互いに唇をわずかに開けたまま、王は首を振り、王子は頭の後ろに手をやった。ニアナは手の震えを止めることができないまま、この国の最高権力者による𠮟責の、断罪の言葉を待った。
しばらくして、ようやく王が小さく呟いた。
なんと……花嫁も、か。まいったな。
その言葉に、隣のアルノルド王子がぷっと吹き出した。しばらく肩を揺らし、苦笑のような表情を浮かべながらウィリオンに言葉をかける。
ほら、花嫁さんがお疲れです。今日のところはもうお戻りください。温かいものを用意しますから、あなたがちゃんと大事にしてあげてくださいよ。
そうして、真顔で言葉を添える。
素敵な人じゃないですか。
あとは、あなたが決めることですよ、薔薇の狼。
ニアナは三人の会話がわからぬまま、王子が発した薔薇の狼という言葉にも気づかぬまま、集まった侍女たちに丁重に介助され、公爵家の付き人に引き渡され、馬車に乗り込んだのである。すぐにウィリオンも戻ってきて、そのまま出発した。
「……ごめんなさい」
同じ言葉を、ニアナは繰り返した。
差し出がましいことを。許可も得ずに。面目を潰して。王の御前で。
詫びるべき言葉はたくさんあった。が、もっとも言わなければならないことを、ニアナはいま、言えない。昨夜なら言えたであろうことが、どうしても言えない。
ごめんなさい、わたしなんかが。
娼館出身のわたしなんかが、来たから。
ウィリオンは言葉を返さない。唇を軽く噛んだまま、のどやかに広がる畑と木立を見つめている。ニアナも今度は、強く迫らない。ひとこと発したあとは俯いて黙り込んだ。そのまま時間が経過する。車内にはがらがらと石畳を噛む車輪の音だけが響いている。
と。
「……てくれ」
え、とニアナは顔をあげた。外の音をウィリオンの声と思い違ったのかと考えたのだ。が、ウィリオンはもう一度、今度ははっきりと言葉を出した。
「待っていてくれ。今夜、君の部屋で。月が高くなったころにゆく」
◇◇◇
邸に戻ると侍女たちがわらわらと出迎えた。
馬車から降りたニアナに、侍女長ヘレーネを筆頭とした侍女たちが小走りに寄る。ニアナの顔色が悪いことを発見して、彼女らは後から降りてきた当主ウィリオンを刃のような視線で睨みつけた。
そのまま皆でニアナを囲むように自室へ連れてゆく。
後に残されたウィリオンは、睨まれたことに気が付いてすらいない。邸に入って以来、怯えと怒り以外の種類の視線を向けられたことがなかったから、侍女とはそういう表情しかできない生物なのだと理解しているのだ。
ニアナを見送ってから、さて、という形で歩き出した彼に、陰からすうと近寄ってきた者がある。
「どうした」
「急ぎ、お耳に入れたいことが」
執事長アムゼンだった。ウィリオンのわずか後ろに寄り添い、小さく声を出す。並んでみるとわずかにアムゼンのほうが低い。穏やかだがどこか沈んだような表情。が、彼はどこにでもこの表情を携えてゆくのであり、特段の意味はない。
「構わない。言え」
ウィリオンは左右をちらと見てから小声で返した。
アムゼンは頷き、さらに声を落として言葉を続けた。
◇◇◇
「……なにを描いておいでですか」
ズーシアス候セドナは足を組み、窓枠に肘を置いて外を見ていたが、ちらと車内を振り返って言葉を吐いた。声音に苛立ちが感じられた。
言われた方は、返事をしない。ひたすらに膝の上に乗せた書付に筆を走らせている。その様子が勘に触るらしく、侯爵は舌打ちをした。
「なにを描いてるんです」
もう一度、今度は声を強くして言った。それでようやく、相手が顔を上げる。表情がない。いつものことではあるが、王のところで得た不快がずっと消えずにいる侯爵には、相手、第二王子カインの白い顔が化け物のように映っている。
カインは、四歳、すなわち隣国からこの国に連れてこられた時からずっとズーシアス家で暮らしている。むろん王子であるから粗略には扱われない。ただ、家人も使用人も、誰もがこの奇縁の子と距離を置き、触れ合いを避けた。
もともと内向的だった彼は、そうした暮らしに、病んだ。知能が高く、読書を好んでずっと部屋に閉じこもっていることが多かったが、徐々に表情が薄くなり、やがて言葉もめったに発しないようになった。
思春期を終えるころには、夜になると外出するようになった。家人を伴わない。ただ、どこで知り合ったものか、性質のよくない男たちと行動をともにしているようだった。
セドナ侯爵はこうしたカインの行動を把握していたが、止めなかった。彼自身には子供がなく、カインをその代わりとして甘やかしていたということもあったが、別の理由もある。
カインは、どういう経緯か、知ってはならないことを知ったのである。それは侯爵の、あるいは侯爵家の行ってきたことに関するきわめて重要な事柄だった。
侯爵はそれにより、命の緒を握られた状態となった。彼は思い悩んだが、開き直った。やがてカインは王となる。そうなれば、むしろ知っていた方が有利。そう考え、一切を放置することとしたのだ。
近頃では、カインは侯爵の言うことに耳を貸そうとしない。王宮にゆくと言い聞かせておいてもふいと出かけてしまう。たまたま今日、捕まえることができ、急遽の参内となったのである。
侯爵の声に、カインは顔をあげ、にたり、と両方の口の端を持ち上げてみせた。
「ニアナ」
「は?」
「ニアナ。どう、似てるでしょう」
書付を持ち上げてみせる。なにやら意味の通じない形状が並び、激しい原色が塗りたくられている。侯爵は背筋がぞくりとするのを感じたが、なんとか微笑を作ってみせた。
「ほほう、ニアナ。先ほどの公爵家の嫁御ですな。あの女がどうかしましたか」
「うん、欲しいんだ。あれ」
侯爵は目を瞬かせ、カインの言葉の意味が腹に落ちていくのを待った。が、待てども咀嚼が終わらない。
「王子、それはまた、どういう……」
「ふふ、ふ。ねえ、あれはいい女だね。侯爵もそう思うでしょう?」
そういって、ふたたび書付に目を落とす。筆をとる。黒の絵の具を掬い上げ、ぐしゃぐしゃと全体に塗り付ける。筆先を押し付け、こすり、最後にはばんばんと叩きつけた。
叩きつけながら、笑いとも啜り泣きともつかないひいひいという声を、第二王子は引き攣るような表情のなかで上げ続けている。



