「……お元気にされていましたか」

 赤毛の青年、第一王子アルノルドはなにかはにかむような表情でウィリオンに言葉をかけた。同時に長椅子を指し示し、座るように促す。自らも父王を支えて椅子に導き、その隣に腰を下ろした。

 「お心遣い、感謝申し上げます。ただ」
 「はい」
 「わたくしにそのようなお言葉遣いは無用です」

 ウィリオンは冷たく取られかねない言葉を使ったが、声は笑っている。相手もそれを聞いて表情を崩した。人懐っこい、朴訥といってよい笑顔だった。

 ニアナは王室と公爵家の関わり、そしてズーシアス侯爵家や第二王子をめぐるいきさつについて詳しいわけではない。庶民でもそうした方面に明るい者は多いし、娼館の酒場でも盛んに議論されていたが、彼女はさほど興味を持たなかったのだ。
 それでも、かつて第一王子の庇護者と言われた公爵家が、先代の急逝によって、あるいは後継者が変人の冷血公爵となったことで王室と疎遠になった、と言われていることくらいは知っている。

 ただ、いま目の前に見る二人の青年、第一王子アルノルドと冷血公爵ウィリオンの間に流れる空気は、疎遠などというものではない、とニアナはぼんやり考えている。むしろその温度は、肉親の、兄弟同士のそれに近いと感じた。年齢が近いだけ、先代が親密だったというだけでそのような関係になるものか、と、首を捻ってもいる。

 「素敵な花嫁さんだ。どこで見つけたんですか。ひどいなあ、僕にも内緒でことを進めるなんて」

 アルノルドの軽口にウィリオンは目を伏せたまま穏やかに口元をほころばせた。そうした表情、昼の冷血でも夜のごろつきでもない穏やかな微笑はニアナがはじめて見るものだった。

 「お知らせすればいろいろと文句をつけられるのではないかと思ったものですから。王子の女性の好みは少し変わっておられますのでね」
 「ああ、ひどいなあ。花嫁さんの前で」
 「冗談です。本当のところは、わたくしにとっても唐突だったのですよ。家令が用意した縁談でした。朝、目が覚めたら胸の上に顔も知らぬ妻が寝ていたのです」

 驚いて顔をあげ、ちょっと、という言葉を発しかけたニアナだったが、アルノルドとウィリオンがともにこちらを見て笑っているのを見つけて、表情に困り、口を鳥のはばたきのような形にして横を向いた。

 「あっはは。ごめんなさい、驚かれたでしょう。僕にとってのウィリオン……ローディルダム公爵は、兄のようなものなのです。ですからその奥様であるあなたも、お姉様になるわけで、身内です。こんなやり取りにも慣れてください」
 「王子。ニアナは二十歳です。あなたのほうが四つも上だ」
 「いいじゃないですか、お姉さんが欲しかったんだ、僕は」

 はは、と笑いあい、なお軽口を交換しあう二人。
 ニアナはいよいよウィリオンという人間がわからなくなった。
 先代を手にかけ地位を得た冷血公爵。もちろん今ではそんな噂を信じてはいないが、冷たい仮面の下は勝手気ままな変人、というのが現在のニアナの夫に対する評価である。昼と夜、どちらの顔をもってしても王子と冗談を言い合い、兄とも思っているといわれるような人物とは思われない。
 王も二人を、自分の息子のように柔らかな表情で眺めている。室内の上品なほの明るさが、まるで三人の姿から放たれているようにニアナは感じた。

 「ときに、ウィリオン。昼食は」

 王がふいに思い出したように口にし、ウィリオンはニアナのほうをちらと見た。ニアナはなんと答えるのが正解か分からなかったが、朝のこともあり、しばらくはなにも食べたくはなかった。
 察したのだろう。ウィリオンは首を振り、それから改めて姿勢を正した。

 「せっかくですが、妻も空腹を覚えておらぬようです。それに、まずは大事なことをすませなければなりません」
 「む……おお、おお、そうか。そうだったな。婚儀の言上であった」

 そういいながら、王は手すりに手を置き、時間をかけて立ち上がった。その背にはアルノルド王子が手を添えている。威儀をただし、いちど咳ばらいをする。
 
 「……参内《さんだい》、大儀である。用向きはいかに」

 王は威厳を帯びた静かな声を出した。その前にウィリオンは片膝をつき、胸にこぶしを当てる。今度は彼は、ニアナにちらと視線を送った。最後の承諾を求めているのだろうと理解し、ニアナも目で返した。もとより、だ。椅子から立ち、裾を摘まんで深い礼をとる。

 「ローディルダムの血脈より出でしウィリオン、このたびナビリアの血脈より出でしニアナを妻といたします。なにとぞご英知をもってお認めいただき、ご威光をもって我ら夫婦に先行きの光をお与えくださいますように」
 「認めよう。しっかと家督をとり、わが下にて国を支えよ。今よりローディルダム公を名乗ることを許す」

 ウィリオンとニアナはさらに一段深く礼をとり、王も頷いた。しばらくその姿勢でいたが、王がくすりと息を吐いたので、二人とも顔を上げた。

 「などとしかつめらしく言うがな、わたしも王子も先ほどから公爵と呼んでしまっておるよな、ははは」

 あはは、と王子も声を出して笑い、それから真顔になった。

 「おめでとうございます、ローディルダム公。御家に幾久しく、まばゆい光の降り注がんことを」
 「ありがとうございます」

 ウィリオンは柔らかな声で答え、横のニアナに小さく顔を振り向けた。ニアナも返す。声と同じように、夫の表情には穏やかな温度があった。静かに差す明かりがその横顔を照らし、銀の髪を飾っていた。
 いっときの演技かもしれない。添い遂げるつもりの婚儀でないかもしれない。それでもニアナは、そうした夫の表情に、嘘ではないなにかを見出したような気がしていた。そういうウィリオンの横にいることを喜び、胸が小さく高鳴っている自分を見つけた。
 この男を幸せにしたいと、この男のために幸せを見つけたいと、このときニアナは初めて胸の底の深いところで願ったのである。

 その時、ごく控えめに扉を叩く音が聞こえた。

 「何か」

 アルノルドが答えると、扉が小さく開けられた。先ほど王の入室の際に外に出ていた執事が顔を出した。

 「申し訳ございません。その、ご来客が……」
 「今はローディルダム公をお迎えしている。待たせておけ」
 「それが、その……火急のご用件、とのことで」

 執事は小さくウィリオンの方を見て、申し訳なさげに眉を顰め、唇を噛むような仕草をしてみせた。そのことで、来客がどういう人物か、その場の全員が理解した。
 アルノルドが困惑する様子を見せたので、ウィリオンは腰を上げ、声をかけようとした。急ぎ退出するので気になさらず、という趣旨のことを述べようとしたのだが、至らなかった。

 どすどすという、絨毯に靴底をめり込ませるような無遠慮な足音が聞こえてきた。その音はやがて近くなり、扉の外に到達した。振り向いた執事となにか言葉を交わす様子だったが、やにわに扉がぐいと引きあけられた。
 身体をねじ込むように入ってきたのは、金髪を後ろに撫でつけ、片眼鏡を耳にかけた肉付きのよい男だった。五十ほどか。いかにも上質そうな鳶色の羽織着にいくつもの宝石細工を飾っている。

 「陛下、火急ゆえ失礼しますぞ……おや」

 王と第一王子に視線を置いたあと、その向かいに立つ二人に移した。驚くというよりも、そこにあってはならない異物を見つけた、とでもいうような声を出し、太い眉を上げて見せる。

 「これは珍しい。先客とは誰かと思えば……ご機嫌よう、ローディルダムのご次男どの。今日はまたなんのご用件で」
 「ズーシアス侯爵、彼は婚儀の言上で参ったのだ。婚姻は成った。ゆえにローディルダム家を正式に継承したこととなる。公爵とお呼びするよう」

 アルノルドが早口かつ低い声でそう告げると、ズーシアス侯爵、セドナ・ズーシアスは、左右に手を広げて大仰に驚いたような仕草をしてみせた。

 「……なんと! それは目出度《めでた》い。あの冷血……いや、失礼した、個性的なご次男どのに輿入れしたいというご令嬢がおられたとは」
 「侯爵どの」
 「いやいや、他意はありませぬ。心配していたのですよ。このままでは二十五の誕生日までに婚儀がならずに家督お取り潰しになるのでは、とね」

 眉をしかめたアルノルドから顔を逸らし、セドナ候はウィリオンとニアナのほうへ振り向いた。ニアナはわずかに歩を下げ、ウィリオンの斜め後ろに立った。

 「お祝いを申し上げよう。見れば愛らしい花嫁どのだ」
 「……お言葉、感謝します」
 
 ニアナは控えめに俯いている。だから斜め前のウィリオンの表情は見えていない。が、彼の手がわずかに震えていることに気が付いた。

 「だが、どこで見つけられた。社交界にはまったくご興味を持たれていなかったようだが、探せばいるものですなあ。あいにくわたしが存じ上げないご令嬢だが……ああ、そうか」
 「……」
 「合点した。ご令嬢である必要もない。きっとご次男どのがお姿を隠していた頃に出会われたのですな。どこぞの酒場の歌姫か、あるいは花街で商売を……。さてもお見事ですな、花嫁どの。光も当たらない場末からひといきに貴族の妻の座を射止めるとは。どんな手練れ手管を用いたのやら。こんどゆっくり、わが邸にてご披露いただきたいものですな。ふふ」

 ウィリオンの脚に力が入る。
 踏み切る様子を見せた。
 同時にニアナが顔を上げる。