通されたのは大広間ではなかった。
 
 王の居室というものは王宮の上層階に位置するのが通例だが、そこでもない。
 一階の奥、大広間に近い貴賓室のあたりが改装され、王が日常を過ごす居室として利用されているということだった。念を入れた改修だったのだろう。日の当たりずらい場所ではあるが、陰鬱な印象など少しもない。照明の工夫がよく行き届いた清浄な空間だった。

 その一室の長椅子に、いま、ウィリオンとニアナは並んで腰を下ろしている。
 いくつかの絵が飾られたそう広くはない部屋で、応接用の卓と椅子が置かれているだけの簡素な空間である。ニアナにはなんのための場所か見当もつかなかったが、王の居室のふたつ手前、いわゆる謁見室という場所だった。

 ニアナはしおらしく控えているが、時おり調度類や壁の絵画に目をやったり、あるいは隣のウィリオンの様子を盗み見たりしている。
 国王に拝謁するのだ。緊張しないわけがない。が、あまりに現実感が薄い。そもそも縁もゆかりもなかった公爵家に嫁ぐこととなった時点から、なにやら架空の物語のなかにいるかのように実感がないのだ。隣で澄ましている冷血公爵の、誰も知らない裏の顔も含めて、自分をとりまく全員がなにかの芝居をしているように思えてならないのである。

 それに、この部屋。広大な国土を治める王が王宮の一階に暮らすのか、娼館の酒場とそう変わらない広さの部屋だとニアナは感想を持っており、それもまたこれから国王に会うのだという緊張を打ち消す方向に働いていた。

 「陛下はしばらく患っておられるのです。昨年あたりからお足元もお辛いとのことで、居室を一階に移されました」

 ニアナの視線に気づいたのだろう、さきほど二人を迎えに来た執事が誰に言うともなく説明をはじめた。彼は二人に長椅子に座るよう案内し、自身は壁際に控えていたのだ。
 言われて、ニアナはびくっと座面から指一本ぶんほど飛び上がった。

 「あっ、し、失礼いたしました……」
 「いいえ。初めて来られた方はよくそのことをお尋ねになります。ああ、それと。その際の改装をお引き受けになったのはローディルダム公でいらっしゃいます」
 「えっ」

 ニアナは横を見る。相変わらず凍てついた表情のままで銀の髪の奥から視線を正面に投げているウィリオンは、やはり一切の反応を示さない。ニアナはそれでも夫の横顔をじっと眺めて、こんな人でも大工道具を手にとることがあるのだなあと感心をしているのである。

 「もちろん、公が実際に腕を振るわれたわけではございません。王を支える筆頭家として、改装にかかるすべてのご費用を負担されたのです」

 執事はニアナの心を読むかのように解説を加えた。ニアナは内心で赤面したが、そんなことはわかっていましたよというようにゆるりと頷いてみせる。
 と、執事はわずかに微笑を浮かべ、ウィリオンの方へ顔を振り向けた。

 「陛下の、公……ウィリオン様へのご信頼は、本当に篤くていらっしゃるのです。先代様、そして兄上様に置かれてもそうでしたが、ウィリオン様ご自身を、殊の外、重んじておられます。ですから、第一王子を公へ……」
 「婚儀のご報告である」

 執事の言葉を遮るように鋭く言葉を発したのはウィリオンである。視線は正面から動かさぬまま、ただ、目を細めている。

 「過去を議論するためではない」
 「……失礼いたしました。お許しくださいませ」

 執事は恐縮したように俯き、沈黙した。が、その直前にわずかに思わし気な視線をウィリオンに投げたのを、ニアナは目撃している。
 執事は、第一王子を公へ、と言いかけ、それをウィリオンは遮った。ニアナに聞かせたくなかったのだろう。もちろん何のことか、彼女には分かっていない。またひとつ夫の隠し事が増えた、とニアナは不満を抱いた。

 と、正面の扉の向こうで物音がした。執事が扉に歩み寄る。ウィリオンは立ち上がった。やはり何の助言もしてくれないが、ニアナもならう。

 「……おお、おお。ウィリオン。久しいな」

 静かに開かれた扉から現れたのは、紫紺の室内着に身を包んだ老人だった。同じ色の騎士の装束を身に着けた男がその脇で歩行の補佐をしている。
 老人……いや、せいぜい六十前、とニアナは見て取った。ただ、異様にやつれている。肌も荒れて灰褐色に沈着している。赤毛の髪もまばらとなっており、そのことが第一印象をひどく高齢に見せていると彼女は判断した。
 ウィリオンが一歩出て膝をつき、首を垂れる。ニアナはその斜め後ろで裾を摘み、深く礼をとった。
 老人は細く骨ばった腕を裾のなかからウィリオンに向けて伸ばし、よろよろとわずかずつ歩み寄ってきた。ウィリオンの前に立ち、その肩に手を置く。親しみの表現でもあろうし、そうしないと立っていられないようにも思われた。
 
 「息災だったか。変わりはないか。ずっと連絡も寄こさずにいたのに、たまに使いが来たと思えば、婚儀とな。はっはは、まったくお前らしいの」
 「……恐れ入ります」

 短く答えたウィリオンの声には、だが、家中の者に向けるような冷たさは宿っていなかった。長い前髪が傾倒した額を隠しているが、その横顔に微笑が浮かんでいるようにニアナは感じた。
 そのニアナに顔を振り向け、老人はくしゃりと目元に皺を寄せた。

 「可愛らしいお嬢さんだ。紹介してくれないか。最近はめっきり社交の場にも出ておらぬでな、ご令嬢たちの顔もよう覚えておらぬのだよ」
 「は」

 ウィリオンは顔を上げ、立ち上がった。相変わらずニアナの手をとろうともしなかったが、彼女の方も慣れてきた。落としていた腰をあげ、前に手を重ねて俯いて紹介を待つ。

 「ナビリア子爵家より迎えました、ニアナです」
 「……ニアナと申します。おん前にてご尊顔を拝し奉ること、身に余る誉《ほまれ》にございます」

 夫の声に合わせ、ニアナは改めて丁重なカーテシーを作り、わきまえた挨拶を澱みなく綴ってみせた。隣のウィリオンがわずかに眉を上げる。意外だったのかもしれない。母の教育による成果と、娼館での冗談混じりの大げさな儀礼の折衷だったが、形にはなっていた。
 老人は満足そうに頷き、苦労しながら背筋を伸ばした。

 「ファールハイム三世だ。ローディルダム公爵家、あなたの夫には世話になっている。わたしも、この息子も」

 老人、国王ファールハイム三世は、斜め後ろで自分を支えるように手を添えている若い男を示した。くるくると巻いた癖毛は国王と同じ赤茶色。立派な体格と裏腹な、どこか子供っぽさの残る顔をほころばせて、男はこくりと頷いてみせた。

 「第一王子、アルノルドです」

 年齢は自分より少し上か、とニアナは印象した。国王とはずいぶん年が離れている。ただ、この国の王は長く世継ぎに恵まれなかったという話は有名であり、市井なり花街でもよほどの頓珍漢でない限りは常識として知っていたから、彼女にも特段の驚きはない。
 そして、その噂はもうひとつの逸話とひと組みになり、この国では口さがない街の者の酒の肴の定番となっていたのである。

 第一王子は、呪われている。
 噂話はたいてい、その言葉から始められるのであった。