朝食のあと、部屋で休んでいるニアナのもとに侍女たちが現れた。
 いまだ二日酔いのとれないニアナは長椅子に寝ころんでいたのだが、扉を叩く音で身体を起こし、彼女らを迎えた。
 またも先頭は侍女長。なにやら涙ぐんでいるのも朝と同様だ。

 「お見事でございました」
 「は、はあ」

 深々と礼をとる侍女長、居並ぶ侍女たち。だがニアナにはなんのことか分からず、引き攣るように口角を持ち上げながらかくりと頷くことしかできない。
 そんな彼女に歩み寄り、侍女長は傍に両膝を立てた。両手でニアナの手をとり、押し戴くような仕草をしてみせる。

 「ご朝食の席でのお振舞、あれは旦那様のご注意をご自身に向けさせるためのものでございますね。旦那様とご一緒の席、お皿がお進みにならないのも無理はございません。ですがそれを料理人や給仕たちの失態にしないため、奥様はあえて、あのような……こほん、無作法をなさった。そうではございませんか」

 そうではございません、と言うべきだったが、ニアナはあいまいに微笑した。酒のために胸の悪いところに無理やり料理を詰め込んだためです、娼館でもあんな感じでしたからいつものことです、とは説明できなかった。

 「ああ、やはり……なんと思慮深く、お優しいお方でございましょう。このヘレーネ、侍女長として使用人を代表してお礼を申し上げます」
 「あ、いえ、そんな……」
 「そうして、旦那様の嘲笑。みなで話したのです。あれは奥様に対しての、自分に対してそんな態度をとるのか、というお怒りのご表現だったのだろうと。それでも奥様は、旦那様にまっすぐに視線を返された。罰するなら自分を、この場の誰にも手を出すな、というご意思を示されたに相違ありません」

 まったくの相違であった。
 侍女長の名はヘレーネというのだな、とニアナは認識するのと同時に、この初老の侍女もまたウィリオンと同様にやっかいな人種のひとりなのだと深く理解した。

 「そ、そんなこと……」
 「ああ、いけません。感銘のあまり長話となるところでした」

 そういい、ヘレーネは立ち上がって後ろの侍女たちに目配せした。全員がさっと走り、失礼します、とニアナを介添えして立ち上がらせ、くるくると身ぐるみを剥いだ。ニアナはされるままだ。
 その様子を見つめながら、ヘレーネはやや沈んだ声を出す。

 「国王陛下へのご挨拶でございます」
 「え」
 「王宮へ向かう、と、ご朝食の席で旦那様がおっしゃいましたね。公爵家として婚儀がなった旨を王宮で言上するのです。そのうえで陛下にお認めいただくことで、初めて旦那様と奥様は正式な夫婦となられるのです」
 「あ、な、なるほど……」
 「……よろしゅうございますね。今朝ほどからのご様子、もうご覚悟はお決めになられているとは存じますが、今日を過ぎれば、もう戻ることは叶いません。旦那様もいよいよ、その……ご本性を、お出しになられましょう」

 本性。
 その言葉を聞いてニアナの脳裏に浮かぶのは、背の凄惨なまでに美しい薔薇と狼の刺青、ざっかけない軽口、そうして、ニアナには見せた、本心からの苛立ち。
 俺の世界に来るな、帰れ。
 ぎゅっとこぶしを握り、ニアナは今度は決然と頷いた。
 それを見るヘレーネの目には本日いくどめかの涙が浮かんでいるのである。

 ◇◇◇

 街道を馬車の列が進んでゆく。

 ローディルダム公の領地は王都の北端に接しており、そして邸は領内の南端であった。馬車でもそう時間を要さず王都の中心部まで到達する。
 いま、車列は王都から公爵領内に伸びる街道を南に向けて進んでいた。そのままずっと進めばちょうど王宮周辺に到着する。そこが彼らの目的地であった。
 馬車は三両。黒を基調とした外装に金の家紋を刻んだ大型の馬車と、その前後にやや小ぶりなものが二両連なっている。先頭には衛士たち、後端には執事や侍女らが搭乗している。中央の大型の馬車はもちろん、彼らの主、ローディルダム公ウィリオンとその妻ニアナのものだ。
 
 車列は王都と公爵領のちょうど境界にあたる、のどやかな小川を渡ろうとしている。大型の馬車の車輪が石橋に差し掛かり、がたんと揺れた。
 それをきっかけにして、ニアナは声を出した。
 
 「……あの……」

 ニアナは侍女たちに着付けられた真珠色のドレスに身を包み、馬車の前方側に後ろ向きに着席していた。正面はローディルダム公ウィリオン。朝食の場に現れたときのままのいでたち、純白の詰襟服だ。悠然と足を組み、視線を窓の外に置いている。木立からこぼれた光が彼の端正な横顔を時おり照らしている。
 声を受けて、彼はちらと視線をニアナの方に送った。が、何も言わない。しばらくするとまた車窓に流れる風景に目を戻す。
 はああ、とニアナは嘆息した。
 
 邸を出発してから十度ほど試みたことを、改めていまニアナは試みているのだ。
 といって、大それたことでもない。会話の糸口を探っているだけだ。
 昨夜のことを詫びたい。詫びるべきことがたくさんある。その上で、彼が考えていることが知りたい。昼と夜の姿を使い分けているのはなぜか。どちらが本当の姿なのか。なんのためにそんなことをしているのか。
 あるいは、自分のことも伝えたい。生い立ち、娼館のこと、育ててくれたみなのこと。大事なことを共有したかった。かりそめにも、夫婦となろうという二人ではないか。
 とにかく、会話がしたい。

 ヘレーネたちに見送られて馬車に乗り込んだ彼女は、ウィリオンと二人きりとなったことを喜び、さっそく小声で話しかけたのだ。が、ウィリオンは返事をしようとしなかった。何を言ってもわずかに、ふ、と鼻を鳴らすだけで、声を出さない。

 その後も幾度かの機会を見つけて、ニアナは会話を仕掛け、そのすべてに失敗した。やがて王都の中心部に入り、左右に賑やかな街並みが見られるようになると、あれはなんだ、これも珍しい、と、情景に関する感想を盛んに送信した。先ほどは触れようとした話題が悪かったのだと判断したのだ。
 だがどれにも、冷血公爵は反応しようとしなかった。

 はじめ意気消沈していたニアナは、徐々に血液の温度を上げていった。
 王宮が見え、迎えの騎士たちが現れて、馬車の列を誘導して城門をくぐろうという頃には、彼女の眉は逆立っていた。口は山形に曲げられ、頬は紅潮していた。膝に突き立てているのは握りしめたこぶしである。

 到着し、前後の馬車から降りた公爵家の衛士らが周囲を囲むなか、ウィリオンは馬車を降りた。後からニアナが降りようとしていたが、手を差し伸べるでもなく、彼女を待つことすらせず、すたすたと歩いて行ってしまう。
 侍従の手で昇降台が置かれるやいなや、ニアナはぽんと飛ぶように降り立った。ドレスの裾がふわりと浮き上がる。同行した者も、城の者も、全員が顔を逸らし、見なかったこととした。
 城の騎士らが居並んで敬礼をするなか、ウィリオンはずんずんと城の奥に向けて進んでいる。ニアナは小走りにそれを追った。

 「……ちょっと」

 斜め後ろに追いつき、ごくごく小さな声を投げる。騎士たちにも聞き取れないであろう音量だったが、やはり冷血の夫は振り向きもしない。

 「ひどいじゃないですか、仮にも婚姻の……」

 が、夫はさらに歩速を速めた。ニアナも小走りを再開する。城の案内の者はすでに後ろに置いて行かれている。重厚な絨毯が引かれた王宮の内門、王の紋章が下げられた石造りの大回廊で、上位貴族の夫婦が脚力を競うありさまは異様としか表現のしようがなかった。

 城内に入る。堅牢な鉄門が引き開かれ、踏み入ったウィリオンは、間を置かずにさっと横合いの通路に歩を進めた。案内の者もいないのに、勝手知ったる王宮内部、という様子であった。
 ニアナも自然とそれについてゆく。ウィリオンはやがて右手に現れた小さな扉を開けた。するりと入り、ニアナも続く。その後ろで扉がばたんと乱暴に閉められる。
 閉めるや否や、ウィリオンはニアナの肩を掴み、顔を寄せ、抑えた声で叫んだ。

 「あああもう! うっせえんだよあんた! ちっとは黙ってるってことができねえのかよこのお喋り女!」
 「なんですって!」

 ニアナは掴まれるままに自ら顔を近づけ、眉を逆立てて、同じ音量と勢いで言い返した。互いに鼻がつきそうな距離である。

 「お喋りもなにも、一言も答えてくれなかったじゃないですか! なんで口を利いてくれないんですか!」
 「ばっかやろう、俺だって喋りてえんだ! だけどボロが出ちまったら終いだろうが! 俺ぁそんなに器用じゃねえんだ、ちっと気ぃ抜いたらすぐに地が出ちまうんだよ! 誰かに聞かれでもしてみろ、なにもかもおじゃんだ!」
 「なにがどうおじゃんになるんですか! そんなこともぜんぜん教えてくれないのに、黙ってろって酷くないですか! 今日だって陛下にご挨拶なんて、あなたからは一言も説明なかったし、それに、それに、馬車を降りるときも手も貸してくれなくて、朝ごはんのときだってあんなにわたしのこと笑って! 侍女さんたちから聞きましたよ、なんですかお皿を睨むって気持ち悪いです!」
 「あああもう、言ってることが滅茶苦茶だっつうの! いいか、口をきかないのも馬車で手を貸さなかったのも俺の体面、印象を壊さねえためだよ! 皿はよ、その、なんだ、作法を間違えてねえか不安なんだよ! わかんだろそれくらい!」
 「わかるわけないじゃないですか! 体面体面って、だから何のための体面かって言ってんです!」
 「ぐあああ、だから呑み込みの悪いお嬢ちゃんは嫌だっつうんだよ」
 「ちょっと、もういっぺん言って……」

 ニアナの手があやうくウィリオンの胸ぐらに伸びそうになったとき、ごんごんと扉を叩く音が聞こえた。
 二人ともこぶしひとつ分ほども飛び上がったあとで、互いに迅速に距離を置いた。同時に息を吸い込んで、吐く。その動作でウィリオンは冷血を取り戻したし、ニアナはわきまえた花嫁の表情を装備した。
 ちらと互いを見て、互いに思っている。
 馴れてるな、こういう状況に。ろくなものじゃない。

 「……ああ、よかった、こちらにおられたのですね」

 顔を出した若い男は大汗をかいていた。執事風の服装をしている。王の側勤めと思われた。迎えに出た者から二人が行方知れずになったと聞いて探し回っていたに違いない。
 これに対してウィリオンは冷ややかな目線を返しながら、一言で済ませた。

 「妻が、腹痛でな」

 厠を探したのだ、という言葉を省略してみせた。
 執事は大きく頷いた。ニアナは控えめに恥じらいを見せつつ、わずかな隙にウィリオンに喉笛を噛み切らんばかりの視線を送ってみせた。