「演習開始。一番手、雪城グループ、位置についてください」
先生の合図とともに、ホールに重々しい緊張が広がる。
厨房のカウンターに用意されているのは、メインディッシュが乗った重厚な銀のトレイ。
立ち上る湯気は、料理が最高に熱々である証拠だ。
「……いくぜ、お嬢。しっかり見てな」
「ええ、信じてるわ!」
嵐くんがトレイを持ち上げた。その瞬間、彼の雰囲気がガラリと変わった。
猫背だった背筋がピンと伸びる。
鋭い視線が、ゴールである私のテーブルを確かに見据えた。
今よ、嵐くん。
スタート!
ドォッ! と床を蹴る音がサロンに響いた。
嵐くんが、重い銀食器を抱えたまま、爆発的なスピードで走り出した。
「きゃっ!? な、何あのスピード!?」
「あんなに飛ばしたら、中身がぐちゃぐちゃになってしまいますわ!」
観客席から悲鳴が上がる。でも、私は見逃さなかった。
あれだけのスピードで走っているのに、嵐くんの上半身が、まるで定規で引いたように一ミリも上下していない。
すごい……! 筋肉をガチガチに固めるんじゃない。脚の衝撃を腰で、腕で、指先で……全身を使って完璧に吸収してる!
曲がり角に差し掛かる。普通なら、ここでスピードを落とす。でも嵐くんは落とさない。
遠心力で皿が滑りそうになった、その瞬間。彼の指先がスッと動いた。トランプタワーを積み上げたときの、あの繊細な指先。
ほんのわずかな動きで、皿の傾きを完璧に制御する。
そして――。
ゴールの私の目の前で、嵐くんがドンッ!と力強く踏み込んだ。
最後……! 最大の衝撃がくる!
誰もが、その急ブレーキで料理が吹っ飛ぶと思った。
けれど、嵐くんは自分の巨体をクッションのようにしならせ、トレイを持つ手だけを空中に残すようにして、衝撃を完全にゼロにしてみせた。
カチャ……。
信じられないくらい小さな、心地いい音。
私の目の前に、銀のドームカバーに覆われた皿が、寸分の狂いもなく置かれた。
「……お待たせしました、お嬢様。メインディッシュです」
汗を一筋流しながら、嵐くんが不敵に笑う。
私が震える手でカバーを開けると、そこには――ソースの一滴も散っていない、最高級のステーキが、まだジュウジュウと音を立てて鎮座していた。
「…………完璧。完璧だわ、嵐くん!」
私は、ナイフとフォークを手に取った。
令嬢としての完璧な作法で、一口、口に運ぶ。
……あ、熱い! でも、すごく……美味しい!
料理の熱さは、嵐くんが私のために必死に走ってくれた、心の熱さそのものだった。
私は顔を上げ、学園中の誰もが見惚れるような、最高に幸せな微笑みを浮かべた。
「とっても美味しいわ。……世界一の執事が運んでくれた料理なんですもの!」
しかし、掲示板に貼り出された結果は、残酷だった。
1位:鳳凰寺椿・一条グループ……98点
2位:雪城すず・獅子丸嵐グループ……95点
……っ、負けた……!
私は唇を噛んで、掲示板の数字を見上げた。
嵐くんのタイムは一条くんよりずっと速かったし、料理の温度も完璧だった。けれど、審査員の講評は厳しかった。
「獅子丸くんの動きは力強く見事だが、伝統的な『執事の優雅さ』という点では、一条くんの洗練された所作に一歩及ばなかったね」
「オーッホッホッホ! 」
椿さんの高笑いがサロンに響き渡る。
「見ましたか、雪城さん。あんな野蛮な走り方、とても『執事』とは呼べませんわ。我が家の一条こそが、白薔薇の正解なんですのよ!」
取り巻きたちの笑い声が重なる。
悔しくて、視界がじんわりと滲んだ。
私の分析や育成は間違っていなかったはずなのに。嵐くんは、あんなに頑張ってくれたのに……!
うつむく私の隣で、嵐くんが拳を固く握りしめているのが見えた。
「……悪ぃ、お嬢。俺のせいで」
「そんなことない! 嵐くんは最高だったわ、私が――」
「……獅子丸くん」
不意に声がした。
顔を上げると、作法担当のベテラン講師が私たちの前に立っていた。
学園で一番厳しいことで有名な先生だ。
またお説教か、と身構えた瞬間、先生は静かに口を開いた。
「君の給仕は型破りだった。面白かったが、それは白薔薇の伝統には沿っていないのかもしれない。……だが、あんなに熱意の伝わる料理は初めてだ」
私は思わず息をのむ。
「……雪城さん。君が今日、この会場で一番幸せそうに笑っていた。執事にとってそれ以上の正解はない。今回は点数には反映できなかったが……見事だったよ」
先生はそれだけ言うと、背を向けて去っていった。
「……先生……」
会場を出て、夕暮れの廊下。
嵐くんが、突然壁をドンッ! と叩いた。
「……クソっ! 負けんだな、やっぱり。あんなに練習したのに!」
その声は、今までの「どうせ俺なんて」という投げやりなものじゃなかった。
本気で勝ちにいったからこそ溢れ出した、本物の悔しさ。
私は彼を見つめ、迷わず言葉を紡いだ。
「嵐くん。今のその悔しさは、ただの感情じゃないわ」
「あぁ?……慰めならいらねぇよ」
「違うわ。その悔しさは、理想の自分と今の自分の間にある、わずかな隙間に気づいた証拠よ。つまり、あなたの限界値が、今ぐんと上がったってこと!」
私は嵐くんの太い腕をぐいと掴み、彼の顔を覗き込んだ。
「今の悔しさを、全部糧にしなさい。最強の守護神執事になるためのストーリーには、必要不可欠な感情よ」
今日の嵐くんの姿が、頭の中に浮かぶ。
全力で走った姿。必死に料理を守った姿。
私は自然と微笑んでいた。
「結果としては2位だったかもしれない。でもね、嵐くん。あなたは今日、学園の誰よりも熱く、そして強かった。筋肉の使い方も、地面をける角度も、私の想像を上回るほど完璧で……私の目には、最高にかっこいい執事に見えたわ!」
嵐くんは驚いたように目を見開いたあと、ふっと顔を赤らめて照れくさそうに笑った。
その顔に、もう暗い影なんて残っていなかった。
「お嬢、次は絶対負けねーからな。あの一条とかいうスカした奴にも……お嬢をバカにした奴ら全員にも!」
嵐くんの瞳には、今までになかった本気の火が灯っていた。
「お嬢の『育成オタク』の力、もうちょっと信じてやる。だから……次もスパルタで頼むぜ、お嬢様!」
ぶっきらぼうに差し出された、大きな手。
私はその手をギュッと握り返した。
「ええ、もちろんよ! 覚悟しなさい、次はもっと過酷なんだから!」
負けたはずなのに、私の胸はスカッとした青空みたいに晴れ渡っていた。
一歩ずつ。でも確実に、私たちの逆転劇は動き出している!
先生の合図とともに、ホールに重々しい緊張が広がる。
厨房のカウンターに用意されているのは、メインディッシュが乗った重厚な銀のトレイ。
立ち上る湯気は、料理が最高に熱々である証拠だ。
「……いくぜ、お嬢。しっかり見てな」
「ええ、信じてるわ!」
嵐くんがトレイを持ち上げた。その瞬間、彼の雰囲気がガラリと変わった。
猫背だった背筋がピンと伸びる。
鋭い視線が、ゴールである私のテーブルを確かに見据えた。
今よ、嵐くん。
スタート!
ドォッ! と床を蹴る音がサロンに響いた。
嵐くんが、重い銀食器を抱えたまま、爆発的なスピードで走り出した。
「きゃっ!? な、何あのスピード!?」
「あんなに飛ばしたら、中身がぐちゃぐちゃになってしまいますわ!」
観客席から悲鳴が上がる。でも、私は見逃さなかった。
あれだけのスピードで走っているのに、嵐くんの上半身が、まるで定規で引いたように一ミリも上下していない。
すごい……! 筋肉をガチガチに固めるんじゃない。脚の衝撃を腰で、腕で、指先で……全身を使って完璧に吸収してる!
曲がり角に差し掛かる。普通なら、ここでスピードを落とす。でも嵐くんは落とさない。
遠心力で皿が滑りそうになった、その瞬間。彼の指先がスッと動いた。トランプタワーを積み上げたときの、あの繊細な指先。
ほんのわずかな動きで、皿の傾きを完璧に制御する。
そして――。
ゴールの私の目の前で、嵐くんがドンッ!と力強く踏み込んだ。
最後……! 最大の衝撃がくる!
誰もが、その急ブレーキで料理が吹っ飛ぶと思った。
けれど、嵐くんは自分の巨体をクッションのようにしならせ、トレイを持つ手だけを空中に残すようにして、衝撃を完全にゼロにしてみせた。
カチャ……。
信じられないくらい小さな、心地いい音。
私の目の前に、銀のドームカバーに覆われた皿が、寸分の狂いもなく置かれた。
「……お待たせしました、お嬢様。メインディッシュです」
汗を一筋流しながら、嵐くんが不敵に笑う。
私が震える手でカバーを開けると、そこには――ソースの一滴も散っていない、最高級のステーキが、まだジュウジュウと音を立てて鎮座していた。
「…………完璧。完璧だわ、嵐くん!」
私は、ナイフとフォークを手に取った。
令嬢としての完璧な作法で、一口、口に運ぶ。
……あ、熱い! でも、すごく……美味しい!
料理の熱さは、嵐くんが私のために必死に走ってくれた、心の熱さそのものだった。
私は顔を上げ、学園中の誰もが見惚れるような、最高に幸せな微笑みを浮かべた。
「とっても美味しいわ。……世界一の執事が運んでくれた料理なんですもの!」
しかし、掲示板に貼り出された結果は、残酷だった。
1位:鳳凰寺椿・一条グループ……98点
2位:雪城すず・獅子丸嵐グループ……95点
……っ、負けた……!
私は唇を噛んで、掲示板の数字を見上げた。
嵐くんのタイムは一条くんよりずっと速かったし、料理の温度も完璧だった。けれど、審査員の講評は厳しかった。
「獅子丸くんの動きは力強く見事だが、伝統的な『執事の優雅さ』という点では、一条くんの洗練された所作に一歩及ばなかったね」
「オーッホッホッホ! 」
椿さんの高笑いがサロンに響き渡る。
「見ましたか、雪城さん。あんな野蛮な走り方、とても『執事』とは呼べませんわ。我が家の一条こそが、白薔薇の正解なんですのよ!」
取り巻きたちの笑い声が重なる。
悔しくて、視界がじんわりと滲んだ。
私の分析や育成は間違っていなかったはずなのに。嵐くんは、あんなに頑張ってくれたのに……!
うつむく私の隣で、嵐くんが拳を固く握りしめているのが見えた。
「……悪ぃ、お嬢。俺のせいで」
「そんなことない! 嵐くんは最高だったわ、私が――」
「……獅子丸くん」
不意に声がした。
顔を上げると、作法担当のベテラン講師が私たちの前に立っていた。
学園で一番厳しいことで有名な先生だ。
またお説教か、と身構えた瞬間、先生は静かに口を開いた。
「君の給仕は型破りだった。面白かったが、それは白薔薇の伝統には沿っていないのかもしれない。……だが、あんなに熱意の伝わる料理は初めてだ」
私は思わず息をのむ。
「……雪城さん。君が今日、この会場で一番幸せそうに笑っていた。執事にとってそれ以上の正解はない。今回は点数には反映できなかったが……見事だったよ」
先生はそれだけ言うと、背を向けて去っていった。
「……先生……」
会場を出て、夕暮れの廊下。
嵐くんが、突然壁をドンッ! と叩いた。
「……クソっ! 負けんだな、やっぱり。あんなに練習したのに!」
その声は、今までの「どうせ俺なんて」という投げやりなものじゃなかった。
本気で勝ちにいったからこそ溢れ出した、本物の悔しさ。
私は彼を見つめ、迷わず言葉を紡いだ。
「嵐くん。今のその悔しさは、ただの感情じゃないわ」
「あぁ?……慰めならいらねぇよ」
「違うわ。その悔しさは、理想の自分と今の自分の間にある、わずかな隙間に気づいた証拠よ。つまり、あなたの限界値が、今ぐんと上がったってこと!」
私は嵐くんの太い腕をぐいと掴み、彼の顔を覗き込んだ。
「今の悔しさを、全部糧にしなさい。最強の守護神執事になるためのストーリーには、必要不可欠な感情よ」
今日の嵐くんの姿が、頭の中に浮かぶ。
全力で走った姿。必死に料理を守った姿。
私は自然と微笑んでいた。
「結果としては2位だったかもしれない。でもね、嵐くん。あなたは今日、学園の誰よりも熱く、そして強かった。筋肉の使い方も、地面をける角度も、私の想像を上回るほど完璧で……私の目には、最高にかっこいい執事に見えたわ!」
嵐くんは驚いたように目を見開いたあと、ふっと顔を赤らめて照れくさそうに笑った。
その顔に、もう暗い影なんて残っていなかった。
「お嬢、次は絶対負けねーからな。あの一条とかいうスカした奴にも……お嬢をバカにした奴ら全員にも!」
嵐くんの瞳には、今までになかった本気の火が灯っていた。
「お嬢の『育成オタク』の力、もうちょっと信じてやる。だから……次もスパルタで頼むぜ、お嬢様!」
ぶっきらぼうに差し出された、大きな手。
私はその手をギュッと握り返した。
「ええ、もちろんよ! 覚悟しなさい、次はもっと過酷なんだから!」
負けたはずなのに、私の胸はスカッとした青空みたいに晴れ渡っていた。
一歩ずつ。でも確実に、私たちの逆転劇は動き出している!



