面接室の扉をノックした美咲は、一瞬、胸についたウサギの絵の存在を忘れていた。扉を開けて入室し、部屋の中央に座る3人の面接官に頭を下げた瞬間、彼女は再び、自分の胸に貼られた小さな紙の重みを感じた。
「高野さん、どうぞおかけください」
「はい、ありがとうございます」
面接官の一人に促され、美咲は椅子に腰かけた。心臓がバクバクと音を立てる。彼女は、内心で動揺しながらも、これまでの練習通り、淀みなく自己紹介を始めた。
「高野美咲と申します。本日は、貴社の最終面接の機会をいただき、大変光栄に思っております」
美咲は、心の中でひそかに覚悟を決めた。この絵について聞かれたら、正直に話そう。どうせ落ちるなら、せめて自分らしく、ありのままの自分を伝えよう。それは、たった5分間のエレベーターでの出来事が、美咲に与えた小さな勇気だった。
面接官の一人が、美咲の胸元に視線を向けた。彼女の表情は、一瞬だけ驚きに変わり、すぐに元の真面目な顔に戻った。美咲は、心臓がバクバクと音を立てるのを感じた。
「高野さんは、その…胸につけているものは何ですか?」
ついに来たか、と美咲は思った。
「はい。これは…先ほど、エレベーターでコーヒーをこぼしてしまいまして…」
美咲は、エレベーターでの出来事を簡潔に説明した。相手を焦らせたくない、迷惑をかけたくない。そんな美咲の気持ちとは裏腹に、面接官は興味津々の表情で彼女の話を聞いていた。
「なるほど…それでは、その絵は…」
「はい。エレベーターで居合わせた方が、私が困っているのを見て、これを貼ってくださいました」
美咲は、顔を少し赤らめながらも、正直に話した。面接官たちは、顔を見合わせ、静かに微笑んだ。
「その方は、きっと、高野さんのことを助けてあげたかったのでしょうね」
「はい。とても親切な方でした」
美咲は、その言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
面接は、その後もスムーズに進んだ。美咲は、これまで準備してきた通り、自身の長所や入社後の目標を語った。しかし、以前とは少し違った。頭の中で、エレベーターでの彼の言葉がこだましていた。「自分らしさも出せるし」。その言葉を思い出すたびに、美咲は、自分の言葉で、自分の思いを、正直に伝えようと決めた。
面接が終わり、美咲はエレベーターへと向かう。面接官に言われた言葉が、頭の中で何度も繰り返される。
「…その方は、きっと、高野さんのことを助けてあげたかったのでしょうね」
美咲は、エレベーターに乗って、手の中のスケッチブックを握りしめた。彼の電話番号が書かれた、たった一枚の紙。それだけで、彼女の心は、不思議と満たされていた。
その頃、悠馬は、カフェの一角で、スケッチブックに向かっていた。彼の顔には、微かに疲労の色が残っていたが、その表情はどこか晴れやかだった。
「ん…この方が、いい感じか」
彼は、新しいイラストに色を付けていた。それは、先ほどの美咲の姿を思い出しながら描いた、彼の新しい「作品」だった。
エレベーターでの5分間。彼が彼女に渡したものは、ただのウサギの絵ではなかった。それは、見知らぬ誰かの心を動かす、彼自身の**「優しさ」だった。そして、美咲が面接で得たものは、内定でも、完璧な自己評価でもなく、一歩踏み出す「勇気」**だった。
二人の出会いは、たった5分間の出来事だった。しかし、その短い時間の中で、お互いの人生に、確かな変化をもたらしていた。
美咲は、スマホを取り出し、スケッチブックに書かれた電話番号をタップした。
「悠馬さん…」
もう一度、彼の名前を、心の中で呟いた。

第二話完