午後2時58分。

スマホの画面に表示されたデジタル時計が、無情にも面接開始時刻の15分前を指している。
高層ビルの重厚な扉をくぐった美咲は、息が切れるのも構わず、エレベーターホールへと駆け込んだ。肺が痛い。喉がカラカラに乾き、心臓が耳元でドクドクと鳴り響いている。目の前にあったのは、ガラス張りの、まるで宇宙船のようなエレベーター。床から天井までが透明なガラスで、外の景色がどこまでも広がって見える。
そのエレベーターに、たった一人の男性が立っていた。美咲は、そのガラスの箱へ滑り込むように飛び乗った。
「っ…すみません!失礼します!」
必死に乱れた前髪を抑え、肩で息をする美咲に、男性は目を細めてにこやかに挨拶した。
「大丈夫ですか?」
その声に、美咲は顔を上げた。そこにいたのは、パーカーにジーンズ、スニーカーというカジュアルな服装の男性。しかし、その顔にはどこか疲労感が漂い、目の下にはうっすらとクマができていた。徹夜明けだろうか。もしかしてクリエイター系の仕事だろうか。そんなことを一瞬で考えてしまうほど、美咲は冷静だった。
「はい…すみません…っ」
美咲は、汗ばんだ手でエレベーターの階数ボタンに手を伸ばした。しかし、指先が触れる寸前、手が滑った。ガサッと、トートバッグに忍ばせていたコンビニのアイスコーヒーのカップが、彼女の指から離れて宙を舞った。
「あっ!」
短い悲鳴とともに、アイスコーヒーは勢いよく床に叩きつけられた。パシャッ!と嫌な音がして、カップの蓋が開き、濃い茶色の液体が飛び散る。そして、その一部が、白いブラウスの胸元に、じわりと、まるで生き物のように広がっていく。ひんやりとした冷たい感触が、直接肌に伝わってきて、美咲は思わず肩を震わせた。
「最悪だ…」
美咲は、目の前に広がる惨状に、思わず声が漏れた。真っ白なブラウスの胸元に、大きく広がった茶色いシミ。面接まであと15分。着替えなどあるはずもない。美咲の顔から、みるみる血の気が引いていく。額には、冷たい汗がじんわりと浮かび上がった。
「大丈夫ですか?ハンカチ…」
男性が、慣れた手つきでポケットからハンカチを取り出し、美咲に差し出した。しかし、シミはすでに繊維の奥深くまで浸透しており、ハンカチで拭けば拭くほど、輪郭がぼやけて広がるばかりだ。美咲は、もうどうすることもできない、という絶望感に襲われ、唇をきゅっと噛み締めた。目頭が熱くなる。
「どうしよう…もう…」
半泣きになりながら、美咲は男性に顔を向けた。男性は、そんな美咲の様子をじっと見つめ、ふっと優しい笑みを浮かべた。その表情は、まるで焦っている美咲をなだめるかのようだった。
「あのね、焦ってもいいことないよ。大丈夫、これがある」
そう言うと、男性は持っていたスケッチブックを広げ、そこから一枚の絵を躊躇なく破り取った。美咲が呆然と見つめる中、男性はその絵を、美咲のブラウスのシミの上に丁寧に貼り付けた。
そこに描かれていたのは、コーヒーカップから飛び出す、かわいらしいウサギの絵だった。
美咲は、一瞬の沈黙の後、思わず吹き出した。「え…これ…」
「どう?これなら、シミも気にならないでしょ?むしろ、この方がインパクトがあっていいかもね。自分らしさも出せるし」
男性は、悪戯っぽく美咲にウィンクした。美咲は、自分のブラウスについたウサギの絵と、目の前の男性を交互に見比べた。これまでの人生で、こんなにも型破りなことをされたのは初めてだった。そして、なぜだか、心の中に張り詰めていた緊張の糸が、少しだけ緩んだ気がした。全身の力がふっと抜けていくのを感じた。
「で、でも…面接官の方に…」
「大丈夫、大丈夫。きっと君の個性だと思ってくれるよ。それに、焦ってばかりいてもいい作品は描けないんだよね。だから、楽しむことにしたんだ、俺は」
男性は、そう言って自分のスケッチブックを指差した。スケッチブックには、カラフルで自由なタッチのイラストがびっしりと描かれている。彼の言う「作品」とは、絵のことなのだろう。美咲は、その絵を眺めながら、ふと自分の人生を振り返った。
ずっと、周りの期待に応えようと必死だった。優秀な大学に入り、難関な企業を目指し、常に完璧であろうと努力してきた。でも、本当の自分を表現することなんて、一度もしたことがなかったかもしれない。
「私…いつも周りの期待に応えようとしすぎて、本当の自分を見失いがちで…」
美咲は、気づけば、目の前の男性に自分の心を打ち明けていた。こんな風に話すのは、家族以外には初めてのことだった。男性は、うんうん、と頷きながら、美咲の話を静かに聞いてくれた。
その時、エレベーターのチャイムが鳴り、目的の階に到着したことを告げた。扉がゆっくりと開き始める。美咲は、ハッと我に返り、時間ギリギリであることに気づいた。
「あ…ありがとうございます!もう行かないと!」
美咲は慌てて男性にお礼を言い、エレベーターを降りようとした。
「あ、これ!」
男性が、美咲のブラウスについたウサギの絵を指さした。
「この絵、すごく素敵ですね」
美咲は、そう言うと、男性はにっこり微笑んだ。「君には、この絵が似合う」
美咲は、その言葉に胸が高鳴るのを感じた。そして、エレベーターの扉が完全に閉まる寸前、男性は持っていたスケッチブックを美咲に差し出した。
「これ、君にあげる。また会えたら、もっと面白い絵を描いてあげるよ」
美咲は、差し出されたスケッチブックを反射的に受け取った。手のひらに、厚みのある紙の感触が伝わってくる。そして、エレベーターの扉は、完全に閉まってしまった。
手の中に残されたスケッチブックの表紙には、ラフな文字で「悠馬(ゆうま)」というサインと、一本の電話番号が書かれていた。
美咲は、面接会場へと続く廊下を歩きながら、胸の高鳴りが止まらないのを感じた。ブラウスのウサギの絵と、手の中のスケッチブック。たった5分間の出来事が、彼女の人生に、今まで感じたことのない新しい風を吹き込んだ。
「また、会えるかな…」
美咲は、小さく呟き、面接会場のドアをノックした。

第一話完