* * *
ただただ、疲れていた。今日は舞台挨拶がなかった。たったそれだけのことでここまで安堵してしまうくらいには、疲れていた。雨が降りしきる中、ぼんやりとした思考で帰路につく。そんな木曜日だった。金曜公開で初日の午後から舞台挨拶に立った。マシだったのはその初回だけだった。
日曜の都内数か所での舞台挨拶はとにかく距離が近くて、そして会話が噛み合わなかったことに疲労した。怜花のアドバイス通り作品の話をしていても、すぐに本業の声優はすごいだのなんだの、わざとらしく持ち上げるような発言を上目遣いでしてくることに辟易した。しかしその感情をあの場で出すことは、仕事上できなかった。それをわかっておそらくしているであろう彼女のことは、益々苦手になった。
最悪だったのは月曜だった。午前の北海道行きの便が同じで、コートの裾を引かれたと思って振り返ったら彼女がそこにいた。『同じ便ですか?嬉しい!待ってる間、お話ししましょう!』と一切拒絶が許されず、九重がいてくれたにも関わらず、彼女はずっと自分に言葉を投げかけ続けた。舞台挨拶が始まる前から削がれすぎていた。その夜は北海道に宿泊し、ちょっとした食事会が開かれた。それ自体は仕方がなかったが、彼女は断固として隣からは動かなかった。服についた居酒屋特有のタバコの臭いなんて気にならないくらい、彼女の香水がずっと鼻に残って、ホテルでシャワーを浴びてもなお消えずに残るその記憶に、目を閉じても眠気が来ず、思わず怜花に連絡をしてしまった。
『遅くにごめん、まだ起きてたりする?』
たった一言、それだけ送った。すると着信が返ってきた。
『起きてるよ。北海道はどう?寒さ、大丈夫だった?』
その柔らかい声のおかげで、怜花の香りの記憶が戻ってくる。目元がじわっと濡れた気がして、スマートフォンを耳にあてながら目を閉じた。
「…ん、大丈夫だった。そんなに外、出てないし。」
『ニュースで寒波がって見たから飛行機とか大丈夫だったかなって思って。美味しいもの、食べれた?』
「うん。昼は味噌バターラーメンにした。」
『美味しそう!北海道って随分前に1回行ったっきりだなぁ。』
「…いつか、一緒に行く?」
『え?』
「旅行、したいな。したことないね、そういえば。」
『言われてみればそうだね。なんていうか、その、…お家でまったりすることに慣れちゃってる、からかな。旅行って発想がなかった。』
「だね。ってかごめん、こんなくだらない話して。普通に仕事してて疲れてるでしょ、怜花。」
『律に比べたら全然だよ。長距離移動して、お客さんの前で話して、また移動するんでしょ?大丈夫かなって気になってた。』
大丈夫なのか、心配していい立場なのか自信がない、と言っていた怜花はもういない。まっすぐに響く優しさが、律の喉の奥をまたきゅっと苦しくさせた。
ただただ、疲れていた。今日は舞台挨拶がなかった。たったそれだけのことでここまで安堵してしまうくらいには、疲れていた。雨が降りしきる中、ぼんやりとした思考で帰路につく。そんな木曜日だった。金曜公開で初日の午後から舞台挨拶に立った。マシだったのはその初回だけだった。
日曜の都内数か所での舞台挨拶はとにかく距離が近くて、そして会話が噛み合わなかったことに疲労した。怜花のアドバイス通り作品の話をしていても、すぐに本業の声優はすごいだのなんだの、わざとらしく持ち上げるような発言を上目遣いでしてくることに辟易した。しかしその感情をあの場で出すことは、仕事上できなかった。それをわかっておそらくしているであろう彼女のことは、益々苦手になった。
最悪だったのは月曜だった。午前の北海道行きの便が同じで、コートの裾を引かれたと思って振り返ったら彼女がそこにいた。『同じ便ですか?嬉しい!待ってる間、お話ししましょう!』と一切拒絶が許されず、九重がいてくれたにも関わらず、彼女はずっと自分に言葉を投げかけ続けた。舞台挨拶が始まる前から削がれすぎていた。その夜は北海道に宿泊し、ちょっとした食事会が開かれた。それ自体は仕方がなかったが、彼女は断固として隣からは動かなかった。服についた居酒屋特有のタバコの臭いなんて気にならないくらい、彼女の香水がずっと鼻に残って、ホテルでシャワーを浴びてもなお消えずに残るその記憶に、目を閉じても眠気が来ず、思わず怜花に連絡をしてしまった。
『遅くにごめん、まだ起きてたりする?』
たった一言、それだけ送った。すると着信が返ってきた。
『起きてるよ。北海道はどう?寒さ、大丈夫だった?』
その柔らかい声のおかげで、怜花の香りの記憶が戻ってくる。目元がじわっと濡れた気がして、スマートフォンを耳にあてながら目を閉じた。
「…ん、大丈夫だった。そんなに外、出てないし。」
『ニュースで寒波がって見たから飛行機とか大丈夫だったかなって思って。美味しいもの、食べれた?』
「うん。昼は味噌バターラーメンにした。」
『美味しそう!北海道って随分前に1回行ったっきりだなぁ。』
「…いつか、一緒に行く?」
『え?』
「旅行、したいな。したことないね、そういえば。」
『言われてみればそうだね。なんていうか、その、…お家でまったりすることに慣れちゃってる、からかな。旅行って発想がなかった。』
「だね。ってかごめん、こんなくだらない話して。普通に仕事してて疲れてるでしょ、怜花。」
『律に比べたら全然だよ。長距離移動して、お客さんの前で話して、また移動するんでしょ?大丈夫かなって気になってた。』
大丈夫なのか、心配していい立場なのか自信がない、と言っていた怜花はもういない。まっすぐに響く優しさが、律の喉の奥をまたきゅっと苦しくさせた。



