その日、部署の空気はどこか張りつめていた。
嵩の転勤が“ほぼ確定”ではなく、“事実として共有されたあと”の、独特の静けさ。誰もが知っているのに、誰も正面から触れない──そんな薄い膜が、フロア全体を覆っていた。
その膜を、ためらいなく破ったのが瑠奈だった。
「嵩さんって、向こう行く気なんですよね?」
昼休み前、給湯室から戻った直後。
あまりに唐突で、あまりに率直な一言に、周囲の手が一斉に止まった。
「……瑠奈」
美鈴が低く名前を呼ぶ。制止のつもりだったのだろう。
けれど瑠奈は、悪びれもしなかった。
「だって、みんな気にしてるじゃないですか。行くのか、残るのか。本人だけが黙ってるの、変じゃないですか?」
視線が、嵩に集まる。
同情でも好奇心でもない。ただ、“答え”を待つ目。
嵩は一瞬、言葉を探した。
ここではまだ言えない。朱里にも、まだ──。
「……正式な話は、これからだ」
それだけ告げると、瑠奈は小さく首を傾げた。
「じゃあ、朱里さんには?」
空気が、音を立てて沈んだ。
美鈴が一歩前に出る。
「それは──」
「まだだ」
嵩が、静かに遮った。
瑠奈は数秒、嵩を見つめてから、ふっと息を吐いた。
「そっか。じゃあ聞かないです。でも──」
彼女は少しだけ、声を落とした。
「決めるの、嵩さん一人じゃないと思います」
それだけ言うと、何事もなかったように席に戻っていった。
残された空気は、さっきまでとは明らかに違っていた。
沈黙の質が変わった。
“避ける沈黙”から、“向き合う前の沈黙”へ。
嵩はデスクに戻りながら、朱里の背中を見た。
彼女はまだ何も知らない。
けれど、きっともう──何かを感じ取っている。
今日か、明日か。
このままでは、いられない。
嵩は、決意を胸の奥で確かめるように、そっと息を吸った。
嵩の転勤が“ほぼ確定”ではなく、“事実として共有されたあと”の、独特の静けさ。誰もが知っているのに、誰も正面から触れない──そんな薄い膜が、フロア全体を覆っていた。
その膜を、ためらいなく破ったのが瑠奈だった。
「嵩さんって、向こう行く気なんですよね?」
昼休み前、給湯室から戻った直後。
あまりに唐突で、あまりに率直な一言に、周囲の手が一斉に止まった。
「……瑠奈」
美鈴が低く名前を呼ぶ。制止のつもりだったのだろう。
けれど瑠奈は、悪びれもしなかった。
「だって、みんな気にしてるじゃないですか。行くのか、残るのか。本人だけが黙ってるの、変じゃないですか?」
視線が、嵩に集まる。
同情でも好奇心でもない。ただ、“答え”を待つ目。
嵩は一瞬、言葉を探した。
ここではまだ言えない。朱里にも、まだ──。
「……正式な話は、これからだ」
それだけ告げると、瑠奈は小さく首を傾げた。
「じゃあ、朱里さんには?」
空気が、音を立てて沈んだ。
美鈴が一歩前に出る。
「それは──」
「まだだ」
嵩が、静かに遮った。
瑠奈は数秒、嵩を見つめてから、ふっと息を吐いた。
「そっか。じゃあ聞かないです。でも──」
彼女は少しだけ、声を落とした。
「決めるの、嵩さん一人じゃないと思います」
それだけ言うと、何事もなかったように席に戻っていった。
残された空気は、さっきまでとは明らかに違っていた。
沈黙の質が変わった。
“避ける沈黙”から、“向き合う前の沈黙”へ。
嵩はデスクに戻りながら、朱里の背中を見た。
彼女はまだ何も知らない。
けれど、きっともう──何かを感じ取っている。
今日か、明日か。
このままでは、いられない。
嵩は、決意を胸の奥で確かめるように、そっと息を吸った。



