【短】谷底のカスミソウ ―Valor VS Malice―



「逃げろ!」


「…っ、は、はい…っ!」




 一歩、右足をうしろに下げると、ようやく動けるようになって、私は足をもつれさせながら、走ってその場を逃げ出した。

「裏切り者め!」とさけぶ男子の声がうしろから聞こえる。


 一秒も止まらず、走って家まで帰ってきた私の心臓は、バクバクと音を立てていた。




「はぁ、はぁ…っ」


「なによ大きな音を立てて…って、どうしたの?びしょぬれじゃない」




 いつもより いきおいよく開けた玄関の扉の音で、お母さんが寄ってきたらしい。

 声をかけられても答えることができず、私はただ荒い呼吸をくり返す。


 初めて、助けてもらえた…。

 あの男の子は、だれ…?


 私の世界(あたりまえ)を、鮮烈(せんれつ)に塗り替えた彼の姿が――目に焼き付いて、離れなかった。