凌久が戻ってきてないことを祈ろーっと、なんて思いながらドアを開けて玄関に一歩足を踏み入れようとした時だった。微かに聞こえてくる淫らな声にベッドが軋む音、下に視線をやると見慣れない女性用の靴。
察したわたしはゆっくりドアを閉めて立ち尽くしていた。
今まで外で済ませてきてるんだろうなとは思ってた。ご勝手にって感じだったしクズだなとしか思わなかった。だって凌久はわたしのものってわけじゃないし、とやかく言う関係性でもないから。
いくらクズとはいえ、わたしと相部屋なこともあってか今まで異性を連れ込むなんてことは一度もなかったのに。なのに、どうして──。
廊下に立ち尽くしてどれだけ時間が経っただろう、そもそもなんでわたしの体は動かないの。こんなところに突っ立ってたら鉢合わせるじゃん、嫌だよそんなの。
そもそもなんでこんな嫌がらせを受けなきゃなんないの? 凌久ってわたしのこと嫌いだよね、おそらく昔から。嫌味はもちろん軽い罵倒なんて日常茶飯事、変にちょっかい出してくるし常に俺様目線で謎に束縛してくるし、こんなの絶対にわたしのこと嫌ってるでしょ。なのになんでわたしを護衛として隣に置くの? 意味分かんないんだけど。
「なに、なんなの……」
わたしと凌久が今まで、そしてこれからも一緒に過ごすあの空間にわたし以外の異性を入れたことも、いま凌久が誰かを抱いているってことにも、すべてに苛立って仕方ない。
もやもやする、心の奥底がきゅっとなって苦しい。この感情は一体なんなの? ぶっちゃけ凌久の横暴さもクズさも今に始まったことじゃないし慣れてた、それが当然だったから。だから今まで一度だってこんなにも苦しくなったことなんてない。
だったらなんなの、このもやもやと胸の痛みはなに? なんでこんなにも苦しいの?
「最低」
思わず口から出た本音、わたしのこの声が誰かに届くことはない。
「ありゃ番犬ちゃん、飼い主から閉め出しでも食らってんの~?」
見なくても声で分かる、天海隊長ってことが。ちらりと視線を向けるとヘラヘラ笑いながらこっちに手を振っている。
壁から背を離して軽く会釈をすると「相変わらずお堅いね~」なんて言いながらわたしのところまで来た天海隊長は、どうやら察したらしい。別に声や音が廊下まで漏れてるわけでもないのにね。
「なに、どういうプレイなのこれ~」
なんて言いながらわたしの隣に来て壁に背中を預けた天海隊長。
「ていうか、いつもこんな扱い受けてる感じ~? いやぁ、さすがに君らの隊長してほっとけないなぁ」
「いえ、今回が初めてなので」
「ふーん、まあここまで入れてるってことは相手はS学の生徒もしくはっ」
「別に誰でもいいのでは」
「なに、怒ってる? 珍しいね~」
怒ってる? まさか、怒ってなんてない。ただ嫌気が差してるってだけ、こんな扱いを受けてるってことに……と思いたい。
「わたしが怒る理由も必要もないかと」
「へえ……ねえ、つらくない? 南雲ちゃんと一緒にいんの」
隣にいる天海隊長を見上げると思いのほか真剣な眼差しでわたしを見下ろしていたから思わず目を逸らしてしまった。
「つらい、つらくない、そんな感情は護衛のわたしにはありません」
「護衛云々じゃなくてさ、凪良ちゃんは普通の女の子じゃん。いやぁ、あんなんでも南雲ちゃんが君のことを大切にしてるのは傍から見てても分かるし、彼なりに君を大切に~ってのは伝わってたんだけどねえ、今回ばかりは解せないなぁ」
「心配には及びません。お気遣いありがとうございます」
「んもぉ、堅い堅い~。ちなみに僕の岳Jr.も硬いよぉ? どう、試す?」
この人イケメンだし最強格だし隊長だからギリ許されるか許されないかの瀬戸際を立っていられるけど、本来だったらアウト。まあ、こういうおちゃらけた人だってことは元より承知のうえ、とくに気にすることでもない。
「いやぁさすがねえ、そのポーカーフェイス。凪良ちゃんってほんっと掴めないわぁ……だからかな? その表情、崩したくてたまんないんだよねぇ」
なんて言いながらわたしの頭を撫でてくる天海隊長のほうがよっぽど掴めない。この人って何を考えているのか時々分からなすぎて困るんだよね。
「ていうか暇~? 暇だよねえ、こんなところにいてもさぁ」
「暇でもなければ忙しくもありません」
「んもぉ、つれないなぁ」
とか言ってわたしの肩を組んでくる天海隊長。これも日常、普段どおりの光景である……が、こんなところを凌久に見られたら正直めんどくさい。天海隊長と凌久ってどうも相性が悪いのかすぐ喧嘩するし。
「あの、天海隊長。前々からお願いしていますが、凌久さまがいる時はなるべくわたしへの接触等お控えいただけると大変ありがたいのですが」
「んじゃいない時ならいいってわけね~。今いないからいいじゃん?」
「そういう問題でもありません」
天海隊長がスキンシップ激しいのってわたしにだけなんだよね。ザ平凡女のわたしだから気軽に触れるってことだろうけども単純に。
そしてどうやらわたしと天海隊長は耳がかなりいいらしい。まあ、幻影隊の隊員は基本的に聴力視力は人並み以上によかったりもする。そんなわたし達が微かに聞き取った嬌声、おそらくピークを迎えるのだろう。
これが演技じゃなかったとしたら気持ちよさそう、凌久はどんなセックスをするのだろうか、とか一瞬でも考えてしまった脳ミソを今すぐドブに捨てたい。
「やるねえ、南雲ちゃん」
「お上手なんでしょうね」
防音強化したほうがいいのでは? この寮全体的に。
「まあでも南雲ちゃんって自分よがりなエッチしそうだよねえ」
「さあ、どうなんでしょうね」
「僕は違うよ? どう、試してみない?」
「みません」
「ははっ、いやぁさすが鉄火面! 掴みどころがないね~。ていうかさ、ちょーっと付き合ってくんない?」
色っぽい表情で微笑みながらわたしの顔を覗き込んでくる天海隊長に本能で身構えてしまって、天海隊長も本人であるわたしですらそれに驚いて目を丸くする。
「あ、えっと、これは……」
「あぁははっ、ごめんごめ~ん。そんなに警戒しないでよぉ凪良ちゃん♡」
「ははは……すみません」
今まで天海隊長にちょっかいを出されようが距離感がバグってようが、顔色一つ変えることなく身構えるなんてことも一度だってしたことはない。
これはきっと、凌久のせい。今あの部屋で凌久が誰かを抱いているという現状がわたしを狂わせたんだ。変に意識しちゃって恥ずかしい。そもそも天海隊長がわたしなんて相手にするはずがない。だってこの人もかなりモテるし女にだらしないし、そういう相手に困ることなんて絶対にない。なんなら凌久よりクズ。
「凪良ちゃんがこんなにも意識してくれるの初めてだねぇ? 嬉しいなぁ……まあでも、僕をっていうより南雲ちゃんを意識してんのかな? 妬けちゃうね」
「あの、からかうのはやめてください」
「からかってるつもりはないよ~」
わたしこんなんだし、凌久の世話で恋愛どころか異性との関わり自体が二の次三の次だったから、免疫がないの慣れてないの、やめて本当に。
「天海隊長なら引く手あまたでしょう」
「まぁね」
否定しないんだ、まあ否定されても白い目で見ることしかできないけども。
「わたしに構っている暇などないのでは?」
「う~ん、凪良ちゃんは僕の可愛い後輩だからね~、時間はたっぷりと使ってあげる♡」
「際どい発言はお控えください」
「僕のゴットハンド体感させてあげるよ~」
「いえ、結構です」
「たくさん突いてとんとんしてあげる♡」
この人、まじで何を言っているんだ。
「天海隊長ならもっと可愛らしい女性をひっかけっ、いや、お誘いできるのでは?」
「ははっ! 今ポロッと本音出ちゃったよね!? 凪良ちゃんってもしかして猫かぶりちゃんだったりするぅ?」
「いえ」
素がバレるのは面倒、そもそもこの人にバレるのが本当に面倒。絶対に嫌、凌久の次にバレたくない人。
「ふ~ん? ていうか凪良ちゃんってさぁ、自覚がないのかなぁ?」
自覚……とは? ザ平凡女でお堅い護衛キャラだという自覚は十分にありますが?
「悪くないんだけどねえ、むしろいいまである」
いや、なんの話ですか。
「南雲ちゃんもアホだよねえ、拗らせすぎ。簡単に取られちゃうよ~? こんなんじゃさぁ」
はあ、よく分かりませんが。
「ってことで」
いや、どういうことで?
「僕の部屋来て」
うん、理解不能。
「これ、隊長命令」
これぞ職権乱用。
「隊長命令は絶対だよねえ? ていうか、僕の命令は絶対だよって教え込んだよね~? 君らに」
「……」
なんも言えぬ。



