屋上への階段を駆け上がり、鍵を差し込む。
 鉄扉が重い音を立てて開き、真夜中の風が一気に流れ込んだ。
 街の明かりが遠く瞬き、校庭の白線が月に淡く光っている。初めて見る屋上からの景色は真夜中だけど、とても幻想的で美しかった。

「綺麗……夜の学校って、好き」
「僕も。静かだし、君の声がいちばんよく響く」
「……」

 心臓が大きく飛び跳ねた。
 こんな言葉、いつもの彼は絶対に言わないから調子狂う。
 彼の目は小さく細められていた。
 固く結ばれた薄い唇。月明かりが彼の頬を照らし、美しさをより際立たせる。
 桝原くんはかっこいい。
 今はよりいっそう、そう思えた。

 私、ほんとうは……ずっと気づいていたことがある。
 それは、完璧な〝生徒会長〟の奥に、もうひとつの顔があることを。
 呆然と窓の外を見ているときの、あの遠くを射抜くような目。さっきも桝原くん自身が〝表〟の顔って言っていたけれど、ふとした瞬間に、その顔が剥がれていることがあった。
 それに気づいたのは、ずっと彼を目で追っていた私だけだったと思う。
 でもずっと、気づいていないふりをしていた。

「七瀬」

 フェンスに体を預けた彼が、左手首を私に向かって差し出す。
 ブレザーの裾から覗く赤い細いゴムが見えた。

「知ってる? 僕ね、ここを触られると弱い」
「……弱い?」
「会長の仮面が一瞬で剥がれる。いつもの僕ではいられなくなるスイッチ」

 その瞳は夜を吸い込んだように濃く、まっすぐだった。

「一度だけ、君は触れたよね。覚えてる?」

 低く落とされた声が、夜気の中でじんと響く。なんて返せばいいのかわからなくて困っていると、桝原くんが言葉を続けた。

「昼間なのに、危うく仮面が全部剥がれそうになって、大変だったんだから」

 その瞬間、頭の奥深くでふっと記憶が蘇る。

 数日前、資料を一緒に運んだとき、偶然手首に触れてしまったことがある。
 彼がほんの一瞬、言葉を失った空気。
 鋭い目、消えた優しいオーラ。
 けれど私が息を呑む間に、彼はすぐいつもの会長に戻った。

 ただ、手首に触れただけ。
 それなのに、空気が思いっきり変わった気がした。でもそれは私の勘違いだと思い自己完結していた。

 でも——違ったんだ。
 あれは勘違いなんかではなく、事実だったんだ。

「……」

 そう思った途端、心臓がばくんと大きく音を立てる。
 溜め込んできた「好き」が、そこから零れそうになった。

「……ほんとうは、ポスターなんて僕でも印刷できた。でも、珍しい七瀬のうっかりを口実にしたくて」

 そう言って、ポケットから同じ赤いゴムを取り出す。
 桝原くんが手首に付けているものと、まったく同じものだった。

「今夜だけ、これを君の手首に。僕が外すまで外さないで」
「……え?」

 差し出された小さな輪が、やけに重たく見えた。
 桝原くんはそれを私の左手首につけて、優しく上から撫でる。

「何これ?」
「君と僕の証」
「……え?」

 一拍。夜風が頬を撫でる。
 心臓の音と、彼の低い呼吸しか聞こえない。

「今だけは、僕が君を独り占めしたい。その証……って言ったら、どうする?」
「……束縛だ」
「うん、そうかも。こんなの……イヤ?」
「……別に。イヤじゃない」

 その瞬間、胸の奥が甘く締め付けられた。
 ずっと好きだった彼が、今は私だけを見ている——それが夢のようで、なんだか落ち着かない。
 っていうか、桝原くんが私を独り占めしたいってどういうこと?
 それって、〝期待〟してもいいってことなの……?

「じゃあ……私も、今だけ、ひとつ」
「ん、なんでも」
「……桝原くんの手首に触れさせて」

 指先をそっと、桝原くんの手首に添える。
 赤いゴムを撫でる。すると彼の肩が微かに震えた。
 弱点。
 彼の言う弱点とは、触れられると弱いってことを示しているのだろうか。そう思える反応に、思わず唾を飲み込む。

「……それは、無理」

 掠れた声と同時に強く抱き寄せられた。
 制服越しの体温が、腕の中で混ざっていく。

「君に触れられると、優しい僕じゃいられない」

 自分から弱点をさらして、〝なんでも〟なんて言った桝原くんはどこに行ったのか。
 矛盾だらけの様子に、つい本音が零れる。

「……いいよ、それで。ずっと見たかったの。桝原くんの〝ほんとう〟の顔」

 言葉とともに、胸の奥にあったものが一緒に零れ落ちる。
 肩口に落ちる息が熱い。胸板の硬さと、布の擦れる音がやけに近い。
 こんな距離で触れ合うのは初めてなのに、不思議とためらいや怖さはなかった。

「七瀬」
「ん?」
「僕は君が好き。君が誰かと笑っていると壊したくなる。僕以外に向けられる笑顔が悔しい。僕だけを見ていてほしい。僕だけのものでいてほしい。でも、そんなの通用しないから。だから——だから今夜だけは、君は僕だけのものだって言って」

 乱暴な言葉なのに、声音は祈るみたいだった。
 私は彼の背に腕を回し、額を重ねる。
 いつもの〝生徒会長〟は、ここにいない。
 優しい目には熱い感情が込められ、何か強いものを感じた。

「い、1年の春……書類を持ってくれたときから——ずっと、気になってた」

 小さく息を吸い、さらに言葉を続ける。
 桝原くんの視線に負けないよう、しっかりと声を出した。

「選挙演説の前に深呼吸してた表情も、雨の日に1年生の傘を直してあげていたときも、生徒会長として先生や生徒に慕われている様子も、私を気にかけてくれるときの表情——ずっと、ずっと、全部が好きだった」
「……」
「私はずっと……桝原くんだけ」

 彼の喉がごくりと動く。
 より強い感情を目に滲ませた彼は、すこし乱暴に唇を重ねた。
 押し付けるような荒いキスに、思わず呼吸が止まる。
 しばらく貪るように唇を重ね続けていると、ふいに彼が私の手首の赤いゴムを、パチンと軽く弾いた。

「気づいてた」
「……」

 私はもう一度、彼の左手首に触れる。
 その瞬間、息が小さく乱れた。
 世界で私だけが知っている、無防備な顔。その優越感に心が満たされる。

「……好きだよ、七瀬」
「私も、桝原くんが好き」

 なんの為に学校にいるのか、その理由を忘れていた私たちは、鉄扉の方から飛んできた坂井先生の声に、勢いよく身体を離す。

「おーい、進捗はどうだ? さすがにそろそろ閉めるぞ」

 坂井先生が私たちの甘い空気を壊す。
 表情を一気に変えた桝原くんは、〝いつもの〟声で「先生、ごめんなさい。もう帰ります」と返し、私の手首から赤いゴムを外した。

「今日は解放。また今度、捕まえる」

 子供みたいに笑うけれど、その視線には熱がこもったままだった。