夜11時。
 こんな時間だと言うのに通用口はすこしだけ開いていて、廊下の蛍光灯は1本だけがぽつりと灯っていた。

 昼間の喧騒が嘘のように静まり返った学校は、空気までひんやりしていて、足音がやけに大きく響く。
 その音が、妙に胸をくすぐった。

「七瀬」

 名前を呼ばれて振り向く。
 ネクタイをすこし緩め、袖を二折りした白いシャツが夜に浮かび上がっていた。昼間の完璧さがわずかに崩れて、そこに彼自身の温度が透けて見える。

「こんな時間までどうして……」
「んー、いろいろあって。坂井(さかい)先生が一緒に残ってくれてる」
「いろいろ?」

 意味ありげに笑った桝原くんは、軽く腕を組みながら私の顔を覗き込んだ。

「……いや、まぁ……ほんとうは帰ろうと思ってた。でも、そのときに白紙のポスター用紙を見つけちゃって。七瀬なら、やり忘れた仕事を思い出して悩んでいると思ったんだ。だから、連絡してみた」
「……え、正解なんだけど。何それ……テレパシー?」
「さぁ、どうだろうね?」

 軽口を交わしながら暗い廊下を並んで歩き、生徒会室へ向かう。
 夜の学校は人の気配など当然なく、静かで暗くて怖い。でも、特別さがなんだか胸をくすぐる。

 生徒会室に着いた私は、急いでパソコンを立ち上げてポスターのデータを開いた。
 起動するプリンターの機械音と、吐き出された紙のあたたかさ。桝原くんと並び、他愛のない話をした。
 そんな時間をすごしていると、作業は思ったよりすぐに終わる。


 桝原くんによると、作業はまだあるらしい。
 けれど先に休憩しようなんて言うから、私はそれに従って廊下に出ることにした。
 窓の外に目を向けると、向かいの棟の職員室だけが明るく輝いているのが見える。
 そこにいるのは坂井先生だけだろうか。
 非現実のようで、これは現実。
 そんな今の時間が特別に思えた。

 
「——あれ、七瀬さんもいたの?」

 ふと聞こえてきた声に、顔をゆっくり動かす。
 階段から姿を現した声の主は坂井先生だった。
 まさか私までいたとは思っていなかったようで、先生は驚いたように目を瞬かせる。

「生徒会は遅くまで大変だね。桝原くんの様子を見に来たんだけど。進捗はどう?」
「こんな時間までほんとうにごめんなさい。もうすぐ終わります」

 桝原くんはいつもと同じ柔らかな笑顔で頭を下げる。
 その横顔は、日頃の〝生徒会長の桝原くん〟そのものだった。

「こちらの棟は責任を持って僕が施錠します。早めに終わらせますので」
「あぁ、わかったよ。先生は職員室にいるから。帰るときに寄ってね」
「はい。ありがとうございます」

 先生は廊下の角を曲がり、足音が遠ざかる。

 ——その瞬間、空気が変わった。

 私の手を軽く撫でて、彼の口角がわずかに上がる。
 昼間の柔らかさではない、低い温度の笑みが浮かんで見えた。

「僕、夜は苦手なんだよね。嘘が剥がれそうになるから」
「……嘘?」
「うん。あれは〝表〟の顔。こっちは、今の七瀬だけに見せる顔……って言ったら、どうする?」
「……え?」

 意味を探る間もなく、彼は私の腕を掴み歩き出した。

「屋上行こ?」
「……なんで?」
「文化祭の準備。鍵は、今だけ僕が預かってる」

 屋上で準備なんてあったっけ?
 けれど疑問は言葉にはならない。
 桝原くんの悪戯めいた笑顔が、夜の闇に滲んでいた。