陽菜は午前中に仕訳入力を終え、経費精算業務に取りかかった。
営業部から提出された個人の経費と、領収書の添付画像のチェックをしていく。原本の領収書と入力データの金額に相違がないかを確認し、不備がなければ承認作業に移行する。
ふと確認していた手が止まった。
領収書の画像が添付されていない。申請者は『田中怜央』と記載がある。
陽菜と同期入社の男だ。机にある領収書の原本は皺だらけになっている。
そっと心で溜息をついた。
「おつかれ〜。経理部に届け物」
顔を上げると、タイミング良く田中怜央が入室してきた。他の社員と談笑している。
陽菜は気が滅入ったが、頃合いを見て彼に話しかけた。笑顔を意識する。他人に注意するときは人一倍気を使う。
「田中くん、経費データのことだけど。領収書の添付画像、忘れてるよ」
「うわ~、ごめん! うっかりしてた」
『だるいて。河村に押しつけよう』
営業部らしく笑顔はキープしていた。それが却って陽菜の恐怖心を煽る。
「かわむら〜、同期のよしみでスキャンしておいて」
『いつもにこにこしてるから、やってくれるだろ』
田中は愛想が良く、感じのいい同期だと思っていた。でも心の声が聞こえる今では違う。見解は180度変わった。
「駄目だよ、自分でして。これも営業の仕事だよ」
笑顔を崩さず、厳しくならないように声の質感を和らげる。
領収書を差し出すと男の眦が僅かに吊り上がった。だがすぐに甘えた表情に変わる。
「な〜今回だけ頼むよ。俺、これから会議があってさ」
『河村は大した仕事をしてないだろ。気楽でいいよな』
ズキリと心が痛む。
陽菜自身が一番よく分かっている。それでも他人から言われると傷つく。
「でもこれは田中くんの」
「なっ、頼む。じゃあ俺行くわ」
『うぜぇって。空気読めよ!』
怒鳴り声が鼓膜に突き刺さる。動揺して、領収書を持つ手が下降していった。恐怖が襲い、唇が震える。
「分かった、スキャンしておくね」と言いかけた時だった。
「田中」
追い風のように蓮の声が聞こえた。いつの間にか背後に来ている。
「営業部の部長が、田中のことを褒めてたぞ。よく気がついて、仕事も早いって」
「……え? まじで?」
背を向けていた身体が振り返る。田中の顔には喜色が浮かんでいた。
「ああ、本当だ。でも経費精算では時々、抜けてるよな」
挨拶みたいな気軽さで蓮が笑う。
「……忙しかったんだよ」
「まあな。期待されてる分、忙しいのは分かる」
「だろ?」
「でもそれとこれとは話が別だ。領収書、今スマホで撮って送れよ。田中は仕事が早いから秒で出来るだろ」
「秒は無理」
「出来るって。はい、スタート」
「あ~、わかったわかった」
仕方ないな、と田中の雰囲気が和らぐ。陽菜から領収書を受け取り、スマホで撮影をした。作業を終えると「河村、添付画像を送ったからな」と言い、経理部から出て行ってしまった。
「……朝倉くん、ありがとう。……ごめん」
「別に」
素っ気ない態度で、蓮は決算部に戻っていった。
陽菜は音もなく溜息をつく。席に戻ろうとすると、管理部の先輩が「河村さん、ちょっと」と呼び止めてきた。
「助けに入らなくて悪いな。河村さんがどういう対処をするか見てた。田中を甘やかすなよ。あいつ、絶対に調子にのるタイプだから」
「はい」
「さっきの朝倉さんを見習って円滑にな。次から頑張れ」
「……すみません、気をつけます」
「一歩ずつな。河村さん優しいから、難しいかもしれないけど出来るよ」
声質は柔らかい。でも陽菜は目を合わせることが出来ないでいた。
心の声が怖い。田中の恫喝で、まだ心臓は騒いでいる。
それでもアドバイスをくれた先輩を無碍にしたくなくて、陽菜は必死で笑顔を作った。
営業部から提出された個人の経費と、領収書の添付画像のチェックをしていく。原本の領収書と入力データの金額に相違がないかを確認し、不備がなければ承認作業に移行する。
ふと確認していた手が止まった。
領収書の画像が添付されていない。申請者は『田中怜央』と記載がある。
陽菜と同期入社の男だ。机にある領収書の原本は皺だらけになっている。
そっと心で溜息をついた。
「おつかれ〜。経理部に届け物」
顔を上げると、タイミング良く田中怜央が入室してきた。他の社員と談笑している。
陽菜は気が滅入ったが、頃合いを見て彼に話しかけた。笑顔を意識する。他人に注意するときは人一倍気を使う。
「田中くん、経費データのことだけど。領収書の添付画像、忘れてるよ」
「うわ~、ごめん! うっかりしてた」
『だるいて。河村に押しつけよう』
営業部らしく笑顔はキープしていた。それが却って陽菜の恐怖心を煽る。
「かわむら〜、同期のよしみでスキャンしておいて」
『いつもにこにこしてるから、やってくれるだろ』
田中は愛想が良く、感じのいい同期だと思っていた。でも心の声が聞こえる今では違う。見解は180度変わった。
「駄目だよ、自分でして。これも営業の仕事だよ」
笑顔を崩さず、厳しくならないように声の質感を和らげる。
領収書を差し出すと男の眦が僅かに吊り上がった。だがすぐに甘えた表情に変わる。
「な〜今回だけ頼むよ。俺、これから会議があってさ」
『河村は大した仕事をしてないだろ。気楽でいいよな』
ズキリと心が痛む。
陽菜自身が一番よく分かっている。それでも他人から言われると傷つく。
「でもこれは田中くんの」
「なっ、頼む。じゃあ俺行くわ」
『うぜぇって。空気読めよ!』
怒鳴り声が鼓膜に突き刺さる。動揺して、領収書を持つ手が下降していった。恐怖が襲い、唇が震える。
「分かった、スキャンしておくね」と言いかけた時だった。
「田中」
追い風のように蓮の声が聞こえた。いつの間にか背後に来ている。
「営業部の部長が、田中のことを褒めてたぞ。よく気がついて、仕事も早いって」
「……え? まじで?」
背を向けていた身体が振り返る。田中の顔には喜色が浮かんでいた。
「ああ、本当だ。でも経費精算では時々、抜けてるよな」
挨拶みたいな気軽さで蓮が笑う。
「……忙しかったんだよ」
「まあな。期待されてる分、忙しいのは分かる」
「だろ?」
「でもそれとこれとは話が別だ。領収書、今スマホで撮って送れよ。田中は仕事が早いから秒で出来るだろ」
「秒は無理」
「出来るって。はい、スタート」
「あ~、わかったわかった」
仕方ないな、と田中の雰囲気が和らぐ。陽菜から領収書を受け取り、スマホで撮影をした。作業を終えると「河村、添付画像を送ったからな」と言い、経理部から出て行ってしまった。
「……朝倉くん、ありがとう。……ごめん」
「別に」
素っ気ない態度で、蓮は決算部に戻っていった。
陽菜は音もなく溜息をつく。席に戻ろうとすると、管理部の先輩が「河村さん、ちょっと」と呼び止めてきた。
「助けに入らなくて悪いな。河村さんがどういう対処をするか見てた。田中を甘やかすなよ。あいつ、絶対に調子にのるタイプだから」
「はい」
「さっきの朝倉さんを見習って円滑にな。次から頑張れ」
「……すみません、気をつけます」
「一歩ずつな。河村さん優しいから、難しいかもしれないけど出来るよ」
声質は柔らかい。でも陽菜は目を合わせることが出来ないでいた。
心の声が怖い。田中の恫喝で、まだ心臓は騒いでいる。
それでもアドバイスをくれた先輩を無碍にしたくなくて、陽菜は必死で笑顔を作った。
