音楽会のあと、ヴァルタザールは何気なく尋ねた。
「ねえ、リズ。あなたは……エーリヒ・フォン・ロートシルトという人をご存じだろう?」
「……!」
手にしていたグラスが小さく震えた。
「どこで、その名前を?」
「いや、噂で聞いただけさ。彼はあのロートシルト・グループの次期総裁で、世界で活躍するビジネスマンだからね。」
「ええ……そうね。立派な人よ。もう二度と会うことはないけれど。」
そう言って視線を落とす彼女の横顔に、
ヴァルタザールの口元が静かに吊り上がる。
“もう二度と会わない”
――ならば、奪うことに障害はない。

それからしばらく後のとある昼下がり。
その日、ハイドランジアの空はどこまでも青く、
穏やかな午後の陽射しが
アカデミーの庭園を照らしていた。

春の終わりを告げる薔薇が咲き乱れ、
学生たちが談笑する中、
エリザベートは書物を抱えて石畳を歩いていた。
今日は、講義を終えて学生寮に戻るだけ――
そう思っていた、その瞬間。

背後で、何かが弾けるような音がした。

「――っ!」
反射的に身を翻した刹那、
尖った閃光が彼女の頬を掠め、
壁に突き刺さる。
ナイフ。
悲鳴を上げる間もなく、
もう一つの影が迫ってくる。
黒いフードを被った男が、
素早く距離を詰め――

「リズ!!」

聞き慣れた声と共に、
強い腕が彼女を抱き寄せた。
ヴァルタザールである。
彼は彼女を庇いながら、自身の外套を翻し、
敵の腕を掴んで地面に叩きつけた。
金属音、短い呻き。
しかし、襲撃者は身軽に転がって逃げ去る。

ヴァルタザールはすぐに彼女の肩を支えた。
「怪我は!?」
「だ、大丈夫……でも、血が……」
頬に薄く走る切り傷。
指先が震えている。