──うええ、身体熱ぃ……。
月曜日、大学に来たものの、学の具合は
かなりグロッキーになっていた。頓服の抑制剤を飲んだはずなのに、身体の火照りは収まらず、全身のコントロールが効かない。講義のほとんどを机に突っ伏したまま過ごしてしまった。普段なら学費の無駄遣いになってしまった、と内心嘆く学だが、今日はそんなことを考える余裕はない。
身体の疼きと共に顔の緩みも自覚している学は、マスクでもして来ればよかった、と思っていた。今の自分の顔はどうなっているのだろうか。
具合が悪そうに見えているならばまだましだが、発情で歪んだ顔になっていたらすぐさまアルファの餌食になってしまう。幸い、学生が自分を遠巻きにしており、発情期のフェロモンにあてられたアルファはいないのが救いだった。
──照がいたら、心強いのに。
残念なことに、照は今日大学に来ていないらしかった。普段なら二限でマナブと一緒の講義に出るはずだ。彼女も大学に来ていれば講義をさぼる姿は見たことがないので、姿が見えないということは大学にいないのだろう。
一人でいることに慣れきっている、と思っていたものの、実際はそうではなかったらしい。学にとって、照が一緒にいることは日常になってしまっていたのである。隣で講義を受け、食堂でご飯を食べ、放課後図書館で一緒に過ごす。些細なことだが、今の学にとってはすべて特別なことだった。
今日は友人の九郎もいない。照と違う講義の時は一緒に行動していたものの、学が照と一緒に行動する日だと頭の中に入っている優秀な彼は、今日は学の近くにはいなかった。
帰ろう、と学は思った。身体はだるい、勉強に集中もできない。今日大学に来た目的は照と仲直りをするためだったのだから、照がいなければ仕方がない。しかも、今の強さの発情期ならば照に影響を及ぼしてしまう可能性もある。そして、この惚けた頭では照に自分の話したいことが話せないかもしれない、といまさらながらに気が付く。
体調が万全になってから、照と話をしよう。そう思って学は、体調が悪いから帰る、と照にチャットメッセージを送った。既読は付かないが、見てくれることを祈って。
帰る準備をし始めたものの、しかし、学は自分の体力がそこまでないように感じていた。抑制剤を追加で飲んだ。薬が効いて症状が落ち着くまで保健センターにでもベッドを借りるのが良いかもしれない。学内には学以外にも一応、オメガはいる。急なヒートを起こした時のために駆け込みで救護室がないわけでもない。ふらふらと行き倒れるよりも良い選択だ。
学がそう思って席を立った時だった。
「おい、水野」
アルファが学に絡んできた。図書館で声をかけてきた、派手な活動をしているアルファである。学の様子がおかしいのに感づかれたらしい。にたにた笑いながらこっちに寄ってきて顔を覗き込まれる。
「何」
「今日はお姫様と一緒じゃないらしいな? 喧嘩でもした?」
妙に赤く火照った顔でニタニタ笑っているのは、学の発情期にあてられているからだろうか。力を誇示しようとする表情とは違った下卑た顔を見て、学に不快感が走る。それを知ってか知らずか、アルファは学に向かって熱い息を吐いた。
オメガのフェロモンを嗅げばアルファは抗えないと聞くが、抑制剤の威力は素晴らしい。アルファが意識を飛ばして学を襲わない程度には、学のフェロモンは抑制剤で押さえられているのだった。
自分はかなり無謀な状態で外を歩いていたのだと、学はいまさらながらに思った。
「別に。照だって今日来てないだろ」
「姿が見えてないだけじゃないのか?」
アルファが茶化すように言った。
「体調悪い時だってあるだろ。人のことに口出しすんなよ」
学がアルファを押しのけて立ち上がる。付き合っていられない。救護室で休もうと思ったが、乗り込まれては大変だ。学は家に帰ることに決め、荷物をまとめる。
「水野も体調悪そうじゃん。感じてますーって顔してるぜ」
揶揄うように笑うアルファを、学は睨みつけた。自分の顔が発情で歪んでいるのは自覚しているが、他人に蕩け切った顔なんぞ言われる筋合いはない。大して知らないアルファなら余計に、だ。
真正面から相手を睨みつける。相手のすべてを奪う気持ちで目をそらさない。学はアルファに対抗するために敵意をむき出しにした。
普段なら相手を凍り付かせるそのしぐさだが、逆効果になってしまった。アルファにとって、その表情は煽情的ともいえる、相手を試すような表情となってしまったらしい。
学の顔を見たアルファが顔を赤く染めたまま、獣のように目を剥いた。学の肩に手をかけ、そのままその場で押し倒そうとぐっと力を込められる。こんな公衆の面前で事に及ぼうとするなんて学の想像の範囲外だったが、かつては公共の場で犯されたオメガもいる事件があったとも聞く。
学はぞっとした。こめかみにざわざわとした感覚が生じる。寒気がする。触れられるのもごめんだ、とアルファの肩を押しかえした。ほとんどタックルだった。頓服でも抑制剤を飲んでいてよかった。通常分だけでは、力が出なかったに違いない。
予想外の学の反撃を受けて、アルファが床に転がった。他のアルファが助け起こす。別のアルファが学の周囲を囲んだ。突き飛ばしたアルファが怒りの形相で学に近づいてきて、学を床に転がそうとした。抵抗する。肩を押さえられ、学は膝をつかされた。
「ずいぶん反抗するじゃん。もしかして初めてとか?」
下品な詮索にはらわたが煮えくり返る。力づくで個人的な事情を暴くような、こんな侮辱は初めてだ。アルファ達に捕まっているという焦りもあるが、それ以上に学は怒りで震えていた。初めては夜景の見えるホテルでとは言わないが、こんな奴らに、公衆の面前で犯されるなんてごめんだった。
「ここだと目立つじゃん。ちゃんとした場所行こうよ」
アルファたちが頷きあい、学を拘束してどこかに連れ出そうとする。周囲の人間は遠巻きにして様子を見ているが、男の集団におじけづいて固まっているようだった。アルファの男の集団に口を出して、反撃されたらひとたまりもないだろう。学もそれは理解していた。
従順についていくふりをして立ち上がる、学が力を抜いたせいか、脇を固めたアルファの力も弱まった。その隙を見て振り払う。追いかけてくるかもしれないが、もっと人目が多いところで助けを求めよう、と学は走り出す。
学の後ろから声が聞こえた。
「照ちゃんどうなってもいいの?」
その言葉で足を止めざるを得なかった。
今、照の名前が出ただろうか。そして、どうなってもいいとはどういうことだろう。この連中の話だから、少なくともただ座らせているわけではないはずだ。
何か起こそうとしているのか、もう何か起こった後なのか。
学の全身から血の気が引いた。今、自分が押し倒されて自由を奪われそうになった時よりも激しく心臓が鳴り、暴れまわる。耳から心臓が出そうなほどの鼓動は乱れているように聞こえた。全身に汗が噴き出し、手ががくがくと震えはじめる
「お前ら、照に何した」
「まだ何もしてない」
アルファがニタニタと笑いながら言った。
「水野が黙ってついて来てくれたら、照ちゃんに合わせてあげるよ」
おとなしくしていたら何もしないという。
照に何かされたら終わりだ。
自分がいない間に、照を危ない目に合わせてしまった。
予想もしなかった悪感情、強い絶望感を味わい、学はヒートが悪化したのがわかった。ふらふらとその場に膝をつく。
その脇をアルファが抱えた。
「照のいる場所に連れていけ」
そう言った学を抱えて、アルファたちがひと気のない教室へと歩き始める。頭を殴られたような衝撃でふらふらと足取りがおぼつかない。
学は照の事しか考えられなくなっていた。
──照、無事でいろ。
離れた教室に着いた。
照はアルファに拘束されていた。
月曜日、大学に来たものの、学の具合は
かなりグロッキーになっていた。頓服の抑制剤を飲んだはずなのに、身体の火照りは収まらず、全身のコントロールが効かない。講義のほとんどを机に突っ伏したまま過ごしてしまった。普段なら学費の無駄遣いになってしまった、と内心嘆く学だが、今日はそんなことを考える余裕はない。
身体の疼きと共に顔の緩みも自覚している学は、マスクでもして来ればよかった、と思っていた。今の自分の顔はどうなっているのだろうか。
具合が悪そうに見えているならばまだましだが、発情で歪んだ顔になっていたらすぐさまアルファの餌食になってしまう。幸い、学生が自分を遠巻きにしており、発情期のフェロモンにあてられたアルファはいないのが救いだった。
──照がいたら、心強いのに。
残念なことに、照は今日大学に来ていないらしかった。普段なら二限でマナブと一緒の講義に出るはずだ。彼女も大学に来ていれば講義をさぼる姿は見たことがないので、姿が見えないということは大学にいないのだろう。
一人でいることに慣れきっている、と思っていたものの、実際はそうではなかったらしい。学にとって、照が一緒にいることは日常になってしまっていたのである。隣で講義を受け、食堂でご飯を食べ、放課後図書館で一緒に過ごす。些細なことだが、今の学にとってはすべて特別なことだった。
今日は友人の九郎もいない。照と違う講義の時は一緒に行動していたものの、学が照と一緒に行動する日だと頭の中に入っている優秀な彼は、今日は学の近くにはいなかった。
帰ろう、と学は思った。身体はだるい、勉強に集中もできない。今日大学に来た目的は照と仲直りをするためだったのだから、照がいなければ仕方がない。しかも、今の強さの発情期ならば照に影響を及ぼしてしまう可能性もある。そして、この惚けた頭では照に自分の話したいことが話せないかもしれない、といまさらながらに気が付く。
体調が万全になってから、照と話をしよう。そう思って学は、体調が悪いから帰る、と照にチャットメッセージを送った。既読は付かないが、見てくれることを祈って。
帰る準備をし始めたものの、しかし、学は自分の体力がそこまでないように感じていた。抑制剤を追加で飲んだ。薬が効いて症状が落ち着くまで保健センターにでもベッドを借りるのが良いかもしれない。学内には学以外にも一応、オメガはいる。急なヒートを起こした時のために駆け込みで救護室がないわけでもない。ふらふらと行き倒れるよりも良い選択だ。
学がそう思って席を立った時だった。
「おい、水野」
アルファが学に絡んできた。図書館で声をかけてきた、派手な活動をしているアルファである。学の様子がおかしいのに感づかれたらしい。にたにた笑いながらこっちに寄ってきて顔を覗き込まれる。
「何」
「今日はお姫様と一緒じゃないらしいな? 喧嘩でもした?」
妙に赤く火照った顔でニタニタ笑っているのは、学の発情期にあてられているからだろうか。力を誇示しようとする表情とは違った下卑た顔を見て、学に不快感が走る。それを知ってか知らずか、アルファは学に向かって熱い息を吐いた。
オメガのフェロモンを嗅げばアルファは抗えないと聞くが、抑制剤の威力は素晴らしい。アルファが意識を飛ばして学を襲わない程度には、学のフェロモンは抑制剤で押さえられているのだった。
自分はかなり無謀な状態で外を歩いていたのだと、学はいまさらながらに思った。
「別に。照だって今日来てないだろ」
「姿が見えてないだけじゃないのか?」
アルファが茶化すように言った。
「体調悪い時だってあるだろ。人のことに口出しすんなよ」
学がアルファを押しのけて立ち上がる。付き合っていられない。救護室で休もうと思ったが、乗り込まれては大変だ。学は家に帰ることに決め、荷物をまとめる。
「水野も体調悪そうじゃん。感じてますーって顔してるぜ」
揶揄うように笑うアルファを、学は睨みつけた。自分の顔が発情で歪んでいるのは自覚しているが、他人に蕩け切った顔なんぞ言われる筋合いはない。大して知らないアルファなら余計に、だ。
真正面から相手を睨みつける。相手のすべてを奪う気持ちで目をそらさない。学はアルファに対抗するために敵意をむき出しにした。
普段なら相手を凍り付かせるそのしぐさだが、逆効果になってしまった。アルファにとって、その表情は煽情的ともいえる、相手を試すような表情となってしまったらしい。
学の顔を見たアルファが顔を赤く染めたまま、獣のように目を剥いた。学の肩に手をかけ、そのままその場で押し倒そうとぐっと力を込められる。こんな公衆の面前で事に及ぼうとするなんて学の想像の範囲外だったが、かつては公共の場で犯されたオメガもいる事件があったとも聞く。
学はぞっとした。こめかみにざわざわとした感覚が生じる。寒気がする。触れられるのもごめんだ、とアルファの肩を押しかえした。ほとんどタックルだった。頓服でも抑制剤を飲んでいてよかった。通常分だけでは、力が出なかったに違いない。
予想外の学の反撃を受けて、アルファが床に転がった。他のアルファが助け起こす。別のアルファが学の周囲を囲んだ。突き飛ばしたアルファが怒りの形相で学に近づいてきて、学を床に転がそうとした。抵抗する。肩を押さえられ、学は膝をつかされた。
「ずいぶん反抗するじゃん。もしかして初めてとか?」
下品な詮索にはらわたが煮えくり返る。力づくで個人的な事情を暴くような、こんな侮辱は初めてだ。アルファ達に捕まっているという焦りもあるが、それ以上に学は怒りで震えていた。初めては夜景の見えるホテルでとは言わないが、こんな奴らに、公衆の面前で犯されるなんてごめんだった。
「ここだと目立つじゃん。ちゃんとした場所行こうよ」
アルファたちが頷きあい、学を拘束してどこかに連れ出そうとする。周囲の人間は遠巻きにして様子を見ているが、男の集団におじけづいて固まっているようだった。アルファの男の集団に口を出して、反撃されたらひとたまりもないだろう。学もそれは理解していた。
従順についていくふりをして立ち上がる、学が力を抜いたせいか、脇を固めたアルファの力も弱まった。その隙を見て振り払う。追いかけてくるかもしれないが、もっと人目が多いところで助けを求めよう、と学は走り出す。
学の後ろから声が聞こえた。
「照ちゃんどうなってもいいの?」
その言葉で足を止めざるを得なかった。
今、照の名前が出ただろうか。そして、どうなってもいいとはどういうことだろう。この連中の話だから、少なくともただ座らせているわけではないはずだ。
何か起こそうとしているのか、もう何か起こった後なのか。
学の全身から血の気が引いた。今、自分が押し倒されて自由を奪われそうになった時よりも激しく心臓が鳴り、暴れまわる。耳から心臓が出そうなほどの鼓動は乱れているように聞こえた。全身に汗が噴き出し、手ががくがくと震えはじめる
「お前ら、照に何した」
「まだ何もしてない」
アルファがニタニタと笑いながら言った。
「水野が黙ってついて来てくれたら、照ちゃんに合わせてあげるよ」
おとなしくしていたら何もしないという。
照に何かされたら終わりだ。
自分がいない間に、照を危ない目に合わせてしまった。
予想もしなかった悪感情、強い絶望感を味わい、学はヒートが悪化したのがわかった。ふらふらとその場に膝をつく。
その脇をアルファが抱えた。
「照のいる場所に連れていけ」
そう言った学を抱えて、アルファたちがひと気のない教室へと歩き始める。頭を殴られたような衝撃でふらふらと足取りがおぼつかない。
学は照の事しか考えられなくなっていた。
──照、無事でいろ。
離れた教室に着いた。
照はアルファに拘束されていた。


