土曜日、学は照と共にスケッチブックを買いに街の中を歩いていた。普段通りの格好をしていたら、人目を集めてしまう。ここは大学ではないのでそれは避けたい……、と学は大き目のマスクで顔を隠していた。おまけに縁が太めの伊達メガネまで着用だ。隣りにいる照も同様である。赤い眼鏡姿にちっちゃなピンク色のマスクを付けて似合っていた。顔が小さくて子供用のマスクしか使えないらしい。なるほど、子供のマスクはカラフルなものが多いのか、と学は思った。
「なんか芸能人みたいだな」
お忍びで外に遊びに行くようなファッションで学は言った。花粉症シーズンも過ぎて逆に目立っているかもしれないが、少なくとも顔で正体はばれないだろう。学一人なら目立とうがどうでもいい。しかし、ワイドショーを見るような層は照がいばら財閥の御令嬢だと見抜くに違いない。今日はSPも離れたところにいる。人ごみを避けるためにはやはり顔を隠して、紛れた方が良いのだった。
『学は普段なにもつけないの?』
照が新しく買ったスケッチブックに書いて聞く。さっき買ったにもかかわらず、もう書いているページは四枚目で、これからしばらく使うというのにこれじゃあ心もとない。追加で二冊くらい買っていこうかとフードコートで相談している最中なのである。
照は外に出る機会を作るのは難しいと言うが、今日の感触が良ければ二度目も来れそうだ、と学は思った。目立たなければふつうはトラブルに巻き込まれることはないのだ。顔を隠せば学の顔は注目されることはない。照も変装をしていたら案外その小ささは目立たないものである。
照の質問にタピオカを飲みながら学は答えた。タピオカは照がリクエストしたもので、滅多に飲めないのだという。虫歯になるから、それから一人だとあまり人の多い場所に行けないから、という理由で。そこまで好きじゃないけど、付き合いで飲んだのだが、別にまずいというわけじゃなくて驚く。
「つけないなあ。もう慣れっこだし。見られるのは好きじゃないけど……」
そう言いかけて、学は口を閉じた。照が学の目をじっと見ているのだ。目が合っても照は学の目を見据えている。照はいつも、学の顔を真正面からめちゃくちゃ見る。
目を奪われている、でも値踏みされている、そんな視線にさらされているのは物心ついた時からだ。
自分で言うのもなんだが、この美しい顔では仕方がないと思う。誰もが恍惚の表情で学の顔を見て、黙り込む。声をかけてもなかなか正気に戻らずに、戻ったとしてもどこかよそよそしい。壁のあるような扱われ方をする。そして、学のことがオメガだとわかると急に悔し気な怒りの感情、嫉妬と羨望の入り混じった感情をぶつけられたり、嘲笑のまとにされたりするのだ。その落差を経験すると、見られることに慣れっこにもなるだろう。
自分で自分の顔を見て恍惚状態に陥ったりはしないが、鏡を見るたびに派手な顔だな……と思う時はある。いろいろなことを思い出すので、学はあまり自分の顔を見ないようにしていた。
学自身ですらあまり見ることが少ない学の顔を照は見ている。その視線は妬みや嫉みを抱いている表情ではない。かといって、羨望と欲で自分のことを値踏みしているような目ではない。ただ、じっと眺めているのである。学の顔をまっすぐに見つめてくる人はいない。他の人からは感じない不思議な視線だ。何が違うのかわからないが、と慣れていない学は最近ドキドキと心臓が鳴る。
照は普段は変装しないのか? と学は聞き返した。学は一般人だが、照はお嬢様。しかもいばら財閥の娘だ。何かあれば、一般人と違って事件になるだろう。そんなトラブルを回避するために変装しないのか、照が疑問に思ったのと同様に学も気になったのである。
『車で移動するから。』
「どこでも?」
『どこでも。』
照りは犬の散歩も車で行くらしい。その話を聞いて、学は思わず吹き出してしまった。散歩の意味がない。車の後部座席で照と犬がくつろいでいるのを想像すると、些細なことだが笑いが止まらなくなってしまった。
目立たないようにしているのも忘れて、学は声を立てて笑ってしまう。笑いすぎてちょっと涙が出てきた。照はというと、学を見て呆然としている。
「どうした?」
学が笑いすぎて涙をふきながら聞いた。照の話は相当おかしい。すると、彼女は次のように返してきた。
『笑われたの初めて。』
そう書かれたスケッチブックをみて、慌てて学はごめんと謝る。学には笑い事だが、照には日常らしい。庶民には全然想像がつかないから、と弁解する。
「別にばかにしてるわけじゃないんだ。でも、別世界の話だから」
照はその言葉にうんと頷いた。
『ううん、笑ってくれてありがとう。』
続けて、
『友達が笑ってくれたことがないから嬉しい。』
曰く、彼女はしゃべらないのでやはり友達はおらず、いろんな人から距離を置かれてきた。よそよそしく振る舞われるし、何ならちょっと失礼な扱いをしてきた人も多い──便宜を買ってくれとか──、照が懐柔しやすそうに見えるからだという。だから、家の話を友達に披露するのは今日が初めて。それを笑われるのも初めて。こうやって、笑ってくれる人がいるのはわからなかったとはしりがきで書いた。
その言葉を読んで、照も学と一緒で、人から距離を置かれて過ごしていたんだな、と学は思った。顔と境遇、理由は違えども同じことで悩んでいる。照とスケッチブックで話をするようになってから、気が合って居心地がいいと思っていたのは、同じ悩みがあるからかもしれない。
学が照の書いた『笑ってくれてありがとう』の字を見ているのを見て、照がうかがうような視線を学に向けてきた。ちょっと心配そうな顔で学の顔を覗き込んでいる。学が何を考えているのか気になっているのかもしれない。そして、学も自分の考えていることを照に伝えたかった。
「いや、照も頑張ってきたんだな、と思ったんだ」
学のその言葉を聞いて、急に照が居心地悪そうに、もじもじとし始めた。その落ち着かない様子を見て、何かまずい発言をしたかと学も気が気でない。
すると照りは学からスケッチブックを取り返して、おずおずと何か書き始めた。書いたり消したりして、普段の照とは様子が違う。そして、ちょっと長めに書く時間があって、照は学にスケッチブックを見せてきた。
『頑張ってるって言われてうれしい。』
その言葉を見せてから照さっとスケッチブックを裏返す。様子が普段の照とは違い、照れているのがわかった。照の態度を見て、自分もなんか恥ずかしいことを言ってしまったんじゃないかと学も焦る。
居心地の悪い空気だが、ネガティブに感じるものではない。
照の言葉に学は返事をしたいと思った。
「うん、頑張ってるよ。あの、僕も一緒に頑張る」
学の言葉を聞いて、照がふわっと笑った。いつもの笑うのを我慢しているようなにやにやした顔ではなく、にっこりと目を細めて笑ってくれたのだ。
その顔を見て、学は照のことをかわいいと思った。
「なんか芸能人みたいだな」
お忍びで外に遊びに行くようなファッションで学は言った。花粉症シーズンも過ぎて逆に目立っているかもしれないが、少なくとも顔で正体はばれないだろう。学一人なら目立とうがどうでもいい。しかし、ワイドショーを見るような層は照がいばら財閥の御令嬢だと見抜くに違いない。今日はSPも離れたところにいる。人ごみを避けるためにはやはり顔を隠して、紛れた方が良いのだった。
『学は普段なにもつけないの?』
照が新しく買ったスケッチブックに書いて聞く。さっき買ったにもかかわらず、もう書いているページは四枚目で、これからしばらく使うというのにこれじゃあ心もとない。追加で二冊くらい買っていこうかとフードコートで相談している最中なのである。
照は外に出る機会を作るのは難しいと言うが、今日の感触が良ければ二度目も来れそうだ、と学は思った。目立たなければふつうはトラブルに巻き込まれることはないのだ。顔を隠せば学の顔は注目されることはない。照も変装をしていたら案外その小ささは目立たないものである。
照の質問にタピオカを飲みながら学は答えた。タピオカは照がリクエストしたもので、滅多に飲めないのだという。虫歯になるから、それから一人だとあまり人の多い場所に行けないから、という理由で。そこまで好きじゃないけど、付き合いで飲んだのだが、別にまずいというわけじゃなくて驚く。
「つけないなあ。もう慣れっこだし。見られるのは好きじゃないけど……」
そう言いかけて、学は口を閉じた。照が学の目をじっと見ているのだ。目が合っても照は学の目を見据えている。照はいつも、学の顔を真正面からめちゃくちゃ見る。
目を奪われている、でも値踏みされている、そんな視線にさらされているのは物心ついた時からだ。
自分で言うのもなんだが、この美しい顔では仕方がないと思う。誰もが恍惚の表情で学の顔を見て、黙り込む。声をかけてもなかなか正気に戻らずに、戻ったとしてもどこかよそよそしい。壁のあるような扱われ方をする。そして、学のことがオメガだとわかると急に悔し気な怒りの感情、嫉妬と羨望の入り混じった感情をぶつけられたり、嘲笑のまとにされたりするのだ。その落差を経験すると、見られることに慣れっこにもなるだろう。
自分で自分の顔を見て恍惚状態に陥ったりはしないが、鏡を見るたびに派手な顔だな……と思う時はある。いろいろなことを思い出すので、学はあまり自分の顔を見ないようにしていた。
学自身ですらあまり見ることが少ない学の顔を照は見ている。その視線は妬みや嫉みを抱いている表情ではない。かといって、羨望と欲で自分のことを値踏みしているような目ではない。ただ、じっと眺めているのである。学の顔をまっすぐに見つめてくる人はいない。他の人からは感じない不思議な視線だ。何が違うのかわからないが、と慣れていない学は最近ドキドキと心臓が鳴る。
照は普段は変装しないのか? と学は聞き返した。学は一般人だが、照はお嬢様。しかもいばら財閥の娘だ。何かあれば、一般人と違って事件になるだろう。そんなトラブルを回避するために変装しないのか、照が疑問に思ったのと同様に学も気になったのである。
『車で移動するから。』
「どこでも?」
『どこでも。』
照りは犬の散歩も車で行くらしい。その話を聞いて、学は思わず吹き出してしまった。散歩の意味がない。車の後部座席で照と犬がくつろいでいるのを想像すると、些細なことだが笑いが止まらなくなってしまった。
目立たないようにしているのも忘れて、学は声を立てて笑ってしまう。笑いすぎてちょっと涙が出てきた。照はというと、学を見て呆然としている。
「どうした?」
学が笑いすぎて涙をふきながら聞いた。照の話は相当おかしい。すると、彼女は次のように返してきた。
『笑われたの初めて。』
そう書かれたスケッチブックをみて、慌てて学はごめんと謝る。学には笑い事だが、照には日常らしい。庶民には全然想像がつかないから、と弁解する。
「別にばかにしてるわけじゃないんだ。でも、別世界の話だから」
照はその言葉にうんと頷いた。
『ううん、笑ってくれてありがとう。』
続けて、
『友達が笑ってくれたことがないから嬉しい。』
曰く、彼女はしゃべらないのでやはり友達はおらず、いろんな人から距離を置かれてきた。よそよそしく振る舞われるし、何ならちょっと失礼な扱いをしてきた人も多い──便宜を買ってくれとか──、照が懐柔しやすそうに見えるからだという。だから、家の話を友達に披露するのは今日が初めて。それを笑われるのも初めて。こうやって、笑ってくれる人がいるのはわからなかったとはしりがきで書いた。
その言葉を読んで、照も学と一緒で、人から距離を置かれて過ごしていたんだな、と学は思った。顔と境遇、理由は違えども同じことで悩んでいる。照とスケッチブックで話をするようになってから、気が合って居心地がいいと思っていたのは、同じ悩みがあるからかもしれない。
学が照の書いた『笑ってくれてありがとう』の字を見ているのを見て、照がうかがうような視線を学に向けてきた。ちょっと心配そうな顔で学の顔を覗き込んでいる。学が何を考えているのか気になっているのかもしれない。そして、学も自分の考えていることを照に伝えたかった。
「いや、照も頑張ってきたんだな、と思ったんだ」
学のその言葉を聞いて、急に照が居心地悪そうに、もじもじとし始めた。その落ち着かない様子を見て、何かまずい発言をしたかと学も気が気でない。
すると照りは学からスケッチブックを取り返して、おずおずと何か書き始めた。書いたり消したりして、普段の照とは様子が違う。そして、ちょっと長めに書く時間があって、照は学にスケッチブックを見せてきた。
『頑張ってるって言われてうれしい。』
その言葉を見せてから照さっとスケッチブックを裏返す。様子が普段の照とは違い、照れているのがわかった。照の態度を見て、自分もなんか恥ずかしいことを言ってしまったんじゃないかと学も焦る。
居心地の悪い空気だが、ネガティブに感じるものではない。
照の言葉に学は返事をしたいと思った。
「うん、頑張ってるよ。あの、僕も一緒に頑張る」
学の言葉を聞いて、照がふわっと笑った。いつもの笑うのを我慢しているようなにやにやした顔ではなく、にっこりと目を細めて笑ってくれたのだ。
その顔を見て、学は照のことをかわいいと思った。


