目的は――市街の視察だった。
戦後の復興が進み、町並みは少しずつ以前の活気を取り戻しているものの、まだ瓦礫の残る一角や、焼け焦げた建物が痛々しく残っていた。
「セレナ様……この道、足元が不安定です。お身体に触ります」
「大丈夫よ、エリナ。むしろ、この目で見たいの。私たちが守りたいと思っている“民の暮らし”を」
セレナは布を深く被り、身分を隠したまま人々の間を歩いた。
周囲には気づかれぬように距離を保ちつつ、アグレイス直属の近衛兵が数名、警戒していた。
焼け残った教会の前に差しかかると、小さな少女がひとり、祈りを捧げていた。
「……神様、ママがもう一度笑えますように。ごはんも食べられますように……」
その声に、セレナは足を止めた。
「こんにちは」
少女が驚いて顔を上げると、セレナは静かに微笑んだ。
「あなたは……誰?」
「旅の途中の者よ。でも、あなたの声が聞こえたの。とても優しい願いね」
「ううん……わたし、なにもできない。お母さん、毎晩泣いてる。ごはんもないし……」
少女の目に、寂しさがにじむ。
セレナはそっとしゃがみ、目線を合わせた。
「あなたがそばにいてくれるだけで、お母さんは救われているわ。あなたの祈りは、必ず届く。……だから、どうか自分を責めないで」
その言葉に、少女の頬が少し赤らんだ。
そして、セレナはそっと少女の手を握る。
(この子も、この国の未来を生きるひとり)
(私は、たとえ一瞬でも――この子に“温もり”を渡したい)
そばにいたエリナが、用意していた袋を差し出した。
中には干し肉と乾パン、果物に包帯、そして温かい毛布が入っている。
「これを……よければ、使ってくれる?」
少女は驚いたように見つめたあと、ぶるぶると頭を下げた。
「ありがとう……ありがとう!」
その瞬間、セレナの胸の奥に、静かな熱が灯った。
(これで救えるのは、たった一人。でも、この“たった一人”を見つめることが、私の責務なのね)
少女が去ったあと、エリナがそっと言った。
「……王妃様。貴族の間で何を言われようと、今のあなたを否定できる者など、誰ひとりいません」
セレナは少しだけ笑い、空を見上げた。
青く澄んだ夏空。その向こうに、確かに未来が続いているような気がした。
その夜、王城に戻ったセレナは、アグレイスに今日の出来事を話した。
「一人の少女と出会ってね……彼女の祈りを聞いたの」
アグレイスは静かに耳を傾け、そして深く頷いた。
「君の言葉は、どれほど民を救っていることか。……肩書きより、君の“在り方”こそが、真の力だと俺は思う」
「ありがとう、アグレイス。でも……」
「でも?」
セレナは少し眉を寄せた。
「このままでは、もっと多くの子どもたちが、悲しみに暮れる日が来るかもしれない。そうならないように、民に直接語りかける場を作りたいの。祈りの場でも、街頭でもいい。けれど、“声”を交わしたいの」
アグレイスの瞳がわずかに見開かれた。
それはかつて、妃が表に出ることを避けるのが常識だったこの国では、極めて珍しい提案だった。
「……危険が伴う。それでも、やるのか?」
「ええ。この命を宿しているからこそ、民の痛みにも触れられる。私のこの身体が、誰かの希望になるなら――」
その瞳には、妃としての自覚以上の、深い“母の眼差し”が宿っていた。
アグレイスは言葉なく、そっと彼女の手を取り、唇を落とした。
「……ならば、全力で君を守る。君の声が、国の祈りになるように」
その夜、風の音がやさしく響いていた。
静かだが確かに――時代の歯車が動き出していた。



