あれから一度だけ、「なにもなくてよかったね」というような話を黄瀬先輩とした。それ以降はただの生徒と生徒会副会長という、互いの秘密を知る前の状態に戻った。
平凡な日常。部屋の中で気まぐれにペンギンを歩かせたり鳩を飛ばしたりしながら、何も起こらない日々を過ごす。
ある日。六月の半ばのことである。
放課後、玄関に向かって廊下を歩いていたわたしの目の前に狐のマスコットが転がって出て来た。耳の先と尻尾が赤色で、首に小さい鈴が付いている。
「落とし物――」
「よう、嬢ちゃん。今、ヒマかい?」
――ザクロだ。
ナンパしてくるチャラ男みたいな声のかけ方をしてくるかわいらしい狐ちゃんの人形である。外見と中身が本当に不釣り合いだよ。
拾い上げて周りを見ると、廊下の角に先輩が立っているのが見えた。
あ、目が合った。先輩、控えめにこっちに手を振ってる。手招きまでしてる!
わたしに用事……?
わたしですか? と自分を指差すと、先輩は小さく頷く。そして、くるりと背を向けて歩き出した。
「付いて行きな、嬢ちゃん」
「うん……」
先輩は時々こちらを振り返ってわたしが付いて来ているのを確認しながらどんどん進んでいく。あっちは生徒会室の方向ではないよね。どこへ連れて行くつもりなんだろう。
しばらく歩いて、辿り着いたのは家庭科室だった。
窓際に置かれたミシンが静かに並んでいる。どこかのクラスの調理実習でもあったのか、かすかに料理の匂いがしていた。
「いいんですか、勝手に家庭科室入って」
「今日、おれの班が掃除だったんだ。家庭科室。みんなには先に帰ってもらって、ね」
振り向いた先輩が、手元で家庭科室の鍵を揺らした。
「鍵は早く返さないといけないから、さっさと要件を話して早めに切り上げよう」
「わたしに、何か……」
「鈍色屋敷について」
「それは解決したんですよね。迷い犬だったって」
先輩は首を横に振った。
違うの?
「迷い犬が原因で、それで解決したんだったらよかったんだけどね。まだ、なんだ。袋小路に住んでいるおじいさんから、鈍色屋敷の方から変な物音が聞こえることがあると直接依頼があった。自分で調べに行けたらいいのだけれど、やはり恐ろしいので専門家に頼みたい、と」
「え……。あっ、おじいさんは先輩の家のこと知って……?」
「いや、知らないよ。ただ、こういう、妖怪とか幽霊とかに関わる仕事をしている人間に仕事を斡旋している人がいてね。その人のところに依頼があって、近くだからとうちに話が回って来たんだ。前回は近所の小物妖怪から話があって、それでうちが自主的に動いていたんだけど……。正式な依頼だから、もっと念入りに調べて今度こそ解決しないといけない」
「じゃあ、もう一度鈍色屋敷に」
「藍野さん」
先輩は姿勢を正した。と思ったら、深々と頭を下げた。
この人はきっと、頑張り屋さんなんだ。一人前になれるように、いつも頑張っている。でも、だからといってがむしゃらに進んだり一人で無茶をしたりするわけではない。例えそれを情けないと思っても、自分だけでは難しいと思ったら誰かに協力を求めることができる。それって、勇気あることだよね。
こんなに「いい子」を具現化したみたいな先輩が、あの「なんか嫌なやつ」なコスプレ男子の中身なんだ……。
「おれに、また、力を貸してほしい」
「先輩、顔上げてください」
「前回はかっこわるいおれがすぐに逃げてしまったから、調査と呼べるほどのことはできていない。……今回は、屋敷の中まで入ろうと思ってる。だから、起こっている現象によってはきみをかなり危険な目に遭わせてしまうかもしれない。……先に謝っておく。ごめんなさい、藍野さん。だ、ダメだったら遠慮なく断ってくれていいから!」
「危なかったら、先輩とザクロが守ってくれるんですよね」
「それは」
先輩が顔を上げる。犬にびっくりして泣きながら逃げ出したとは思えない、きりっとした顔だった。
ちょっと、かっこいい……かも。
「それは、約束する」
「約束、ですよ」
「じゃあ……!」
「わたし、先輩に協力します。前回は、なんだか不完全燃焼だったし。わたし自身、先輩の力になれたのかどうか分からなくて、魔法の力もほとんど練習にもならないくらいしか使えなかったし。それに……」
世の中には、ひどく難しい折り紙がある。何枚もの折り紙で作られた大きな作品や、たった一枚で異様なほど細かく折られた作品など。それらを見る度に、わたしの心は震えた。
いつか、あれを折ることができたら。
あれを動かせたら、きっと楽しい。
作りが細かければ細かいほど、できあがりが大きければ大きいほど、紙の隅々まで力をいきわたらせることは困難を極める。わたしはまだ、簡単な作品しか動かせない。
力を得るには、小さな「できた」の積み重ねが大事である。練習。修行。復習。実践。
魔法使いというものは研究者だ。
魔法使いというものは探究することが大好きだ。
魔法使いというものは馬鹿である。
己の身が危険に晒されれば晒されるほど、より高みを目指す気持ちが昂り、魂が揺さ振られ、はしたなく興奮する。その果てに、強力な魔法を手に入れられるんだ。
好奇心旺盛で怖いもの知らずの叡智に満ちた愚か者達の血が、わたしの身に確かに流れている。
ただの中学生の藍野エルは平凡な日々が好き。
けれど――。
魔法使いの末裔の藍野エルは刺激を求めていた。
黄瀬先輩と、一緒なら……!
「それに、魔法使いというものは総じて好奇心旺盛で怖いもの知らずです。目の前に己の力を試すことのできる試練があるのなら、喜び勇んで飛び込んで行きますよ。だから、断ったりなんてしません。頑張りましょう、先輩」
先輩は目を大きく見開いて、わたしをじっと見ていた。次第に、ぽかんと口が開く。そして、その口に手が向かった。後ずさる。
「かっ……。か、かっこいい……」
「えっ……?」
「あ、藍野さん、かっこよすぎる……! お、おれ……人からかっこいいって言われることは多々あるんだけど……人をこんなにかっこいいと思ったの、初めてだよ……!」
先輩は喜びに満ちた顔をしていた。目がキラキラとして光が溢れているようで、少女漫画の主人公がイケメンに会った時みたいな顔だ。それは本来先輩が向けられるべきものでは。
そんな顔向けられても、わたし困っちゃうよ……。どうすればいいのか分からないし……。
「お、おおげさですよ」
「え……。どうしよう……。おれ……。おれ……。え……? おれ、魔法にかけられてるんじゃないの……?」
魅力的な魔女であれば人をとりこにする魔法が使えるかもしれないけれど、わたしはそんなんじゃない。
先輩、しっかりしてください。
「あ……。じゃあ、じゃあ、藍野さん……今夜適当な時間に白紙の折り紙飛ばして! じゃあね!」
「えっ!? 先輩っ、鍵!」
わたしが制止する声を聞かずに、先輩は家庭科室の鍵を持ったまま逃げるように去ってしまった。ザクロもわたしの手の中なんだけど……。
「アイツ、落ちたな」
「落ち……?」
「まあたぶんそのうち戻って来て鍵かけるだろうから、俺様達はこのまま帰ろうぜ」
「付いて来るつもりなんだ」
狐のマスコットは動かない。けれど、首に付けている鈴がかすかに鳴った。
「だって、今の姿なんて俺様に見られたくないだろうからな」
平凡な日常。部屋の中で気まぐれにペンギンを歩かせたり鳩を飛ばしたりしながら、何も起こらない日々を過ごす。
ある日。六月の半ばのことである。
放課後、玄関に向かって廊下を歩いていたわたしの目の前に狐のマスコットが転がって出て来た。耳の先と尻尾が赤色で、首に小さい鈴が付いている。
「落とし物――」
「よう、嬢ちゃん。今、ヒマかい?」
――ザクロだ。
ナンパしてくるチャラ男みたいな声のかけ方をしてくるかわいらしい狐ちゃんの人形である。外見と中身が本当に不釣り合いだよ。
拾い上げて周りを見ると、廊下の角に先輩が立っているのが見えた。
あ、目が合った。先輩、控えめにこっちに手を振ってる。手招きまでしてる!
わたしに用事……?
わたしですか? と自分を指差すと、先輩は小さく頷く。そして、くるりと背を向けて歩き出した。
「付いて行きな、嬢ちゃん」
「うん……」
先輩は時々こちらを振り返ってわたしが付いて来ているのを確認しながらどんどん進んでいく。あっちは生徒会室の方向ではないよね。どこへ連れて行くつもりなんだろう。
しばらく歩いて、辿り着いたのは家庭科室だった。
窓際に置かれたミシンが静かに並んでいる。どこかのクラスの調理実習でもあったのか、かすかに料理の匂いがしていた。
「いいんですか、勝手に家庭科室入って」
「今日、おれの班が掃除だったんだ。家庭科室。みんなには先に帰ってもらって、ね」
振り向いた先輩が、手元で家庭科室の鍵を揺らした。
「鍵は早く返さないといけないから、さっさと要件を話して早めに切り上げよう」
「わたしに、何か……」
「鈍色屋敷について」
「それは解決したんですよね。迷い犬だったって」
先輩は首を横に振った。
違うの?
「迷い犬が原因で、それで解決したんだったらよかったんだけどね。まだ、なんだ。袋小路に住んでいるおじいさんから、鈍色屋敷の方から変な物音が聞こえることがあると直接依頼があった。自分で調べに行けたらいいのだけれど、やはり恐ろしいので専門家に頼みたい、と」
「え……。あっ、おじいさんは先輩の家のこと知って……?」
「いや、知らないよ。ただ、こういう、妖怪とか幽霊とかに関わる仕事をしている人間に仕事を斡旋している人がいてね。その人のところに依頼があって、近くだからとうちに話が回って来たんだ。前回は近所の小物妖怪から話があって、それでうちが自主的に動いていたんだけど……。正式な依頼だから、もっと念入りに調べて今度こそ解決しないといけない」
「じゃあ、もう一度鈍色屋敷に」
「藍野さん」
先輩は姿勢を正した。と思ったら、深々と頭を下げた。
この人はきっと、頑張り屋さんなんだ。一人前になれるように、いつも頑張っている。でも、だからといってがむしゃらに進んだり一人で無茶をしたりするわけではない。例えそれを情けないと思っても、自分だけでは難しいと思ったら誰かに協力を求めることができる。それって、勇気あることだよね。
こんなに「いい子」を具現化したみたいな先輩が、あの「なんか嫌なやつ」なコスプレ男子の中身なんだ……。
「おれに、また、力を貸してほしい」
「先輩、顔上げてください」
「前回はかっこわるいおれがすぐに逃げてしまったから、調査と呼べるほどのことはできていない。……今回は、屋敷の中まで入ろうと思ってる。だから、起こっている現象によってはきみをかなり危険な目に遭わせてしまうかもしれない。……先に謝っておく。ごめんなさい、藍野さん。だ、ダメだったら遠慮なく断ってくれていいから!」
「危なかったら、先輩とザクロが守ってくれるんですよね」
「それは」
先輩が顔を上げる。犬にびっくりして泣きながら逃げ出したとは思えない、きりっとした顔だった。
ちょっと、かっこいい……かも。
「それは、約束する」
「約束、ですよ」
「じゃあ……!」
「わたし、先輩に協力します。前回は、なんだか不完全燃焼だったし。わたし自身、先輩の力になれたのかどうか分からなくて、魔法の力もほとんど練習にもならないくらいしか使えなかったし。それに……」
世の中には、ひどく難しい折り紙がある。何枚もの折り紙で作られた大きな作品や、たった一枚で異様なほど細かく折られた作品など。それらを見る度に、わたしの心は震えた。
いつか、あれを折ることができたら。
あれを動かせたら、きっと楽しい。
作りが細かければ細かいほど、できあがりが大きければ大きいほど、紙の隅々まで力をいきわたらせることは困難を極める。わたしはまだ、簡単な作品しか動かせない。
力を得るには、小さな「できた」の積み重ねが大事である。練習。修行。復習。実践。
魔法使いというものは研究者だ。
魔法使いというものは探究することが大好きだ。
魔法使いというものは馬鹿である。
己の身が危険に晒されれば晒されるほど、より高みを目指す気持ちが昂り、魂が揺さ振られ、はしたなく興奮する。その果てに、強力な魔法を手に入れられるんだ。
好奇心旺盛で怖いもの知らずの叡智に満ちた愚か者達の血が、わたしの身に確かに流れている。
ただの中学生の藍野エルは平凡な日々が好き。
けれど――。
魔法使いの末裔の藍野エルは刺激を求めていた。
黄瀬先輩と、一緒なら……!
「それに、魔法使いというものは総じて好奇心旺盛で怖いもの知らずです。目の前に己の力を試すことのできる試練があるのなら、喜び勇んで飛び込んで行きますよ。だから、断ったりなんてしません。頑張りましょう、先輩」
先輩は目を大きく見開いて、わたしをじっと見ていた。次第に、ぽかんと口が開く。そして、その口に手が向かった。後ずさる。
「かっ……。か、かっこいい……」
「えっ……?」
「あ、藍野さん、かっこよすぎる……! お、おれ……人からかっこいいって言われることは多々あるんだけど……人をこんなにかっこいいと思ったの、初めてだよ……!」
先輩は喜びに満ちた顔をしていた。目がキラキラとして光が溢れているようで、少女漫画の主人公がイケメンに会った時みたいな顔だ。それは本来先輩が向けられるべきものでは。
そんな顔向けられても、わたし困っちゃうよ……。どうすればいいのか分からないし……。
「お、おおげさですよ」
「え……。どうしよう……。おれ……。おれ……。え……? おれ、魔法にかけられてるんじゃないの……?」
魅力的な魔女であれば人をとりこにする魔法が使えるかもしれないけれど、わたしはそんなんじゃない。
先輩、しっかりしてください。
「あ……。じゃあ、じゃあ、藍野さん……今夜適当な時間に白紙の折り紙飛ばして! じゃあね!」
「えっ!? 先輩っ、鍵!」
わたしが制止する声を聞かずに、先輩は家庭科室の鍵を持ったまま逃げるように去ってしまった。ザクロもわたしの手の中なんだけど……。
「アイツ、落ちたな」
「落ち……?」
「まあたぶんそのうち戻って来て鍵かけるだろうから、俺様達はこのまま帰ろうぜ」
「付いて来るつもりなんだ」
狐のマスコットは動かない。けれど、首に付けている鈴がかすかに鳴った。
「だって、今の姿なんて俺様に見られたくないだろうからな」
