可惜夜中学校のすぐ隣。そこに、鈍色屋敷は静かに佇んでいる。レンガでできた塀はところどころが崩れ、かつては美しい花が咲いていただろう植木鉢には水と泥が溜まり、表札が掲げられていたはずのくぼみには誰かがいたずらで入れたらしいどんぐりが押し込まれていた。
壊れたレンガの塀の向こうは、鬱蒼とした林である。まだ午後四時を少し過ぎた頃。周りは明るいのに、塀の向こうだけが真夜中のように暗くなっていた。
その昔、立派なお屋敷が建っていた。外国から来たお金持ちが住んでいたとか、地元の名手が住んでいたとか、今となっては元々誰のものだったのかはっきりしていない。
ある日、不幸な事故があった。詳しいことは分からないけれど、それでお屋敷からは誰もいなくなってしまったんだって。
主を失った屋敷は放置され、草木が伸び、華やかだった雰囲気を不気味なものに変えてしまった。取り壊そうという話も出たけれど、工事の関係者が怪我をすることが相次いで中止になったそうだ。
そんないわくつきの不審なお屋敷へ、肝試しにやってきた可惜夜中学校の生徒達がいた。彼らは随分と酷い目に遭ったそうで、その噂は学校の中でたくさんの尾ひれと共に語り継がれている。
周りに影を落とす木々を見上げて、黄瀬先輩は口を真一文字に結んでいる。
「先輩、こうやって近くに来てみると迫力がありますね」
わたしが声をかけると、先輩はびくっと体を震わせてからこちらを向いた。
「い、入口自体は学校とは反対を向いているし、ここは袋小路の奥だから普段あまりこっちからは見ないもんね。こんな感じなんだね」
「声が……震えていますよ……」
「ミナトしっかりしろよな! 嬢ちゃんに心配されてるぞ!」
先輩の手の平の上で狐のマスコットが声を上げる。見た目はかわいらしいお人形で声もかわいいのに、口調がとても荒い。外見から想像されるものと比べると荒すぎる。
「おれ本当にホラー苦手で……。祓い屋として、情けない……。いや、いやいや、でも、ほら、妖怪は生き物だし……。だから、幽霊は別じゃん……」
先輩は収穫されないまま干からびてしまった家庭菜園の野菜みたいな顔になっている。しなしなである。
妖怪と、幽霊やおばけは別物らしい。
妖精や魔物と、ゴーストとは異なるものであるとひいおじいちゃんが言っていた。たぶんそれと同じ感じなんだろう。
かわいい妖精も気味の悪い魔物も普通の人には見えない存在だけれど、それらは生き物なので死んでしまったものとは違うのだという。イギリスから持って来た古い絵本に描かれた魔物の絵を見て小さなわたしは震えたけれど、お友達になった子もいるのだというひいおじいちゃんの話を聞いて平気になった。けれど、ゴースト……幽霊やおばけは魔法使いでも仲良くなるのは難しいことが多いらしい。それを聞いて、小さなわたしは結局震えあがることになる。
だからわたしもホラーは苦手だけれど、こんなに目に見えて怖がっている先輩を見ているとなんだか逆に落ち着いてきちゃったな。
「うーん……。大丈夫。大丈夫。怖くない。怖く、ない……! ……うん。あまりここに長居して誰かに見付かっても困るし、さっさと中に入ってしまおうか」
鈍色屋敷の前、袋小路には古そうな民家が並んで建っている。その中には噂を恐れて家主が逃げ出した空き家もあるし、今もひっそりとお年寄りが暮らしている家もある。人の通りは少ないけれど、「可惜夜中の生徒がいましたよ」なんて通報されては困るよね。
門には立ち入り禁止の札と鎖が掛けられている。ひょいと鎖を飛び越えて、振り返った先輩はわたしに手を差し伸べる。
「藍野さん」
わたしは鎖に引っ掛けてしまわないようにスカートの端を左手で掴んで、右手で先輩の手を取った。優しく引っ張られ、敷地内に踏み込む。
外から姿が見えないようにレンガの塀に隠れてから、先輩はわたしのことを覗き込むように見た。
「折り紙、何枚ある?」
「何枚かは分からないんですけど、このまま持って来てます」
わたしはリュックから折り紙ケースを取り出した。たぶん、何十枚かは入っている。
「うわ、すっげえ量だな。嬢ちゃん、折り紙好きなんだな」
「わたしにできるのは、これくらいだから。できることを極めようとしたらこんなことになったの」
「藍野さん、動きの良さそうな乗り物か動物を折ってもらえるかな」
「ネズミでいいですか?」
「お願い」
灰色の折り紙を一枚、ケースから取り出す。
ここが谷折りで、そこが山折り。耳と尻尾を作って……。
小さくて素早いネズミのできあがり!
「できました!」
「作り方が頭に入ってるんだ、すごいね。おれは本の解説を見ないと金魚くらいしか作れないよ」
「この子に、この茂みの奥を調べさせるんですか」
「そうだね。あと何個かお願いしていいかな。何メートルか進んだら戻って来るようにして、斥候部隊にしよう」
「せっこう」
「先に行って様子を見て来る人のこと」
わたしは折り紙をさらにケースから出して、全部で五匹のネズミ部隊を作り上げた。「見事なもんだなぁ」とザクロが声を漏らす。
「少し進んだら戻って来て、状況を報告して。それの繰り返し。行っておいで」
地面に放つと、色とりどりのネズミ達は四方八方へ散っていった。静かに、ゆっくりと、少しずつわたし達は後を追う。
一歩、また一歩と進むにつれて周りが暗くなってきた。だんだん、木々の隙間から差し込む光が少なくなっていく。
敷地はかなり広い。まだ、建物が見えない。どこまで続くんだろう。
わたし達、このままこの林の中に溶けて消えてしまうんじゃないのかな。
「元々の家主の身に何が起こったのか、学校で七不思議としてささやかれる肝試しの話が実際にはどうだったのか。そこは不明なんだ。でも、分かっていることが一つだけある」
「それは?」
「屋敷を取り壊そうとした工事の人が怪我をした話。それは、空き家になった屋敷に住み着いていた妖怪のしわざだったんだ。当時この辺りに偶然立ち寄った流しの祓い屋が解決していて、以降は妖怪も住んでいない状態になっている。……というのが現状……の、はずなんだけど」
戻ってきたネズミに、危ないものがなかったかどうか聞く。すると、首を横に振ってネズミはまた滑るようにして茂みに飛び込んで行った。
「でも、先輩。何かが出入りしているから調べるんですよね」
「そう……。件の祓い屋が結界を仕掛けたらしくて妖怪は立ち入れないようになっていたはずで……。だから、その結界が壊れてしまっていないかどうかっていうのを調べるのもおれの仕事。結界は無事なのか、何が出入りしているのか、その二つを調べる」
「もし、結界が壊れていて危険な妖怪がいたら」
「その時は大人の祓い屋に頼むしかないかな。おれじゃ、戦えないし。弱そうな妖怪が出入りしているとか、野良猫とかならいいんだけどね」
「もし、幽霊だったら……」
ネズミの後を追って歩き出していた先輩の動きが止まった。壊れてしまったロボットのように、ぎこちない動きで振り返る。
この人、本当にホラーが苦手なんだ。
「それは……。その時は、幽霊の専門家……例えば霊能力者とか、そういう人を探して頼むしかないんじゃないかなぁ。祓い屋も妖怪も幽霊とは戦えないし……。ゆ、幽霊じゃないといいなぁ」
と、今にも震え出しそうになりながら先輩は言う。そうして再び前を向いて歩き出したところで、目の前の茂みが大きく揺れた。折り紙のネズミの動きじゃない。
直後、ぼろぼろになって破れたネズミが飛び出して来た。
「おい、何か来るぞ! 構えとけミナト!」
ザクロが叫び、そして、大きな影がわたし達の前に勢いよく現れた。それは「わん!」と力強く吠えた。黒くて、毛むくじゃらだ。
「で、出たー!」
動転した先輩が悲鳴を上げ、わたしの腕を掴んで逃げ出した。あれは犬なのでは? というわたしの声は先輩の耳には届かない。
情けなさすぎる泣き声を上げて走る先輩に引っ張られながら、わたしはその日、鈍色屋敷を後にした。
壊れたレンガの塀の向こうは、鬱蒼とした林である。まだ午後四時を少し過ぎた頃。周りは明るいのに、塀の向こうだけが真夜中のように暗くなっていた。
その昔、立派なお屋敷が建っていた。外国から来たお金持ちが住んでいたとか、地元の名手が住んでいたとか、今となっては元々誰のものだったのかはっきりしていない。
ある日、不幸な事故があった。詳しいことは分からないけれど、それでお屋敷からは誰もいなくなってしまったんだって。
主を失った屋敷は放置され、草木が伸び、華やかだった雰囲気を不気味なものに変えてしまった。取り壊そうという話も出たけれど、工事の関係者が怪我をすることが相次いで中止になったそうだ。
そんないわくつきの不審なお屋敷へ、肝試しにやってきた可惜夜中学校の生徒達がいた。彼らは随分と酷い目に遭ったそうで、その噂は学校の中でたくさんの尾ひれと共に語り継がれている。
周りに影を落とす木々を見上げて、黄瀬先輩は口を真一文字に結んでいる。
「先輩、こうやって近くに来てみると迫力がありますね」
わたしが声をかけると、先輩はびくっと体を震わせてからこちらを向いた。
「い、入口自体は学校とは反対を向いているし、ここは袋小路の奥だから普段あまりこっちからは見ないもんね。こんな感じなんだね」
「声が……震えていますよ……」
「ミナトしっかりしろよな! 嬢ちゃんに心配されてるぞ!」
先輩の手の平の上で狐のマスコットが声を上げる。見た目はかわいらしいお人形で声もかわいいのに、口調がとても荒い。外見から想像されるものと比べると荒すぎる。
「おれ本当にホラー苦手で……。祓い屋として、情けない……。いや、いやいや、でも、ほら、妖怪は生き物だし……。だから、幽霊は別じゃん……」
先輩は収穫されないまま干からびてしまった家庭菜園の野菜みたいな顔になっている。しなしなである。
妖怪と、幽霊やおばけは別物らしい。
妖精や魔物と、ゴーストとは異なるものであるとひいおじいちゃんが言っていた。たぶんそれと同じ感じなんだろう。
かわいい妖精も気味の悪い魔物も普通の人には見えない存在だけれど、それらは生き物なので死んでしまったものとは違うのだという。イギリスから持って来た古い絵本に描かれた魔物の絵を見て小さなわたしは震えたけれど、お友達になった子もいるのだというひいおじいちゃんの話を聞いて平気になった。けれど、ゴースト……幽霊やおばけは魔法使いでも仲良くなるのは難しいことが多いらしい。それを聞いて、小さなわたしは結局震えあがることになる。
だからわたしもホラーは苦手だけれど、こんなに目に見えて怖がっている先輩を見ているとなんだか逆に落ち着いてきちゃったな。
「うーん……。大丈夫。大丈夫。怖くない。怖く、ない……! ……うん。あまりここに長居して誰かに見付かっても困るし、さっさと中に入ってしまおうか」
鈍色屋敷の前、袋小路には古そうな民家が並んで建っている。その中には噂を恐れて家主が逃げ出した空き家もあるし、今もひっそりとお年寄りが暮らしている家もある。人の通りは少ないけれど、「可惜夜中の生徒がいましたよ」なんて通報されては困るよね。
門には立ち入り禁止の札と鎖が掛けられている。ひょいと鎖を飛び越えて、振り返った先輩はわたしに手を差し伸べる。
「藍野さん」
わたしは鎖に引っ掛けてしまわないようにスカートの端を左手で掴んで、右手で先輩の手を取った。優しく引っ張られ、敷地内に踏み込む。
外から姿が見えないようにレンガの塀に隠れてから、先輩はわたしのことを覗き込むように見た。
「折り紙、何枚ある?」
「何枚かは分からないんですけど、このまま持って来てます」
わたしはリュックから折り紙ケースを取り出した。たぶん、何十枚かは入っている。
「うわ、すっげえ量だな。嬢ちゃん、折り紙好きなんだな」
「わたしにできるのは、これくらいだから。できることを極めようとしたらこんなことになったの」
「藍野さん、動きの良さそうな乗り物か動物を折ってもらえるかな」
「ネズミでいいですか?」
「お願い」
灰色の折り紙を一枚、ケースから取り出す。
ここが谷折りで、そこが山折り。耳と尻尾を作って……。
小さくて素早いネズミのできあがり!
「できました!」
「作り方が頭に入ってるんだ、すごいね。おれは本の解説を見ないと金魚くらいしか作れないよ」
「この子に、この茂みの奥を調べさせるんですか」
「そうだね。あと何個かお願いしていいかな。何メートルか進んだら戻って来るようにして、斥候部隊にしよう」
「せっこう」
「先に行って様子を見て来る人のこと」
わたしは折り紙をさらにケースから出して、全部で五匹のネズミ部隊を作り上げた。「見事なもんだなぁ」とザクロが声を漏らす。
「少し進んだら戻って来て、状況を報告して。それの繰り返し。行っておいで」
地面に放つと、色とりどりのネズミ達は四方八方へ散っていった。静かに、ゆっくりと、少しずつわたし達は後を追う。
一歩、また一歩と進むにつれて周りが暗くなってきた。だんだん、木々の隙間から差し込む光が少なくなっていく。
敷地はかなり広い。まだ、建物が見えない。どこまで続くんだろう。
わたし達、このままこの林の中に溶けて消えてしまうんじゃないのかな。
「元々の家主の身に何が起こったのか、学校で七不思議としてささやかれる肝試しの話が実際にはどうだったのか。そこは不明なんだ。でも、分かっていることが一つだけある」
「それは?」
「屋敷を取り壊そうとした工事の人が怪我をした話。それは、空き家になった屋敷に住み着いていた妖怪のしわざだったんだ。当時この辺りに偶然立ち寄った流しの祓い屋が解決していて、以降は妖怪も住んでいない状態になっている。……というのが現状……の、はずなんだけど」
戻ってきたネズミに、危ないものがなかったかどうか聞く。すると、首を横に振ってネズミはまた滑るようにして茂みに飛び込んで行った。
「でも、先輩。何かが出入りしているから調べるんですよね」
「そう……。件の祓い屋が結界を仕掛けたらしくて妖怪は立ち入れないようになっていたはずで……。だから、その結界が壊れてしまっていないかどうかっていうのを調べるのもおれの仕事。結界は無事なのか、何が出入りしているのか、その二つを調べる」
「もし、結界が壊れていて危険な妖怪がいたら」
「その時は大人の祓い屋に頼むしかないかな。おれじゃ、戦えないし。弱そうな妖怪が出入りしているとか、野良猫とかならいいんだけどね」
「もし、幽霊だったら……」
ネズミの後を追って歩き出していた先輩の動きが止まった。壊れてしまったロボットのように、ぎこちない動きで振り返る。
この人、本当にホラーが苦手なんだ。
「それは……。その時は、幽霊の専門家……例えば霊能力者とか、そういう人を探して頼むしかないんじゃないかなぁ。祓い屋も妖怪も幽霊とは戦えないし……。ゆ、幽霊じゃないといいなぁ」
と、今にも震え出しそうになりながら先輩は言う。そうして再び前を向いて歩き出したところで、目の前の茂みが大きく揺れた。折り紙のネズミの動きじゃない。
直後、ぼろぼろになって破れたネズミが飛び出して来た。
「おい、何か来るぞ! 構えとけミナト!」
ザクロが叫び、そして、大きな影がわたし達の前に勢いよく現れた。それは「わん!」と力強く吠えた。黒くて、毛むくじゃらだ。
「で、出たー!」
動転した先輩が悲鳴を上げ、わたしの腕を掴んで逃げ出した。あれは犬なのでは? というわたしの声は先輩の耳には届かない。
情けなさすぎる泣き声を上げて走る先輩に引っ張られながら、わたしはその日、鈍色屋敷を後にした。
