放課後の商店街は、いつもの賑わいをどこか失いかけていた。
 灰色の雲が低く垂れ込めば、通りを行き交う人々も足早になる。
 心羽はその一角に立ち尽くしていた。手には駅前のコンビニで買ったばかりのビニール傘、そしてもう片方の手には栞を挟んだ文庫本。濡らしたくなかった。だから立ち止まったのに、足は動かない。
 吹き抜ける風に細かな雨が舞い込んでくる。制服のスカートの裾が冷たく張り付き、心羽は小さく肩をすくめた。
(また雨……今日は寄り道せず帰るはずだったのに)
 そんな時だった。背後から軽快な足音。
「心羽?」
 振り返ると、和成がいた。
 クラスでも目立つ存在。誰にでも人懐っこい笑顔を向ける彼は、片手に透明な傘を差し、少し息を弾ませていた。
「傘、持ってなかった?」
 彼の視線が心羽の手元を見て首を傾げる。
 心羽は小さく首を横に振った。
「じゃ、一緒に入ろうか」
 ためらいなく差し出される傘。その真っ直ぐさに、心羽は言葉を失った。
 結局、うなずいてしまう。
 二人で並んで歩くと、傘の内側は思っていたよりも狭い。肩と肩が触れそうで、心羽の心拍数が上がっていく。
 和成は何事もないように話を続ける。
「心羽って、いつも本読んでるよな。今日も?」
「……うん」
「何読んでるの?」
 一瞬言いかけて、心羽は唇を噛んだ。好きな作家の名前を言えば、変に思われないだろうか。自分の好きなものを話すとき、いつも不安になる。
 和成はそれ以上追及せず、傘を少し傾けて彼女の肩が濡れないようにした。その仕草が、妙に胸に刺さる。
 雨音が二人を包み込み、沈黙が訪れた。
 その時、遠くから二人を見ている影があった。
 幸輝――和成の幼なじみ。独立心が強く、誰にも頼らない主義の彼は、腕を組んで二人をじっと見つめていた。
「……またかよ」
 小さく呟き、傘も差さずにその場を去った。
 夜、心羽は布団にくるまり、スマホを握っていた。
 LINEの通知。和成から『今日はありがとう』とだけ送られている。
 何て返せばいいのかわからない。打ちかけた「こちらこそ」を消して、スマホを伏せた。胸がきゅっと締め付けられる。
 そのころ幸輝は一人、部屋のベッドに座り、天井を睨んでいた。
(あいつ、また人の世話ばっかり……)
 呟いた声は、誰にも届かないまま、夜に溶けていった。

 翌朝、心羽はいつも通り無表情で教室に入り、席についた。
 机にカバンを置きながら、ふと窓の外を見ると、和成が誰かに囲まれて談笑している。相変わらず明るい。
 ふと目が合った。和成が笑顔で手を振る。心羽はとっさに視線を逸らした。
(なんで……こんなに意識してるんだろ)
 ホームルームが終わった後、はるかが心羽の席に近づいてきた。
「ねえ、今日の昼、一緒に食べない?」
 彼女は少し不安げで、それでもどこか必死な笑顔だった。心羽は一瞬迷ったが、頷いた。
 昼休み、二人で弁当を広げると、はるかはぽつりと言った。
「心羽ちゃんって、和成くんと仲いいの?」
「……別に」
「そうなんだ」
 彼女は寂しそうに笑った。場の空気を読むのが苦手なはるかでも、今の心羽が少し緊張しているのを感じ取っていた。
 その時、教室の入り口を和成と幸輝が通った。
 和成は一瞬こちらを見て笑みを浮かべたが、幸輝は目を合わせないまま歩き去った。
 放課後、和成は体育館裏で幸輝を呼び止めた。
「お前、最近なんかおかしくない?」
 幸輝は少し目をそらして呟く。
「……別に。ただ、お前が誰にでも優しくするの、やっぱ嫌いだ」
 その言葉は棘のように響き、和成は言い返せなかった。
 夜、心羽は机に向かって宿題をしていた。
 けれど手は止まり、スマホを手に取る。昨日のメッセージ。返信できずにいる自分に、ため息が漏れた。
(……なんで、こんなに怖いの)
 胸の奥に渦巻くこの感情に、まだ名前をつけられない。
【終】