Blue Moon〜小さな夜の奇跡〜

♣♣♣

「やれやれ。大変だったな、想」

病院を出てホテルへと戻る車の中で、マネージャーの本田がハンドルを握りながら想に声をかけた。

「とにかくあの女性に大きなケガがなくてよかった。まったく……、ファンの追っかけもここまでくると問題だな。俺がお前のフリして注意を引きつけるのは成功したけど、まさか関係ない人にぶつかってまでホテルに入ってくるとは思わなかった」

想は窓に肘をついて、流れる景色をぼんやりと見ている。

「だけどあの藤原さん、だっけ? ほんとにお前だってわかってなかったのか? 実はわかってて、あとでSNSでバラされたら大変なことに……」

いや、と想はようやく本田に返事をする。

「彼女は俺のことなんて、まったく知りませんでしたよ」
「本当か? 今どき想を知らない女の子なんているかよ?」
「いますよ、たくさん。俺、そこまでうぬぼれてませんから」

そう言いつつ、違うな、と頭の中で否定する。
最初はいつものように、どこかかっこつけていた。
抱き上げると顔を真っ赤にして焦った彼女に、ファンの子だからこんな反応をするのだと思った。
なるべく目を合わせないようにしていたが、名前の漢字を尋ねた時、小さい夜と聞いて思わず顔を上げてしまった。
視線が合い、マズイと思ったが、彼女はキョトンと小首をかしげて見上げてきた。
ファンではないにしろ、普通ならそこで気づいて、あ、この人!といった反応が返ってくる。
それなのにあの時の彼女は、微塵もそんなことを思っていない表情だった。

(間違いない。あの子は俺が誰かなんて、知りもしなかった)

それが嫌だとも、ショックだとも思わない。
むしろ、自分を知らない子がいてくれてホッとする。

『新進気鋭のシンガーソングライター 想』

自分のその肩書きを知らないでいてくれる方が、なぜだか安心した。

(小さな夜で、小夜……か)

あの時、彼女に名前の由来を聞きたくなった。
どうしてその漢字なのか、と。
もしかしたら、自分と似ているのかもしれない。
そう思った。

「セレナーデ……」

小さく呟くと、本田が「ん? なにか言ったか?」と聞いてくる。

「いや、なんでもありません」

そう答えると、想はまた窓の外に視線を戻した。