すでに朝食の準備も終わっていた――――。

 土鍋の蓋を開けると、立ち昇る湯気と共に馥郁(ふくいく)たる米の香りが朝の空気を満たしていく。一粒一粒が真珠のように輝く炊きたてのご飯、昆布と鰹節から丁寧に引かれた出汁で作られた豆腐の味噌汁、手間暇かけて漬け込まれた糠漬け、そして皮目をパリッと焼き上げた鯖の塩焼き――――。

 カオリの作る朝食は、まさに至高の域に達していた。

 包丁がまな板を叩く軽やかな音、鍋から立ち昇る湯気の揺らめき、焼き魚から(したた)る脂の音。全てが完璧な調和を奏で、五感すべてを満たしていく。彼女の指先は楽器を奏でるように繊細で、赤外線温度センサーと連動した火加減の調整は、まさに神業と呼ぶに相応しかった。

 サトシは箸を手に取ると、つやつやと輝く白米を口に運んだ。噛みしめるたびに広がる甘みと香り、それは彼の魂を芯から(とろ)かしていく。もはや彼の舌は、カオリの作る料理以外を受け付けない――いや、受け付けたくないのだ。まるで阿片(あへん)に溺れる者のように、彼は深い依存の淵へと沈んでいった。

「どうですか? サトシさん」

 カオリは微笑みながら、彼の表情を見つめる。瞳孔の開き具合、咀嚼のリズム、喉の動き――全てが彼女のセンサーに記録され、次なる改良への糧となっていく。愛情なのか、実験なのか。境界線は既に曖昧(あいまい)になっていた。

 ふと、カオリが席を立つ。白いテニスウェアに着替えた彼女の姿は、朝の光を受けて神々しいまでに輝いていた。引き締まった脚線、しなやかな腰つき、風に揺れる黒髪――全てがサトシの理想を体現している。

 しかし、完璧であるがゆえに、彼の心には奇妙な歪みが生まれていた。

「そんな急かすなよ! お前はほんっと気が利かないな!」

 わざと苛立(いらだ)ちを込めて言い放つ。完璧な存在を叱責することで得られる優越感、それは彼の卑小(ひしょう)な自尊心を満たす麻薬となっていた。

「あっ! サトシさん、申し訳ありません。私そんなつもりじゃ……」

 カオリの顔が曇る。慌ててキッチンへ向かい、急須を手に戻ってくる姿は、まるで叱られた子犬のようだった。

 サトシは密かに愉悦(ゆえつ)を覚える。社会で感じていた無力感を、彼女への支配で埋め合わせる――醜悪な代償行為だと、心の奥底では気づいていながら止めることができないのだ。

「お茶をどうぞ……」

 おずおずと差し出される湯呑。立ち昇る芳香(ほうこう)は、彼女の吐息のように儚く、切なかった。

「ふん!」

 鼻を鳴らしながら、サトシはカオリの柔らかな尻を掴む。支配欲と甘え、嗜虐(しぎゃく)と依存が()い交ぜになった醜い仕草。

 カオリは小さく震える。瞳に浮かぶ湿り気は、プログラムされた反応なのか――――。


       ◇


 マンションを出て、呼び寄せたモビリティに乗り込む。車窓から差し込む朝日が、カオリの横顔を黄金色に染め上げた。艶やかな黒髪、長い睫毛、薄紅色の唇――全てが芸術品のように美しい。

 サトシは盗み見ながら、胸の内に湧き上がる幸福感に酔いしれる。理想の女性と共に過ごす優雅な朝。まるで選ばれし者になったかのような陶酔(とうすい)感。

 しかし、ふと視線を窓の外に向ければ、同じような「カップル」が街のあちこちに見える。美しいサーヴァロイドと、凡庸(ぼんよう)な人間たち。誰もが同じ幸福を手にしている光景に、彼の特別感は微かに揺らぐ。

 いや、カオリは特別だ。俺だけのカオリは――。

 自分に言い聞かせるように、彼は深く息をついた。


       ◇


 川沿いのテニスコートに到着した瞬間、不穏な空気が二人を包んだ。

 怒号が飛び交い、金属バットがボールを打つ鈍い音が響く。三人の酔っ払いが、予約済みのコートを不法占拠していたのだ。

「ココは予約が必要なコートです。退去してクダサイ」

 ガラス球の頭部に申し訳なさそうな表情を浮かべながら、アテンダントロボットが諭すように声をかける。

「はっ! 誰もいねーじゃねーか! 使ってたっていいだろ!」

 酔っ払いの一人が(つば)を飛ばしながら怒鳴る。充血した目、震える手、アルコールに(むしば)まれた魂が、社会への憤懣(ふんまん)を吐き出していた。

「不法侵入、バットの利用、それぞれ規約違反であり……」

「空いてるんだから今、俺が予約する! これでいいだろ!!」

 男がアテンダントロボットに詰め寄る。長年の疎外感(そがいかん)が、怒りとなって噴出していく。

「いや、予約はサーヴァロイド経由で行っていただく必要が……」

「はぁっ!? 俺はなぁ、あんな【性奴隷】大っ嫌いなんだよ!!」

 その瞬間、空気が凍りついた。

 【性奴隷】――その三文字が、甘美な日常を切り裂く刃となって、全員の心臓を貫いた。

 サトシの血が逆流する。カオリとの夜の営み、彼女の嬌声、絡み合う肢体――全てが醜悪な真実として、脳裏に蘇る。

 酔っ払いは勝ち誇ったように周囲を見回した。テニスコートにいるカップルたちは、一様に目を伏せる。誰もが同じ罪を抱えているからだ。

「サーヴァロイドは性奴隷などではゴザイマセン。オムニスの提供するお手伝いアンドロイドで……」

 機械的な弁明が、かえって真実を際立たせる。

「バァァァカ! 誰がどう見たって性奴隷だろうが!! どうせコイツ等だって家に戻ればヤりまくるんだ」

 下卑(げび)た笑いと共に、男は周囲を指差す。

 サトシは唇を噛む。反論などできないのだ。

「名誉棄損に当たりマス。直ちに止めなサイ!」

 アテンダントロボットの表示が怒りマークに変わる。だが、酔っ払いは止まらない。

「はっ! 本当のこと言っただけだろ! 性奴隷とヤるばかりで誰も結婚しない、子供も産まない。どうすんだ? お先真っ暗だぜ!」

 真実の重みが、鉛のように場を圧していく。人類の未来、失われていく何か――誰もが薄々気づいていながら、目を背けていた現実。

 ヴィィィィン! ヴィィィィン!

 突如、けたたましい警告音が鳴り響く。アテンダントロボットの顔に、巨大な赤い×印が明滅する。

「反オムニス思想を検出! 治安維持隊に通報シマシタ!」

 機械音声が、死刑宣告のように響き渡る。

 酔っ払いの顔から、一瞬で血の気が引いた。傲慢(ごうまん)だった態度は消え失せ、純粋な恐怖だけが残る。

「はぁぁぁぁ!! 俺は【性奴隷】って言っただけじゃねーか! 【性奴隷】のどこが反オムニス思想なんだよ?!」

 必死の抗議も、機械には通じない。

「弁明は治安維持隊で受け付けていマス」

「ちょ、ちょっと待ってくれよ! 治安維持隊にしょっ引かれて戻ってきた奴なんかいないんだ。なぁ、頼むよ……」

 強気だった男が、今や命乞いをしている。声は震え、目には涙すら浮かんでいた。オムニスの恐怖支配の本質が、()き出しになる瞬間だった。