鈴原さんが名刺を出してくれたが私は交換の意味で出す気にはなれなかった。私の職は基本は事務だが名刺は作ってあった。ただしあまり出番がないから、名刺は一向に減らないけれど。
まだ鈴原さんがどこの誰か、と言うことがハッキリ分からない今、身の上を明かすのはどうかと思った。
だけれど、そんな私の警戒心よりも鈴原さんの関心はもっぱら陽菜紀の“不在”の事実のようだ。
「参ったなー…」と言いながら、ちょっとせっかちな仕草でスマホを取り出し誰かに電話を掛けている。
程なくして
「……こっちもダメか。陽菜紀ー、俺。鈴原だけど。今下に来てンの。あと十分だけ待つからな」と電話に向かって喋っている。通話を切った後
「留守電にいっちゃいました。あなたも陽菜紀とお約束が?」
と、ここに来てようやく私と言う存在を思い出したように鈴原さんが切れ長の目をまばたきさせる。
「……ええ。19:30に。念のため私からも掛けてみます」
私もスマホを取り出し陽菜紀の番号をプッシュしたが受話口から聞こえてきたのは『留守番電話サービスへお繋ぎいたします』の虚しいメッセージだけが流れてきた。
私はメッセージを残さず通話を切り、鈴原さんと向かい合った。
何かが変だ。
そのときかすかな“悪い予感”と言うものを感じ取っていた。
陽菜紀は私が知ってる限り、約束をすっぽかす子じゃない。多少時間にルーズな所はあったけれど、今まで一度もドタキャンと言うことはなかった。
「どうしますか?」と鈴原さんに聞かれ、どうするべきか悩んだ。
陽菜紀の言っていることが正しければ、今日ご主人は出張とかでいない。
「私も……十分待ってみます」と、そう答えを出したときはすでに約束の時間を5分も過ぎていた。



