王太子妃の愛人に抜擢された夫が、3分で返品されたらしい


テオドア様が、マリアンヌ妃に不敬を働いて投獄されたというのだ。使者は、私にすみやかに出頭せよと告げてきた。

あの人は何をしでかしたのだろう……? 私は、そしてバルデン家は、どうなってしまうのだろう。恐ろしい予感しかせず、私も父も死人のように真っ青な顔になっていた。

「ユディット……これは、一体……」
「大丈夫よ。お父様。私が確認してくるから、領のことをお願いします……」


緊張で震えそうになりながら登城した私だが、王城での扱いは思いのほか丁寧だった。応接室に通されて、まずは侍従から説明を受ける。

「ユディット夫人。あなたのご夫君は、王太子妃殿下への不敬で地下牢に投獄されています」
「はい」
「ご夫君は謁見の場で『私をお求めで?』などと王太子妃殿下に迫りまして……。『無礼者!』と叱責され、そのまま連行されました」
「……はい?」
「謁見開始から連行まで3分足らずという、極めて迅速かつ衝撃的な事件でした」
「……………………」

――なんなの、それは。
相槌を打つことさえ忘れて、私はただ茫然としていた。

マリアンヌ妃は、愛人としてテオドア様を求めたはずでしょう? なのに、謁見直後に不敬罪とは。テオドア様は何をしでかしたのだろう。

私は頭が真っ白で、ソファに埋まるように脱力していた。――するとそのとき、マリアンヌ妃が現れる。彼女とともに、王太子ルイス殿下も入室してきた。我に返って礼をすると、ルイス殿下は「楽にしてくれ」とおっしゃった。

私の対面のソファには、マリアンヌ妃とルイス殿下。マリアンヌ妃はお茶会のときと変わらない輝きだが、その美貌には不快な感情が隠されることもなく刻まれていた。

「あなたのご主人、大変な非礼でしてよ! 勝手に勘違いをして、愛人などと……わたくしが、そんなものを求める訳がないでしょう!」

ルイス殿下が、控えめに苦笑しながらマリアンヌ妃に声を掛ける。
「落ち着きなさい、マリアンヌ。この国にそう言う悪習慣があることを、事前に忠告したじゃないか」
「でも……まさか本当に、いきなりあんなことを言われるなんて!」
「君の怒りはよく分かったから」
「あなたはよく落ち着いていられますわね。わたくしたちの不仲を疑われたも同然でしてよ?」
「言いたい者には言わせておこう。私達の仲睦まじさは、いずれ国中に知れ渡るだろうから」
「もう……ルイスったら、優しすぎますわ。そんなところも、……好き」
「私もさ。君を妻に迎えられて、私は本当に幸せだよ」

私の目の前でマリアンヌ様たちが糖度の高い会話を始めた。私は完全に部外者だと思うのだが、直視していて良いのだろうか。

……というか、不仲な夫婦だと思っていたが、実際は違うのだろうか。

新婚夫婦は互いを見つめ合っていたが、やがて同時に私のほうをふり向いた。ふり向く速度もタイミングも息ぴったりだったので、私はビクッとしてしまった。

「それはそうと。わたくしが呼び出そうと思ったのは、あなたでしたのに。あなたの不敬な夫が、勝手に勘違いをして愛人などと。本当に失礼ですこと」
「私……ですか?」
「ええ。お友達になっていただきたくて」

耳を疑った。こんなに高貴で眩しいマリアンヌ妃が、没落寸前の貧乏伯爵家の私と友達になりたいなんて……。一体、何の目的で……?

混乱する私に、マリアンヌ妃は微笑みかけた。
「幼い頃のこと、お忘れかしら?」
「……え?」
「川でおぼれていたとき、助けてくださったでしょう?  わたくしは、片時も忘れたことはありませんでした」
——あ。

私は目を見開いていた。
……まさか。あの小さな女の子が……?

マリアンヌ妃ははにかむように笑っていた。頬を染めたその美貌は、お転婆少女のそれだった。
「ずっとお礼を言いたかったのです。でもお忍びでしたので、身分を明かすことを許されておらず。これからは、正式に友人としてお招きできると思って」

私は、込み上げてくるものを抑えきれなかった。
「妃殿下……」
「そんな堅苦しい呼び方はおやめになって。ところでユディットさん、あなたの家のことをいろいろと調べさせてもらいましたのよ」

――私の家?
さっきまで笑っていたマリアンヌ様が、急に眉間にしわを寄せた。

「……まったく許せませんわね、リルケ侯爵家は! ねえ、ルイス、あなたもそう思いますでしょう?」
「ああ」
と、王太子殿下も静かに首肯している。
「リルケ侯爵家の悪行を、王家として看過する訳にはいかないね」
「でしたらリルケ侯爵家なんて、取り潰してしまえばよろしいのではなくて?」

マリアンヌ様が、いきなり過激なことを言い出した。
リルケ侯爵家を取り潰す……? テオドア様の不敬の責任を取らせるために、生家のリルケ侯爵家を潰そうというのだろうか。……婚家のバルデン伯爵家ではなく?

「マリアンヌ、それはあまりに短絡的だ。侯爵家を潰すとなれば、その余波は小さくない。ユディット夫人、君はどう考える?」

「……マリアンヌ様のお優しさをありがたく思いますが、テオドアの監督責任はリルケ侯爵家ではなく、当家にあるかと存じます。度重なる水害により疲弊している我が領を、長きに渡って支援してくれているリルケ侯爵には、深い恩を感じておりますので」

マリアンヌ様は、不満そうに唇を尖らせた。
「……あら。水害の原因がリルケ侯爵だったと知っても、同じことが言えますの?」

理解が追い付かず、私は言葉を失った。すると、ルイス王太子殿下が応接テーブルに書類を置いて私に告げる。

「隣国から招いた特任研究官が、バルデン領の水害に不審な点があると気づいた。バルデン領の上流にあたるリルケ侯爵領ではここ数年、木材の輸出量が急増している。公表されていない林業が進められている可能性があるとして、先日、王家が極秘に現地調査を行った」

王太子殿下は、さらに続けた。

「その結果、特定の森林が乱伐状態になっているのを確認した。……分かるかい? 過剰な森林伐採は地面の保水力を奪い、水害の引き金になる。つまり、下流のバルデン領での水害は、自然災害ではなく人災だ」

「そんな! なぜ……。だってリルケ侯爵は、バルデン領を支援してくださっているのに」
「支援の見返りを求められているのではないか?」

その一言に、私は息を呑んだ。
――ある。

当家に可能な数少ない返礼として、名産のバルデン藍を独占的に取引する契約を交わしている。バルデン領でしか採れない貴重な染料――至高の青と呼ばれるバルデン藍を、リルケ侯爵家は支援の名のもとに独占していたのか。

「答えが見えたようだね」
王太子は、穏やかな視線をこちらに注いでいる。

「ユディット夫人。君の夫には、マリアンヌを侮辱した責任を取らせる。だが、君やバルデン伯爵家に連座させるつもりはない。償うべきは彼の生家――リルケ侯爵家だ。法のもとに厳正な裁きを下す。そしてバルデン伯爵家には、これまで以上の支援を誓おう」

「……! ありがとうございます」



――そこから先は、あっという間。
テオドアはしばらく地下牢で拘束されていたが、その後速やかに裁きが下され、私とは離縁となった。彼への罰は、リルケ侯爵の管理下による生涯謹慎――。

謹慎というと生ぬるく聞こえるかもしれないが、実際はかなり悲惨だ。出戻った先のリルケ侯爵家がテオドアを厚遇するはずもなく、牢獄同然の環境に閉じ込められているらしい。生涯出ることは許されず、しかも『脱走を図った際には絞首刑』というオマケつきだ……。浮かれた伊達男の末路としては、妥当なところではないだろうか。

リルケ侯爵家はテオドアの件とバルデン領に被害を与えた一件により、貴族議会と宮廷への3年間の出入り禁止処分を言い渡された。リルケ侯爵の社会的信頼は大きく失墜し、交易先からの契約打ち切りや後援者の離反といった実害もすでにでていると聞く。もちろん、当家への賠償金も支払うことになっている。

一方の私は、今や王太子妃殿下の友人という名誉ある立場になった。王家の手厚い支援のもとで治水事業も着実に進み始めており、父も私も領の復興に励んでいる。被害がすぐに癒えることはないが、未来を信じる気配が領内には満ちている。

私達は、ようやく明るい未来へと進み始めたのだ。

   *

――今日は久しぶりにマリアンヌ様にお会いする日だ。
最近では2か月に一度ほどの頻度で自領と王都を往復し、マリアンヌ様と紅茶を楽しんでいる。お土産としてバルデン藍で染めた織物をお贈りし、マリアンヌ様はそれを素敵なドレスに仕立ててくださるので社交界でも大評判だ。

今日も、マリアンヌ様は私を嬉しそうに迎えてくださった。
「お待ちしていましたわ。実は、ユディットに会わせたい人がいるのです」
「まあ、どなたでしょう」

そこに現れたのは、目を奪われるほどの美青年だった。年齢は、マリアンヌ様よりいくつか上。顔立ちはマリアンヌ様と似ていて、艶やかな黒髪と深緑の瞳。
この人には、見覚えがある。
川でマリアンヌ様と私を助けてくれた、あの方――。

「ねえ、ユディット。この人を、覚えているかしら」
「ええ。それはもちろん……!」

再会の嬉しさと精悍な美貌を前にした緊張で、私は頬を熱くしながら礼をした。

「わたくしの兄、ヴィクトールです。兄はわたくしの祖国の第七王子なのだけれど……少し変わり者で、臣籍降下して学者になってしまったの。今は技術協力で特任研究官としてこの国に派遣されていて、バルデン領の水害の原因を突き止めたのも彼なのですよ」

驚きに目を瞠る私に、ヴィクトール様は言った。
「久しいですね、ユディット嬢。幼い頃は、きちんとした礼もできず心苦しく思っていました。……あなたが救ってくれなければ、マリアンヌは今、ここにいなかったはずです」
「そんな。私はただ、一緒に溺れていただけで……」
「いや、あなたのおかげで手遅れになる前に発見できました。あのときの恩を、ようやく返せるときが来たことを嬉しく思います」
「……え?」

マリアンヌ様が、子どもみたいな明るい笑みを浮かべている。
「治水事業の支援として、この特任研究官ヴィクトールをバルデン領へ派遣しようと思っているのです。……どうかしら、ユディット? 彼、とても優秀よ」

もちろん断る理由はない。私は、恐縮しながらも歓喜に震えた。
「それはもう……喜んで!」

「でもね、お兄様は変わり者なの。王族の立場を離れて研究一辺倒。……おかげで、いい歳をして結婚どころか婚約者さえいませんのよ?」
「……うるさいぞ、マリアンヌ。」
「あら、本当のことではありませんか」
仲睦まじく言い合う兄妹を見ていたら、目が潤んできてしまった。

希望にあふれた自領の未来と、過去に結ばれた優しい絆に、胸の高鳴りが止まらない――。