結婚は不幸の始まり――。
有名な哲学者の言葉だそうだが、なるほど真実だったらしい。私とテオドア様との結婚がまさにその例である。
私が14歳のときに交わされた婚約――そのお相手が、隣領・リルケ侯爵家の四男であるテオドア様だ。当時の彼は17歳。見る者をとろけさせるような甘い美貌の持ち主で、立居振る舞いが洗練されている。私のこともフィアンセとして常に気遣ってくれていた。
でも、私は不安だった。私の容姿など彼に比べれば平凡なものだし、家格も遠く及ばないからだ。
しかも私が嫁ぐのではなく、彼がこちらに婿入りする形である。私はバルデン伯爵家の一人娘であり、次期当主となる身。彼は当主の夫として、一緒に伯爵領を管理することになる。テオドア様は、内心では不満に思っているのではないか……そんな不安が拭えなかった。
しかしこの婚約は、先方からの強い希望によるものだった。家格だけ見れば先方とこちらは雲泥の差だが、両家は隣接する領を治める間柄である。テオドア様のお父君であるリルケ侯爵は、うちの領の名産である染料をたいそうお気に召していて、商取引で固い絆を育んでいた。
この婚約を父はとても喜んでいたし、天国の母も喜んでいたに違いない。だから私も、彼にふさわしい妻になろうと励んだ。
――でも、現実は残酷だ。
結婚式を終えたその日、テオドア様は豹変した。いや、本性を現したと言うべきか。
初夜に彼が寝室を訪れることはなく、それどころか、ふらりと屋敷を抜け出して歓楽街に行ってしまったのである。彼は相当に遊び馴れた男性で、入籍するまで誠実ぶっていたのだ。
朝帰りをした彼は、堂々と言ってのけた。
「正直に言うと、君みたいに華のない女性と関係を持つのは気が進まないんだ。お互いにまだ若いし、無理に事を済ます必要もないだろう? 跡継ぎが必要な時期になったら、そのときに頑張ってあげるから」
……あまりの羞恥と屈辱で顔が火のように熱くなる。一方で、胸の奥は氷のように冷たくなった。
彼の行動と発言はすぐに父の知るところとなったが、父がテオドア様を強く咎めることはできなかった。なぜならば、そのとき当家はかつてない危機に直面していたから。
領内のあちこちで、深刻な水害が続いていた。
幾筋もの河川が穏やかに流れ、肥沃な大地に恵まれているバルデン領。しかし十年ほど前から洪水による被害が増え始め、とくに近年は頻度も規模もひどいものになっていた。度重なる水害で領内は疲弊し、治水に費やしてきた財もいよいよ底をつきかけている。
王家の支援を受けてなお困窮し、リルケ侯爵からの個人的な援助によって辛うじて持ちこたえている状態だ。だから援助を受ける側の私たちには、息子のテオドア様を責めることなどできない……テオドア様もそれが分かっているからこそ好き放題なのだろう。
――それから2年。
テオドア様は今もなお、夜ごと街へと繰り出しては貴婦人方との逢瀬を楽しんでいる。
一方の私は、ただひたすらに耐える日々。耐えるだけならまだマシだ……先日など、彼に裏切られたという令嬢が屋敷に押しかけて、その対応までさせられた。どうして夫の過去の女性にまで、私が対応しなければならないのだろう? 悔しくて、情けなくて涙も出なかった。
それでも、私には夫のことばかり考えている暇などない。
私はこのバルデン伯爵家の一人娘であり、父を支える次期当主なのだから。傷ついた領地を立て直すために、前を向くしかないのである。
「お父様、行って参ります」
私は護衛を伴って、馬車に乗って領内視察へと向かった。本来ならば、次期当主の夫であるテオドア様も同行するべき視察だが、彼はもちろんここにはいない。3日前から屋敷を不在にしているので、きっと今頃は新しい恋人と甘い時間を過ごしているに違いない。
やがて目的の村に到着し、馬車の扉が開かれる。一歩踏み出した瞬間、顔が曇ってしまった。
――なんて物悲しい景色なの。
かつては領内屈指の観光地だった。色とりどりの季節の花と、水車の音が響く穏やかな川辺。集う人々の笑顔を今も鮮明に思い出せる。……でも度重なる河川の氾濫で村は荒れ、花畑は荒れて、水車は壊れたまま……。
ここは私の、大切な思い出の場所だったのに。
「お待ちしておりました、ユディット様」
村長が、村の若い衆とともに出迎えてくれた。
「昨年は税を減らしてくださり、ありがとうございました。堤防の補修にも、感謝の言葉もございません」
「……でも、まだ状況は芳しくなさそうね」
「はい……。こうも頻繁に川が溢れると、対応が間に合いません」
村の為に、今できることはないか――私が思案していると、村長がくしゃりとした笑みを浮かべた。
「ユディット様や領主様が気にかけてくださっているのは、わしらもよく分かっておりますよ。他の村も似たような有り様ですから、さぞやお忙しいでしょう。わしらも諦めてはいませんので、どうかそのような顔をなさらず」
……顔に出ていたのだろうか。民に気を遣わせてしまうなんて、上に立つ者として恥ずかしい。
「……ありがとう。あなたの言葉を聞くと、元気が出るわ」
「なに、わしはユディット様を小さい頃からよく知っていますでな。昔のあなたは、とてもお転婆で……。ほら、覚えておいでですか? 十年以上前のこと、川で溺れそうになっていたでしょう」
村長は懐かしそうに、昔話を口にした。
「あら。あれは……仕方なかったのよ。だって、私より先に溺れていた子がいたんだもの」
私は苦笑した。
あれは私が7歳の頃。当時、避暑地として賑わっていたこの川で、ひとりの少女が流されているのを発見した。年は私より1つか2つくらい下。身なりからしてどこかの貴族の子なのは間違いない。付き人の姿がないから、こっそり抜け出してきたのかもしれない。
気付いたときには、私は川に飛び込んでいた。当時の私は貴族令嬢としてはかなりのお転婆で、川泳ぎには自信があった。――が、判断が甘かった。ただ泳ぐのと、溺れた子を助けるのとでは話が違う。もがく少女に引きずられ、あっという間に川の流れに飲み込まれてしまう。
――このままでは、ふたりとも。
けれど、救いの手が差し伸べられた。
「結局、その子のお兄様が、私達ふたりを助けてくれたのよ」
10歳より少し上くらいの、少女とよく似た顔立ちの少年だった。黒髪と深緑の目が美しくて、でもその美しさが台無しになるほどの剣幕で、その少年は妹と私を怒鳴りつけた。妹には、付き人を振り切って勝手に抜け出したことを。そして私には、大人を呼ばず無謀に飛び込んだことを。
「……あのときは本当に、愚かなことをしてしまったわ」
「幼い子供のことですからね。ですが、ユディット様の正義感はあの頃から変わりませんな」
懐かしさが込み上げてきて、私は笑みをこぼしていた。
澄んだ河川と肥沃な大地、そしてここでしか採れないバルデン藍を用いた染色産業は、この領の誇りだった。
――もう一度、あの頃を取り戻すために。
私は自分の為すべきことをしよう。
有名な哲学者の言葉だそうだが、なるほど真実だったらしい。私とテオドア様との結婚がまさにその例である。
私が14歳のときに交わされた婚約――そのお相手が、隣領・リルケ侯爵家の四男であるテオドア様だ。当時の彼は17歳。見る者をとろけさせるような甘い美貌の持ち主で、立居振る舞いが洗練されている。私のこともフィアンセとして常に気遣ってくれていた。
でも、私は不安だった。私の容姿など彼に比べれば平凡なものだし、家格も遠く及ばないからだ。
しかも私が嫁ぐのではなく、彼がこちらに婿入りする形である。私はバルデン伯爵家の一人娘であり、次期当主となる身。彼は当主の夫として、一緒に伯爵領を管理することになる。テオドア様は、内心では不満に思っているのではないか……そんな不安が拭えなかった。
しかしこの婚約は、先方からの強い希望によるものだった。家格だけ見れば先方とこちらは雲泥の差だが、両家は隣接する領を治める間柄である。テオドア様のお父君であるリルケ侯爵は、うちの領の名産である染料をたいそうお気に召していて、商取引で固い絆を育んでいた。
この婚約を父はとても喜んでいたし、天国の母も喜んでいたに違いない。だから私も、彼にふさわしい妻になろうと励んだ。
――でも、現実は残酷だ。
結婚式を終えたその日、テオドア様は豹変した。いや、本性を現したと言うべきか。
初夜に彼が寝室を訪れることはなく、それどころか、ふらりと屋敷を抜け出して歓楽街に行ってしまったのである。彼は相当に遊び馴れた男性で、入籍するまで誠実ぶっていたのだ。
朝帰りをした彼は、堂々と言ってのけた。
「正直に言うと、君みたいに華のない女性と関係を持つのは気が進まないんだ。お互いにまだ若いし、無理に事を済ます必要もないだろう? 跡継ぎが必要な時期になったら、そのときに頑張ってあげるから」
……あまりの羞恥と屈辱で顔が火のように熱くなる。一方で、胸の奥は氷のように冷たくなった。
彼の行動と発言はすぐに父の知るところとなったが、父がテオドア様を強く咎めることはできなかった。なぜならば、そのとき当家はかつてない危機に直面していたから。
領内のあちこちで、深刻な水害が続いていた。
幾筋もの河川が穏やかに流れ、肥沃な大地に恵まれているバルデン領。しかし十年ほど前から洪水による被害が増え始め、とくに近年は頻度も規模もひどいものになっていた。度重なる水害で領内は疲弊し、治水に費やしてきた財もいよいよ底をつきかけている。
王家の支援を受けてなお困窮し、リルケ侯爵からの個人的な援助によって辛うじて持ちこたえている状態だ。だから援助を受ける側の私たちには、息子のテオドア様を責めることなどできない……テオドア様もそれが分かっているからこそ好き放題なのだろう。
――それから2年。
テオドア様は今もなお、夜ごと街へと繰り出しては貴婦人方との逢瀬を楽しんでいる。
一方の私は、ただひたすらに耐える日々。耐えるだけならまだマシだ……先日など、彼に裏切られたという令嬢が屋敷に押しかけて、その対応までさせられた。どうして夫の過去の女性にまで、私が対応しなければならないのだろう? 悔しくて、情けなくて涙も出なかった。
それでも、私には夫のことばかり考えている暇などない。
私はこのバルデン伯爵家の一人娘であり、父を支える次期当主なのだから。傷ついた領地を立て直すために、前を向くしかないのである。
「お父様、行って参ります」
私は護衛を伴って、馬車に乗って領内視察へと向かった。本来ならば、次期当主の夫であるテオドア様も同行するべき視察だが、彼はもちろんここにはいない。3日前から屋敷を不在にしているので、きっと今頃は新しい恋人と甘い時間を過ごしているに違いない。
やがて目的の村に到着し、馬車の扉が開かれる。一歩踏み出した瞬間、顔が曇ってしまった。
――なんて物悲しい景色なの。
かつては領内屈指の観光地だった。色とりどりの季節の花と、水車の音が響く穏やかな川辺。集う人々の笑顔を今も鮮明に思い出せる。……でも度重なる河川の氾濫で村は荒れ、花畑は荒れて、水車は壊れたまま……。
ここは私の、大切な思い出の場所だったのに。
「お待ちしておりました、ユディット様」
村長が、村の若い衆とともに出迎えてくれた。
「昨年は税を減らしてくださり、ありがとうございました。堤防の補修にも、感謝の言葉もございません」
「……でも、まだ状況は芳しくなさそうね」
「はい……。こうも頻繁に川が溢れると、対応が間に合いません」
村の為に、今できることはないか――私が思案していると、村長がくしゃりとした笑みを浮かべた。
「ユディット様や領主様が気にかけてくださっているのは、わしらもよく分かっておりますよ。他の村も似たような有り様ですから、さぞやお忙しいでしょう。わしらも諦めてはいませんので、どうかそのような顔をなさらず」
……顔に出ていたのだろうか。民に気を遣わせてしまうなんて、上に立つ者として恥ずかしい。
「……ありがとう。あなたの言葉を聞くと、元気が出るわ」
「なに、わしはユディット様を小さい頃からよく知っていますでな。昔のあなたは、とてもお転婆で……。ほら、覚えておいでですか? 十年以上前のこと、川で溺れそうになっていたでしょう」
村長は懐かしそうに、昔話を口にした。
「あら。あれは……仕方なかったのよ。だって、私より先に溺れていた子がいたんだもの」
私は苦笑した。
あれは私が7歳の頃。当時、避暑地として賑わっていたこの川で、ひとりの少女が流されているのを発見した。年は私より1つか2つくらい下。身なりからしてどこかの貴族の子なのは間違いない。付き人の姿がないから、こっそり抜け出してきたのかもしれない。
気付いたときには、私は川に飛び込んでいた。当時の私は貴族令嬢としてはかなりのお転婆で、川泳ぎには自信があった。――が、判断が甘かった。ただ泳ぐのと、溺れた子を助けるのとでは話が違う。もがく少女に引きずられ、あっという間に川の流れに飲み込まれてしまう。
――このままでは、ふたりとも。
けれど、救いの手が差し伸べられた。
「結局、その子のお兄様が、私達ふたりを助けてくれたのよ」
10歳より少し上くらいの、少女とよく似た顔立ちの少年だった。黒髪と深緑の目が美しくて、でもその美しさが台無しになるほどの剣幕で、その少年は妹と私を怒鳴りつけた。妹には、付き人を振り切って勝手に抜け出したことを。そして私には、大人を呼ばず無謀に飛び込んだことを。
「……あのときは本当に、愚かなことをしてしまったわ」
「幼い子供のことですからね。ですが、ユディット様の正義感はあの頃から変わりませんな」
懐かしさが込み上げてきて、私は笑みをこぼしていた。
澄んだ河川と肥沃な大地、そしてここでしか採れないバルデン藍を用いた染色産業は、この領の誇りだった。
――もう一度、あの頃を取り戻すために。
私は自分の為すべきことをしよう。



