薔薇の花言葉 [サファイア・ラグーン2作目]

 二日目となる翌朝から四日目の『授業』終了時まで、三人いたって真面目に修業に専念し、まもなく此処での生活も終わりに近付いていた。

 部屋が明るくなると共に起き出して、四人で朝食を取り、昼食や小休止を入れながら夕食の時刻まで集中する。授業以外はアーラ様もお喋りを楽しんだが、夕食後のお茶を済ませれば、決まってそそくさと自室へ籠られてしまった。

 そうなると途端に気まずくなるのはティアと僕だ。モカが気を遣って妹を部屋へ招き入れたり、僕の部屋にティアを連れて無理やり押しかけてみたり、不穏な空気にならないよう明るく取り繕ってはくれていたが、ティアの僕の気持ちを探ろうと見つめる真っ直ぐな瞳は変わらなかった。

 もちろん僕はそんなティアに戸惑っていた訳じゃない。こちらこそ彼女の真相を探ろうと見つめていたのだが、それによって得られた情報は、やはり焦りにも似た心からの叫びだけであった。

「モカ……ティアを少し借りてもいい?」

 そして四日目の夜。
 アーラ様が自分の白い扉の前まで戻られて、間髪容れずに隣のモカへ問う。彼女は少し意外そうな顔をしたが、すぐにいつもの意地悪そうな顔をしてみせた。

「いいわよ。でも『ちゃんと』返してよね」

 冗談とも皮肉ともつかない台詞を返して、自分のカップの紅茶を飲み干し、彼女もオレンジ色の扉へ向かったが、僕は緊張の面持ちで次の句を待つティアを促してあの砂浜を目指した。此処で話して聞かれても構わないのだが、やはり少し気恥ずかしい気がしたのだ。

「ジョエル……?」
「ん?」

 砂浜を背にして波打ち際に腰を降ろし、しばらくはティアの鱗を濡らす波と、目の前に広がる大海原を静かに見ていた。



「そう……そろそろ決めないとね……で、ティアの気持ちは変わらないの?」
「もっ、もちろんよ!」

 僕の言葉を待っていたティアの緊張は最頂点に達し、いつになく語気に力が入った。

「何故──?」
「な、何故って……だって、ジョエルの傍にいたいからに決まっているじゃない……」

 彼女は頬を赤らめて、人が両膝を抱えるように自分の下半身を折り曲げ、その頂に顔を乗せた。俯いて波を見つめる瞳が、恥じらいと先の見えない話の続きに対する戸惑いを示していた。

「だったら、どうして僕が人魚になるんじゃ駄目なの?」
「だって……!」

 いきなり振り向いたティアの瞳に、問いかける僕の表情が映った。彼女が動揺している分、こちらは穏やかだ。いや、そう努めているだけなのか。

「……人間の世界はとても広くて何でもあるわ。ジョエルはきっと帰りたくなる……何もない狭い結界の中で退屈にさせたくないの……」

 再び正面に顔を戻して背中を丸めるティアは、まるで捨てられた子猫のようだった。

「そんなこと、心配してたの?」
「そんなことって!」

 僕の軽々しい言葉に今一度振り向いた彼女は、今度は噛みつきそうな野良猫の表情をしていた。僕はぷっと笑って、

「結界が退屈なら、僕はとっくに行かなくなってたよ。人間の生活は物が溢れていて便利かもしれないけれど、僕にとってはそれだけさ。ティアが成人すれば二人で外界へ出られるし……いや、結界自体もいずれは神にお返ししなければならない。人魚になったら陸上へは上がれないけど、両親とも会えなくなる訳ではないし……海は陸より広いんだよ? 退屈することなんてないよ」

 そう言って笑いかける僕に返されたティアの驚きの顔は、けれど刹那に戻ってしまった。ティアを悩ませる根源とは一体何なのだろう。

「ティア……何を隠しているの? 僕が人魚になるのでは、何か不都合なことでもあるの? ティア、僕は──」
「駄目なの……」

 その大きな瞳から、大粒の涙が零れ落ちた。

「私はこのまま人魚でいたら駄目なのよ……このまま成人の日を迎えたら……私は……ジョエルと一緒に……いられなくなる……──」
「ティア……?」

 途切れ途切れ連なる涙声と共に、彼女はゆっくりと身体を魔法で宙に浮かせ、海とは真逆──砂浜を内陸へと飛び去ってしまった。

「ティアっ!!」

 咄嗟に追いかけたが砂に足を取られ、彼女のようには素早く進めなかった。いや……僕にも出来るのか? ルラの石を握り締めて願う。やがて石はいつもの涼やかな光で輝いて、僕を空中に浮かべ、テーベの石の光を目指して誘導した。

 ── 一体どういうことなんだ?

 人魚のままでは、僕といられなくなるなんて。

 浮遊する幾千幾万もの魂達の間を縫いながら、ティアの短い言葉の中から答えを導き出そうとしていた。
 人魚のままでは──成人の日を……成人の日に何があるっていうんだ!

「あ……あれか!?」

 その時途端に思いついた。全てが繋がった気がした。カミルおばさんと母さんの会話。ティアが僕を抱き締めて「人魚じゃない」と言ったことも──。

『ジョエルは……人魚じゃない……』

 ──でも。『人間でもない』僕──。

 何てこった。あの時のティアは僕に『人魚』であって欲しいのだと思っていた。でも逆だ。ティアは僕に『人間』であって欲しかったんだ!

「ちくっしょ……っ!」

 つくづく自分って奴が嫌になった。どうしてこうも鈍感なんだ。ティアの苦しみを、僕はちっとも分かっていなかった。

「ティアっ!!」

 やがてテーベの淡い翠色の光が遠く真正面に確認された。スピードを上げてティアの許を目指す。早く彼女に謝りたかった。早く彼女に僕の想いを伝えたかった。早く──。

 けれど徐々に大きくなるテーベの光を見つめながら、僕はそんな場合ではないかもしれないことに気付き始めていた。近付いたから大きくなっているんじゃない……?
 目の前には、膨大な大きさのテーベの光が、ティアを包み込んで浮かんでいた──。